お笑い芸人ハライチの岩井さん37歳が18歳年下の女性と結婚したことで、さまざまな憶測交じりの非難を浴びています。
ハライチ岩井結構好きだったんだけど37歳で19歳と結婚はちょっと…🫢って思ってたら出会いは6年前で相手の女の子が13歳の時って知って引いてる🤮今は成人してるとはいえ幼い感じの子だし13歳で出会った子を恋愛対象としてみれるって結構アウトじゃない? pic.twitter.com/qlB00XtHLY
— 𝑷𝒚𝒐𝒌𝒐🐇 (@nemuridaijin) 2023年11月13日
チュートリアル徳井(48)とチャラン・ポ・ランタンもも(30)が6年前からお付き合いしていて事実婚状態らしいけど、ハライチと同じ18歳差でも大違い
— はな (@m_aqap) 2023年11月14日
出会い方や付き合うタイミングって大事だね pic.twitter.com/opuEm2dD8T
ハライチ岩井さん37歳の結婚相手19歳の奥森皐月らしいけど、僕らの時代で『付き合う相手には天才と思われたい』って語ってたのを、19歳のまだ世間も知らない少女で実現したのね。#ハライチ #岩井勇気 #ハライチ岩井 #奥森皐月 #相手19歳 pic.twitter.com/j0cHXDwIy2
— デミタス木村x映画エンタメ (@demi_kimura) 2023年11月13日
さらにTwitterではこういった「歳の差婚」そのものを「キモい」と語るツイートがたくさん見つかるのですが、あるいは歳の差婚そのものというより「女性が十代での結婚」が問題視されていると見るべきかもしれません。
いや、「女性が十代である上に男女のあいだに年齢差がある結婚」というほうがより適切かな。
ただ、個人的には、すでに成人した女性が自分の意思で結婚相手を選んだことに対して、まったく無関係の外野がああだこうだと批判的に語ることはすこぶる醜悪だと感じます。
この結婚について訳知り顔で語っている人のほとんどは、そもそも当事者との面識があるわけですらなく、ただテレビで見た印象やマスコミが流す断片的な情報でてきとうなことをいっているに過ぎません。何ひとつ確証がないのだから他人の結婚を高みから貶すことは控えるべきです。
なるほど、それはたしかにこの結婚はうまくいかないかもしれない。
しかし、それをいうならだれのどんな結婚も失敗や離別の可能性を孕んでいるのであって、「うまくいきそうにないからやめろ」などと赤の他人がいいだすことはおかしいでしょう。
世間で「おしどり夫婦」などとさわがれた夫妻があっけなく離婚してしまうことは良くあることです。もちろん、その反対もある。
結局のところ、赤の他人の身勝手な判断なんてまるであてにならないのであって、自分でリスクを取って決定するしかないわけです。あたりまえのことですが。
いや、このような年齢や収入にギャップがある関係は常識的に考えてうまくいかない可能性が高いのだから避けるべきだという人もいるかもしれません。
しかし、そういった「まとも」で「正常」な関係だけが祝福され承認されるべきだという発想はリベラルな自己決定の原理の対極にある保守的な考えかたであり、アンチ・フェミニズム的といっても良いと思います。
昨今、なぜか女性を保護することに夢中になっているかに見えるフェミニズムですが、本来は女性の自由と権利を称揚する運動であったはず。
まともにリベラルな、あるいはフェミニズム的な考えかたをするなら本人の自己決定を容認するべきでしょう。
どうしてもこういう関係は「キモい」としか思えないという人もいるでしょうが、べつに「キモい」と思うなという話をしているわけではありません。
どんなに自分にとって気持ち悪く思える関係であっても自分と決定的に異なる価値観をもつ他者にとってはささやかな生の形であるかもしれないという想像力を持とうということなのです。
「自分には想像できないことがありえることをどうにか想像しようとすること」、つまりはそれが真の意味で「多様性(ダイバーシティ)」を尊重するということです。
いや、それでもだれかがみすみす不幸になることを見過ごせないという人もいるでしょう。
そういう人はまさにパターナリズム(父権主義)のワナに嵌まっています。いたいけな若い女性に対し、心優しい父親のようにかわりに決定し保護してあげようとするわけです。
しかし、それはまさにその女性を子供扱いし自己決定権を剥奪しようとする典型的な人権侵害です。
もちろん、この結婚で彼女がほんとうに幸せになれるかどうかはだれにもわかりません。
ひょっとしたら岩井さんはひどい男なのかもしれないし、言葉巧みに彼女をたらし込んだのかもしれない。真実はわからない。
けれど、そのすべてを含めてあくまで判断し決定するのは当事者たちであるべきであるわけです。
仮にこの結婚で当事者が傷つくことになるとしても、人には、みずから選んだことで傷つく権利があるんですよ。
そう、傷つくことも、苦しむことも含めて、その人自身の人生です。
まったくの他人が自分の「正しさ」を、まして「キモい」などという純然たる「お気持ち」を振りかざして「おまえたちはおかしい」と迫ることはきわめて暴力的かつ差別的な言動というしかありません。
その姿勢はまったく「女性の権利」を尊重したものではなく、むしろその反対、露骨に保守的かつオヤジ的なムーヴに過ぎないのです。
もしまったくその自覚がないとしたら、そのこと以上の暴力性はない。
心の底からその人のためだと信じながら、その実、彼女を蔑み、見下し、バカにし、「代わりに考えてあげようとする」。そのとほうもない残忍さ。
自分がされたらイヤだろうに、あいてのことを心から「自分とはべつだ」と信じているから平気でそういったマネをする。そういうことはしばしばあるものですが、今回もそのケースにあたるのではないかと思います。
なので、はっきりいっておきましょう。それはただの差別であり、暴力です。人間は常識的な人が考えるあたりまえの「正しさ」の枠内に都合よく収まってくれるような存在ではありません。
この世界に現実に広がる想像を絶するほどの「多様性」を、見よ。
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