なぜ、わたしたちは人を差別するのでしょうか?
ネットの俗語に「かわいそうランキング」という言葉があります。
元々は「白饅頭」こと御田寺圭さんがネットで提唱した言葉で、かれの著書『矛盾社会序説』でもその概念が説明されています。
つまり、この社会における弱者にはわりあいに「かわいそう」と感じられる人とそうでない人がいて、人はつい「かわいそう」と感じられる人(かわいそうランキングの高い人)にだけ同情してしまうという話です。
それはこの社会に「共感困難な弱者」がいるという話へつながり、そこからいわゆる「弱者男性論」が展開していきます。
世の中には色々な弱者がいるが、「かわいそうランキング」が上の弱者たちは援助や救済を受けることができる。その意味で「かわいそうランキング」が下の弱者男性たちこそがほんとうの弱者だというわけです。
御田寺さんはその上で「かわいそうランキング」に捕らわれず公正に判断することを訴えかけています。
しかし、思うに、たったひとつの「かわいそうランキング」がこの社会に実在していると見る考え方はあきらかにまちがえています。
じっさいには、無数の人々がその人なりの「かわいそうランキング」を持っていて、その尺度で「あの人はかわいそう、この人はかわいそうじゃない」と判断していると見るべきでしょう。
もちろん、それらすべてを俯瞰して統計的に見れば「その社会において主流のかわいそうランキング」を見いだすことは可能ではあるでしょうが、「かわいそうランキング」論を根拠に中年男性こそが現在の社会において最弱の存在であると見るロジックはいささか根拠が怪しそうです。
べつだん、だれもが中年弱者男性に対し嫌悪を抱くわけではなく、「むしろそういった人こそがかわいそうだ」と感じる人もいるのですから。
そもそも御田寺さん本人が弱者男性にすこぶる肩入れする一方で、若い女性に対してはきわめて冷淡であるように見えます。
それは若い女性一般が「かわいそうランキング上位者」であり、同情に値しないからでしょうか?
そうではないでしょう。若い女性のなかにも、共感されづらい状況に陥っている人はたくさん存在する。
ホストクラブに入れ込んで大金を使ってしまう「ホス狂い」の女性はその典型です。
ネットの世論を含む社会が彼女たちに対して冷淡なのは、あきらかに「かわいそうランキング」が低いからでしょう。
もし、「かわいそう」という感情をある種の差別とみなすなら、ここには明確にその感情が見て取れます。
結局のところ、「かわいそうランキング」を批判する人ですら、そのランキングから完全に自由でありえるかというと、まったくそうではなく、世間的な意味でのランキングは相対化することができても、やはり自分なりのランキングは持っているということ。
ここからは、ある種の逃がれがたい「差別」を発見することができるでしょう。
しかし同時に、現実的に考えて、一切の存在を平等に、公正に扱うといったことはほとんど不可能であるように思えます。
ひっきょう、人は差別しなければ生きていけないのです。
ここでわたしが思い出すのが、坂口尚の傑作『あっかんべェ一休』です。
この作品のなかでは、主人公の一休は「悟りの境地」をめざして「心のチリ」を払おうと懸命に努力するのですが、師からおまえは差別していると告発されてしまいます。
そもそも世界を「清浄」と「汚濁」に分け、「悟り」に至ろうとする心そのものが差別的だというわけです。
悟りをめざして日々修行にはげむ一休ですら差別の心と無縁でいることはできないのです。まして、わたしたち属人が差別心と無縁でいられるはずなどないと考えるべきでしょう。
人は結局、ある対象に対しては「かわいそう」と思う一方で、べつの対象に対しては「全然かわいそうじゃない」とみなすことから逃れられない。
わたしがそこから連想するのは、アニメやゲームの美少女に対しては強く「かわいそう」と感じるらしいオタク男性たちが、しばしば現実の女性に対しては徹底的に冷淡だったり攻撃的だったりすることです。
『あっかんべェ一休』的にいえば、そこには「差別の心」がありそうに思えるわけですが、いったいなぜそのようなことになるのでしょうか。
それはもちろん、フィクションの美少女たちが一般にかわいそうらしく振る舞うのに対し、現実の女性たちはそうではないからでしょう。
ここでまた、わたしはマンガ研究科の伊藤剛さんがいまから20年くらい前に提唱していた「ピティ萌え」という概念を思い出します。
多数のオタクの涙を誘ったフィクションの美少女たちはいたってイノセントで「ピティ(哀れ、かわいそう)」な存在である一方、現実の女性はもっと複雑な存在なのです。
したがって、多くのオタクは彼女たちのことを「かわいそう」と認識することができません。
たとえ、じっさいに苦境に陥っていることがあきらかであっても、「自己責任」、「自業自得」と切り捨ててしまいさえします。
これを最も広い意味での「差別」といえばそうでしょう。
しかし、くりかえしますが、べつにそういう「差別」を行っているのはオタクだけではない。人は一般に無自覚に差別しなければ生きていけない存在なのです。
この種の差別に対しきわめて敏感だったのが、たとえば詩人で童話作家の宮沢賢治です。
賢治は詩集『春と修羅』のなかで、亡くなった妹のトシの冥福を祈る心理をこのように描き出しています。
みんなむかしからのきやうだいなのだから
けつしてひとりをいのつてはいけない
ああ わたくしはけつしてさうしませんでした
あいつがなくなつてからあとのよるひる
わたくしはただの一どたりと
あいつだけがいいとこに行けばいいと
さういのりはしなかつたとおもひます
「けつしてひとりをいのつてはいけない」。
あいつ(トシ)だけが「かわいそう」だから「いいとこに行けばいい」と思う心が「差別」でしかありえないことを、賢治ははっきりと意識していたわけです。
しかし、それでも、そのような「差別」の心を捨て去ることはできず、ただ「さういのりはしなかつたとおもひます」と濁していることが切ない。
聖人ならぬ人間が、どうして血を分けた妹をとくべつに愛しく思う心を捨てられるものでしょうか。
そもそも、人間はそういった一切の「差別」を捨てるべきなのでしょうか。
そうした努力の末に行き着くところは『Fate/Zero』の衛宮切嗣のような、人間を単なる数としてしか見ない境地なのではないでしょうか。
山本弘『アイの物語』には、論理や倫理と「愛」を整合させた人工知能のマシンたちが登場しますが、作家はその「愛」を具体的に描き出すことができません。
当然です。「愛」とはすなわち差別であり、一切差別のない「愛」とはそもそも矛盾なのですから。
だからこそ、わたしたちは「かわいそうランキング」から自由でいることはできない。
あるいはそれが「差別」であるとわかっていても、どうしたって自分にとって親しい、共感可能な存在のことを「かわいそう」と見ることから自由であることはできないのです。
仮にそういった「愛」や「共感」からまったく自由になったとしたら、そこに倫理は残るでしょうか? すべての対象に平等に価値を見出すことは「すべてがどうでも良い」こととうらはらなのでは?
マンガ『風の谷のナウシカ』のクライマックスで、ナウシカは敵対する「墓所」を新世界の可能性とともに焼き払いましたが、これは広く世界全体を見下ろす立場からすれば愚かな行為であったかもしれない。
けれど、その時代に明快に所属するナウシカの「立ち位置」からは必然の行為だった。
ナウシカはその意味で神のように公平であろうとすることから離れ、「差別」を引き受けているのです。これをどう見るか。
だから、わたしたちにまず必要なのは、自分が「かわいそう」と思うあいてにしか興味を示さない差別者であることを認めることです。
その上でどうにか公正であろうとすることくらいしか人にはできない。
わたしたちはだれもがみな差別者であり固有の「かわいそうランキング」を持つ存在なのです。
まずはその現実を、直視せよ。
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