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「原作に忠実」という幻想、「原作の改変」という課題。

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 それでは、記事へどうぞ。

 

【「原作に忠実」とは?】

 もう皆さんご存知のことと思うが、『セクシー田中さん』などの作品で知られる漫画家の芦原妃名子さんが亡くなられた。自殺だったと報道されている。

 また、その裏には作品のドラマ化に関するトラブルがあったことも語られている。

 Twitterやnoteなどのソーシャルメディアではやれ脚本家が悪いの、いやプロデューサーが主犯だのと悪者さがしが行われているが、ぼくはその点に関してはいうべき言葉を持たない。

 ぼくとしては一切の自制も自省も知らないかに見えるネットの言論に関して非常に批判的な立場であるが、そのことはべつの機会に書くことにしよう。

 今回記したいのはある作品の二次展開にともなう「原作に忠実であるべき」という主張についてである。

 芦原さんの悲劇はドラマ制作側が当初の約束に反して原作を改変したことに起因すると語られており、これは一見すると正当な主張であるかと見える。

 しかし、もう少し踏み込んで考えてみると、また違う景色が見えてくる。

 そもそも「原作に忠実」とは何を指しているのだろう。まず、メディアが異なる以上、「原作をそのままにコピーすること」は原理的に不可能である。

 ストーリーそのものは原作をなぞったとしても、必然的に演出は異なることとなる。わかりやすいのはたとえば『DEASH NOTE』のアニメ版などだろう。

 基本的な展開は原作をなぞっているのだが、過剰なまでの個性的な演出は原作とはまったく異なる雰囲気をかもし出していた。

 じっさいのところ、どれほどストーリーを「忠実」になぞったとしても、演技や演出しだいで物語の印象はまったく変わって来るのである。

 そうやって個性的な「改変」が加えられた作品をはたして原作のファンや消費者が「忠実な映像化」とみなすかどうか、個人的にはかなり疑問なところだ。

 そして、こういった「演出レベルでの印象の改変」はメディアが異なる以上、絶対的に不可避でもある。

 極論するなら「原作に忠実な映像化」は論理的に不可能だということ。したがって、結局のところ「原作に忠実かどうか」とは単なる「印象」の問題にしか過ぎない。

 「原作に忠実な映像化」とは、つまり「原作に忠実であるかのように錯覚させる演出がほどこされた映像化」なのである。

 こう書いても、納得がいかない方も少なくないかもしれない。いや、重要なのはストーリーであり、今回問題となったのはストーリーのレベルでの改変が行われたからなのだ、と。

 一理ある。じっさい、原作のストーリーを根幹から改変してしまった結果、いったい制作スタッフは原作の何を映像化したかったのだろうかと疑問に思われる例も少なくない。

【原作の改変】

 

 単純に出来が悪いのではなく、そもそも原作の要素がほとんど残っていないのだ。最近ではその最もわかりやすい例は『ハルチカ』あたりだろうか。

 初野晴さん原作のミステリ小説の映画化だが、ミステリ要素がほとんど残っていない恋愛映画になってしまっている、らしい。

 「らしい」と書くのは映画のあらすじを見た時点で呆れてしまって本編を見ていないからだが、ネットに上がっている感想の類を読む限り、原作のオリジナリティが大きく削がれているのは間違いないようである。

 これはあまりに極端な例ではあるが、原作のストーリーを大きくねじ曲げてしまったため、原作の長所、魅力を殺してしまっている映像化は少なくない。

 ストーリーの大筋を大きく曲げないことは映像化の成功を測る際、きわめて重要な基準であるといえる。

 ただ、それならストーリーさえ「原作に忠実」であれば映像化はそれで良いのだというものではないだろう。

 じっさい、ストーリーの大枠さえ取れば「原作に忠実」であるにもかかわらず、原作の魅力を再現するに至っていない作品は存在する。

 また、ただ原作の魅力をそのままに再現していても、それはそれで映像作品としては物足りないということもある。

 「単なる原作のデッドコピーに過ぎないなら原作を読めばそれで良く、映像としての魅力も意味もない」という問題が存在するわけである。

 前述の理由により映像を原作のデッドコピーと感じさせることそのものが非常にむずかしいわけだが、仮にそのことに成功したとしても、それは必ずしも最良の映像化とはいえないだろう。

 それでは、理想的な映像化とはどのようなものなのだろうか。ぼくは昔、ある作品の二次展開について「わかってる度」という概念を提唱したことがあった。

 これは「映像化の際、そのスタッフがどれだけ原作を「わかっている」か」を示す尺度で、「その作品のコア」に対する理解度が決定するのだという考え方が元になっていた。

 いい換えるなら、ある作品の映像化はべつだん、ストーリーが「原作に忠実」でなくてもかまわないということである。

 人気作品の映像化に際してはしばしば「愛」や「リスペクト」といった言葉が多用され、「愛があるか」、「リスペクトが感じられるか」が重要であるとされる。

 しかし、ほんとうに問題なのはその「愛」や「リスペクト」の具体的な中身なのではないだろうか。

 つまりは映像化の際、何がどうなっていれば視聴者が「愛」や「リスペクト」を感じられるかということが真の問題なのであって、単にストーリーの内容が原作を忠実になぞっているものであればそれで良いというものではないはずだ。

 じっさい、原作にさまざまな要素を足したり引いたりしているにもかかわらずいまなお名作として語り継がれる作品も存在する。

 それらの作品は、内容を改変してはいても原作の「コア」をしっかりと把握していたのだと考えられる。

 以下の発言で語られている「譲れない一線」も、ぼくがいうところの「コア」と同じような概念と見て良いだろう。

【作品のコアとは?】

 

 それでは、「コア」とは何なのだろうか。むろん、ケースバイケースとしかいいようがないが、その作品のテーマであったり、コンセプトであったりするのだろう。

 その作品をその作品たらしめている魅力の源泉。二次展開に際しては、まずは、ここを正確に押さえることが必要である。

 とはいえ、何を「コア」と考えるかも当然、議論の余地があるところではある。

 記憶にあるところではアニメ版の『ジャイアントロボ』に関して、漫画家のゆうきまさみさんが批判的な言及を行っていたことがある。

 ゆうきさんは『ジャイアントロボ』を含む横山光輝作品のコアを、いわば「知恵比べ」的なところにあると見ていたようだ。

 それに対し、アニメ『ジャイアントロボ』は荒唐無稽を究めるアクション大作であった。ゆうきさんとアニメスタッフで作品の「コア」の捉え方が違っていたのだろうと思われる。

 この場合、「わかってる度」が高いと見るか低いと捉えるかは微妙なところである。

 万人が認める理想の映像化など、そうそうあるものではないのだ。

 とはいえ、アニメの世界では、近年、原作のコアに対する理解度がきわめて向上しているように思われる。

 これについては、作家の水野良さんの次のような発言が的確だろう。

【京アニの達成】

 この点に関しては、京都アニメーションの作品が一足飛びに進歩させた感がある。

 たとえば京アニがテレビシリーズを担当した『AIR』は、原作ファンの目から見ても驚くほど「原作に忠実」な仕上がりだった。

 わずか全12話+αに過ぎないため、決して原作の描写をそのままになぞっているわけではないのだが、それにもかかわらず当時としては異例なほど忠実に原作の「コア」を掴んでいた。

 これはのちの『Kanon』や『CLANNAD』においても同様で、ゲームをアニメにするにあたって、非常にハイレベルな要素の取捨選択が行われたと思しいのである。

 この、いわば仮想的な意味での「原作に忠実なアニメ化」はその後、ヒット作『涼宮ハルヒの憂鬱』に結実し、さらにそののちの『けいおん!』などに続いてゆくこととなる。

 『ハルヒ』はさまざまな意味で「原作に忠実」とはいいがたい作りであったが、それにもかかわらず熱狂的に受け入れられた。きっと「わかってる度」が高かったのだろう。

 そして、京アニの成功を受けて、かどうかはわからないものの、原作付きアニメは原作を非常によく読みこんだと思しい作品が増えていくことになる。

 テレビドラマでも、原作ファンに好評を博す作品は「わかっている」度合いが高いのではないかと思う。

 映像化の良否の基準は必ずしもそれだけではないが、これから、原作を良く咀嚼した映像化がドラマにおいても増えていくことを祈念するばかりである。

【さいごに】

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 それでは、またべつの記事でお逢いしましょう。