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オタクのオタクによるオタクのためのウェブサイト

なぜ、ただのアニメやゲームが人を救うのか、宗教的に説明するよ。

 ①「オタク文化と宗教のアフィニティ(親和性)」

 たとえば、そう、何気なく眺めていた報道番組で、何の罪もない子供が亡くなる事件が放送されていたとき。ふと、何ともいえず哀しく、薄ら寒い気持ちにならないでしょうか。

 その子は大人から虐待を受けていたのかもしれませんし、純粋に不幸な事故で落命しただけかもしれません。いずれにしろ、かれ/彼女は、一見して平和で安全なこの社会に開いた「虚無の穴」へ墜落してしまったのです。

 「虚無」は社会の至るところに穴を開けています。そのとき、あなたも、その報道を通しその深淵をほんの少しのぞき込んだといって良いでしょう。

 戦慄の体験。

 とはいえ、あなたはあまり長い間その記憶を引きずらないに違いありません。その出来事はきわめて痛ましいけれど、あくまで見知らぬ子供のことに過ぎませんし、いつまでも気にかけるには人生はあまりに忙しないこともたしか。ひとまずは、そういえるでしょう。

 しかし、もしそれが遠いどこかのことではなく、自分自身の息子や娘、あるいは少なくとも良く知っている子供のことであったら? そのとき、あなたは「虚無」に魅入られ、その無窮の「落とし穴」をのぞくことをやめられなくなるかもしれません。

 その穴は限りなく暗く深く、じっとその深みを眺めていると、快適で豊饒なこの社会の一切の「意味」や「意義」がまるで無価値に思われて来るのです。「虚無」と向き合うとはそういうこと。そして、もしかしたら、人はそのようなときこそ「生きる意味」を求め宗教に誘われるのかもしれません。

 宗教。

 現代日本において、その評判は必ずしもかんばしくありません。ちょうどいま、元首相銃撃暗殺事件に関連しある宗教団体が問題視されています。宗教とはただひたすらに怪しく、うさん臭く、おぞましい、理不尽で蒙昧な教義の集積であるに過ぎない。そのような「偏見」を抱いている人すら少なくないでしょう。また、それが完全に間違えているともいえないのです。

 そのためか、どうか、世界的にも宗教人口は減少の一途をたどっています。

 しばしば「日本人は無宗教だ」といわれますが、それは海外、特に欧米の国々は日本とは違ってキリスト教の長い伝統があり、いまでも信仰を集めているという前提があっての話でしょう。それなのに、じっさいにはそのキリスト教の伝統も大きく揺らいでいるのです。

 そうはいっても減っているのはキリスト教人口だけで、たとえばイスラムの信徒などは増加しているのではないかという人もあることでしょう。しかし、近年はイスラム教人口が多数を占めるアラブですら宗教人口は減少しつづけているともいいます。

 あたりまえのことかもしれません。

 キリスト教にしろ、仏教にしろ、あるいは相対的に新しいイスラムにしても、1000年から2000年以上もまえに構築された教理です。現代社会に合致していませんし、常識的な科学技術とも矛盾します。いったんその教義に疑問を抱いてしまえば、いつまでも無心に信じつづけることができなくとも不思議ではありません。

 しかし、だからといって、これから先、宗教の蒙昧は晴れ、ひたすらに輝かしい科学と理性の時代がやって来るのかというと、その展望を信じることはできません。

 どれほど科学が万能を究めようと「虚無の穴」は空虚に開きつづけるに違いないのです。人類社会はここ何百年も経済的に豊かになりつづけていますが、格差は開くばかりですし、不条理なこともなくなるようには思われません。つまり、たしかにわたしたちは狭義の宗教を必要としなくなりつつあるものの、一方で「宗教的なるもの」の需要は絶えないのです。

 それなら、いったい何が伝統宗教に代わりその需要を満たすのか。現代日本を無心に眺めてみましょう。

 たとえば「スピリチュアル」はどうでしょうか。「スピリチュアル」とは天使や精霊、宇宙人など超自然的な存在を前提とした文化で「オカルト」と隣接しつつ微妙に異なっています。暗く怪しい「オカルト」に対し「スピリチュアル」は一見あかるいのです。

 もっとも、非科学的な文化には違いありませんから、人によっては宗教と同じくらいうさんくさく捉えているでしょう。わたしも頭から信じ込むわけではありませんが、そういった「非科学的」な価値を一概に否定し切ってしまう気にもなれません。科学を信頼してはいますが、それが「虚無」に対し答えを用意していないことも知っているからです。

 人は生まれるまえにどのような存在だったのか? 死んでしまったらどうなるのか? なぜ他のだれかではなく「この自分」が苦しまなければならないのか? そういった「究極の問い」に科学は答えてくれません。それは科学の不備ではなく、ただその役割ではないのです。

 もちろん「スピリチュアル」がその「問い」に対し、どれほど深い答えを用意しているわけでもないでしょう。だが、とりあえず一時の慰めにはなります。それはこの世の摂理そのものでもある「虚無の落とし穴」をふさいでしまうことはできないにせよ、一とき、目を逸らすことを助けてはくれるのです。

 あるいは「自己啓発」。自分自身を改善し成長させてきびしい競争社会を生き抜いていこうとする自己啓発の精神は、いまや広く社会的に普及し、いわゆる自己啓発書はしばしばベストセラーとなります。自己啓発にばかり熱心な人たちは「意識高い系」と揶揄されることもありますが、それも自己啓発がどこか宗教と近いことに理由があるのでしょう。

 そして、もうひとつ、わたしが宗教とアフィニティ(親和性)を持つものとして取り上げたいのが、いわゆるオタクの文化です。

 マンガ、アニメ、アイドル、ボーカロイド、Vtuberなど、現代社会において、広い意味でのオタク文化は「スピリチュアル」や「自己啓発」以上に多くの人を支えています。それは一般的には単なる娯楽、エンターテインメント、ポップカルチャーの一種に過ぎないとみなされています。しかし、ひとりのオタクとしていうなら、オタク文化にはたしかに「宗教的なるもの」がある。

 一見すると猥雑で享楽的に見える文化ですが、それぞれのファンは何らかの「感動」を通じファンになっているのですし、ときには作品を通して「聖なるもの」を感じ取っています。

 数年前、日本女子大学で「オタクにとって聖なるものとは何か」というワークショップが開かれました。未見なのでその内容はわかりませんが、担当者のブログに中身の一端が残されています。

 現代日本のオタク文化のなかに、宗教的なものを見出すのはたやすい。オタクたち自身、いくらか自嘲気味に「ネタとして」、しかし内心ではかなりの真剣さをもって「ベタに」、みずからの行動や世界観を宗教用語であらわすことがある。その行動様式もまた、自覚的であろうとなかろうと、しばしば「まるで宗教のようだ」。例えば、原始宗教を思いおこさせる奇天烈な衣装、古代の崇拝(カルト)とみまがう踊りや礼拝、集団の祈りのごとき形式化された絶唱など。

オタク文化を彩る作品群(マンガ、アニメ、ゲーム、ラノベなど)にも、宗教的な表象が満ちあふれている。伝統宗教の場や象徴がそっくりそのまま採用されていることもあれば、元の文脈から引きはがされた有形無形の断片が作品に意味をあたえていることもある。また、オタク作品群につねにあらわれる超常的で霊的な存在や力は、「宗教」という固い表現になじまず、むしろ、「オカルト」「スピリチュアル」「俗信」といった表現の方がしっくりくることも多い。

制作者と作品とオタクとが、こうした世界観において「何か」を交換しあい、多彩な文化をきずきあげているのだ。

めくるめく伝統と霊性のオタク現象――これをまえに、宗教研究には、重大な問いが突きつけられる。オタク文化はどうしてこうも宗教に「類似している」のだろうか。「共有されるなにか」があってこその類似のはずだが、それはなにか。はたして、オタク文化とは伝統的な宗教と「同じなにか」なのだろうか。それは「偶像崇拝」「多神教」「異教」と何が異なるのだろうか。あるいはまた、「宗教」という言葉をさけて、「スピリチュアル」「霊的」「俗信的」「空想的」などの言葉を使えば、それはうまく説明されるのだろうか。

 この「問い」に対し、宗教学の研究者ではないわたしは的確な答えを用意することはできそうにありません。ただ、この問題に「オタクの側から」意見を述べることはできます。

 それでは、語りはじめましょう。混沌としたオタク文化のなかに神聖なる何かを探しだすのです。

 ②「アイロニカルに没入する」

 前項でオタクと宗教のアフィニティについて書きました。

 しかし、あきらかにオタクと宗教は同一の概念ではありません。あるいは同一の何かを根底に有しているかもしれませんが、オタク的なるものと宗教的なるものは、一方で酷似しているとしても、他方ではやはりかけ離れているのです。それでは、具体的にどこが違うのでしょうか。

 ひとつには、宗教が熱烈に「信じる」ものであるのに対し、オタク文化にはどうしようもなくアイロニーがともなう点です。この場合のアイロニーとは「表面の意味とは逆の意味が裏にこめられている用法」を意味し、皮肉とか反語と訳されます。つまり、表面的には「嫌い」な態度を取りながら、じつは「好き」、あるいはその逆といったことが端的なアイロニーです。

 オタクたちのオタク文化に対する態度には、広くシニカルでアイロニカルな姿勢が見て取れます。オタクはオタク文化を「好き」だからオタクなのですが、それにもかかわらず、オタク的なものが「嫌い」であるかのような言動を好みます。

 いい換えるなら、表面的にはあたかもその文化から距離を取って、皮肉に眺めているかのような態度を維持しつつ、深層ではそこに没入している、それがオタクの自文化に対する態度です。

 大澤真幸はこういった姿勢を「アイロニカルな没入」と説明しています。「シニカルなコミットメント」と同じ意味だとか。

 大澤は書いています。

オタクは、現実をも虚構と本質的には異ならない意味的な構築物と見なすような、アイロニカルな相対主義者である。オタクは、意識のレベルでは、虚構の対象に対して、このようにアイロニカルな距離を保ちながら、反対に、行動のレベルでは、その同じ対象に徹底して没入してもいる、こうした意識と行動の間の逆立が、またオタクを特徴づける。

 「アイロニー(ネタをともなう相対主義)」と「没入(ベタなコミットメント)」が平然と両立するところがオタク文化の特色なのです。

 それでは、オタクはなぜ「アイロニカルな没入」に走るのか。オタク文化が一般に「幼稚」で「危険」だと非難を受けているから、自己防衛のため、斜にかまえた態度を崩さないだけのことなのでしょうか。

 そういう側面はあるでしょう。オタクがオタク的なものに対ししばしば皮肉と冷笑を向けるのは、自分自身の行為の問題性を意識的にせよ無意識にせよ実感し、アイロニーとして処理することで安全な次元に留めようとする意思を抱いているからです。つまり「アイロニーである限り安全だ」という意識がある。

 しかし、じっさいにはまったくそうではありません。たとえ「アイロニカルな没入」であっても、没入には違いないのであって、そこには没入に付きまとう危険が必然にともないます。オウム真理教はその典型でしょう。「オタク宗教」といわれたオウムは、ときに「笑える」ほど過剰で滑稽な一面を持っていました。

 オウムの失笑せざるを得ない側面だけを見た人は、まさかそれが国内史上最大最悪の宗教テロを巻き起こすとは想像だにしなかったに違いありません。ですが、現実にオウムは地下鉄サリン事件を起こしたのです。つまりは、いくらアイロニーによって自分自身を防衛しようとしても、あくまで「没入」している以上、そのディフェンスは成立しないのです。

 「自分はアイロニカルに対象に接しているから安全だ」という考えかたはその実、まったくの錯覚でしかありません。そういう意味で、オタクはアイロニーの時代を象徴します。

 かつて竹熊健太郎は「オタク密教(ネタとしてオタク文化を愛好するオタク)」と「オタク顕教(ベタにオタク文化を好むオタク)」という言葉を用い、オタクのアイロニーを表現していました。そこには竹熊なりの複雑な考察があるのですが、重要なのは「自分はアイロニカルに対象から距離を保っているから大丈夫」としていた「密教」的な態度のオタクたちが、その後しばしばトラブルやスキャンダルを起こし、まったく「大丈夫」ではないことをさらしてしまったことです。

 その意味で、オウム真理教事件に学ばなかったオタクは多かったといえるでしょう。本来であれば、地下鉄サリン事件が起き、『新世紀エヴァンゲリオン』が放送された1995年の時点で、アイロニカルな態度への過度の依存は棄却されていてしかるべきだったのです。ですが、少なくないオタクは「アイロニーである限り安全だ」と信じつづけた。その結果、オタクのなかで「ベタ」と「ネタ」は分離していきます。

 とはいえ、大澤が上記引用の内容を記したのは2006年に過ぎません。現時点でそれから17年が経ち、オタクは完全に一般人化しています。もはや、オタクは特殊な人種というより、若者集団そのものの属性のひとつでしかありません。

 それにつれ、オタクの「アイロニー」も変わってきました。端的にいってしまえば、オタクたちの「アイロニカルな没入」は「ただの没入」へ向かっています。もちろん、ひと口にオタクといっても色々な人たちがおり、あいかわらず斜にかまえた態度を崩さないまま対象に「没入」している者も見受けられるわけですが、オタク全体を俯瞰して見てみると、もはや少数派に過ぎないでしょう。

 その「希薄化するアイロニー」を最も端的に示しているものがオタクたちが好んで使う宗教的な語彙です。いつ頃からなのか、オタクたちが使うジャーゴン(俗語)にやたらと宗教的なものが目立つようになりました。「神絵師」や「神作家」、「神作品」、「聖地巡礼」、「布教」、「祭壇」、「生誕祭」、そしてあっさり「萌え」に代わって普及した「尊い」。

 これらの用語はもともと伝統宗教で使われていたものですが、いつからかオタクたちが自らの行為の真剣さを強調するため使うようになりました。いまでは専門の宗教学者ですらこういったオタクの「宗教性」に注目しています。

 インターネット上でオタクたちはあたかも既存宗教を意図して模倣しているかのように振る舞います。それはかつては考えられなかったほど「ベタ」な崇拝の姿勢です。もちろん、ここにもまだ「あえてそういう語彙を使ってみせる」アイロニーはただよっているでしょう。

 ただの作家やイラストレーターを、いかにその技量が優れているとしても、「神」と呼ぶことはあまりに「大袈裟」で「過剰」であり、それ故に「アイロニカル」です。オタクが愛する者の「生誕祭」を祝い、自分なりの「祭壇」をネットに上げるとき、そこには「自分の過剰さを見てほしい」といった、照れ隠しの心理が働いています。自分の過剰さを意識しているからこそ「ネタ」として有効なのであって、オタクは自分の「やりすぎ」をジョークとして楽しむ余裕を備えているのです。やはりオタクとアイロニーは切り離せません。

 しかし、オタクのそういったアイロニカルな性格は時とともに薄れ、最近ヒットしたオタクネタマンガ『その着せ替え人形は恋をする』では、好きなキャラクターの誕生日を「ベタ」かつ熱狂的に祝う少女がきわめて肯定的に描かれています。

 もちろん、そこには第三者の冷めたまなざしが付随してはいますが、それにしてもこうした「ベタな」オタクの姿はかつては「痛い」ものとして批判的に描写されるのが常でした。

 時代は変わったのです。むしろ、その実態は、オタクが自分の感動をいい表そうとしたとき、それを可能にするものが宗教的なボキャブラリーしかなかったということなのではないでしょうか。

 その昔、オタクといえば「萌え」と切り離せませんでした。いまでもそのように認識している人は少なくないでしょう。ですが、いまでは「萌え」を使用するオタクはほとんど見かけません。そのかわり、現代では「尊い」が使われます。「推しが尊すぎて無理」というふうに。

 「萌え」には、それこそアイロニカルで複雑な自嘲がありました。ですが、「尊い」は無邪気に讃嘆を表しているに過ぎません。そこにも「わざと尊いといってみせる」アイロニーがかすかにただよってはいるにしろ、「萌え」に比べればその側面は後退しています。

 もちろん、オタクが「推し」に対する冷静な現実認識を喪失したわけではありません。オタクは、それが「二次オタ(アニメなどの二次元作品を好むオタク)」であれ「ドルオタ(アイドルオタク)」であれ、あいかわらず対象との距離感を現実的に把握しているます「現実と虚構を混同している」オタクはほとんど架空の存在といえます。

 オタクは自分が「没入」している対象が虚構であったり、はるか遠いものであることをだれよりも良くわかっています。ただ、現代のオタクはその上でアイロニーに依存して自分の行為の安全性を担保しようとすることをやめたのです。

 素朴で危険な態度でしょうか。ですが、「アイロニカルな没入」が実質的に何ら安全性を意味してはいなかったことを思うなら、その姿勢はむしろ健全であるかもしれません。

 もちろん、そこには虚構に対し深く没入しすぎる危険性は残っています。しかし、『その着せ替え人形は恋をする』を見ればわかるように、現代では「虚構への没入」は相当に好意的に受け止められるようになっているのです。

 いかにも逆説的なことですが、この不透明さと流動性を強めた、たしかなものが何もない社会において、他ならぬ対象への没入性、即ち「好きという気持ち」こそが、船を港に留めるイカリのように人を現実にコミットメントさせてくれるからです。

 くり返します。

 時代は変わりました。

 オタクであることはいまやいたって現実的なサバイバルの方法論なのです。むしろ、オタクでないこと、つまり何も没入するものを持たないことは、いまとなっては危険なまでに不安定な生き方に見えます。

 状況は次のステージへと進んだのです。

 ③「オタク・スピリチュアリティ」

 この記事はオタク文化のスピリチュアルな一面を示すものです。

 しかし、最初に書いたように、宗教とかスピリチュアルに対しネガティヴな印象を持っている方は多いでしょう。その種の文化を象徴する「天使」、「心霊」、「占い」、「奇跡」、「パワースポット」、「パワーストーン」といった言葉を並べてみるだけでそういった「匂い」がただよってくるかのよう。

 ですが、そのうさんくささにもかかわらず、いまだにスピリチュアルな文化が流行していることは、人がこういった文化と関係を断てない事実を示しています。

 第一項で書いたように「宗教」そのものは世界的にその勢力を減衰させています。ですが、「宗教的なるもの」への需要と関心はいまだに強いものがあります。いい換えるなら「宗教的なるもの」を求めながら宗教を信じることはできない人々がたくさんいるわけです。そういう人たちは、あるいはスピリチュアルにハマり、あるいは自己啓発を信じ、そしてあるいはオタクになります。

 もちろん、たかがスピ、たかが自己啓発、たかがオタク、そういってしまえばそれまでではあります。「この世の真理とは何ぞや?」といった哲学的難問に頭を悩ませる人たちに、これらの文化が答えをくれるわけではありません。

 ジャーナリストの佐々木俊尚は「特集 どこの国でも「宗教離れ」が進み、自己啓発に乗っ取られていく ~~私たちはいま「救い」や「癒やし」をどこで得られるのだろうか」と題したネット上の記事で、このように書いています。

わたしはしばらく前に、曹洞宗の僧侶の藤田一照さんと何度か対談の機会をいただいたことがありました。この中で今も心に残っている会話があります。わたしが「いまは自己啓発とか、さらにはスピリチュアルのようなものが出てきて、宗教の代わりになってしまっている感じがします。日本の仏教が葬式仏教になってしまった結果、そちらに走る人が増えるのはしかたない部分もあると思うのですが、では宗教と自己啓発の根本的な違いってなんでしょうか?」

わたしのこのぶしつけな質問に対して、一照さんはこうお答えになったのです。

「多くの人生の悩みは、自己啓発本とかセミナーでも解決するのかもしれません。でもそういうものだけではどうしても最後まで解決しない悩みがあります。『なぜ自分は生きているのか』『なぜ人は死ぬのか』といった悩みです。これらにこたえるのが、宗教なんですよ」

 「なぜ自分は生きているのか」、「なぜ人は死ぬのか」、こういった「究極の問い」を、ここでは慣例にしたがって「ビッグ・クエスチョン」と呼ぶことにしましょう。一照は宗教とはそういった「ビッグ・クエスチョン」に答えるものだといっているわけです。

 しかし、そうなら、逆にいえばそのような「ビッグ・クエスチョン」に答えているものは、一見して宗教には見えなくても、単なるスピリチュアルとか自己啓発に留まらない次元に達しているともいえるのではないでしょうか。

 そもそも「ビッグ・クエスチョン」に答えるとはどのようなことなのでしょう? いうまでもなく、この「大いなる問い」に対する「真の答え」は不定です。それは万能を究めるかに見える科学ですら究極的には答えが出せない性質の問いなのです。だから、さまざまな宗教もほんとうの意味で「ビッグ・クエスチョン」に答えているわけではありません。

 いってしまえば、宗教は「ビッグ・クエスチョン」に対し天国とか地獄とか、神とか仏とか、救世主とか聖母といった「物語(ナラティヴ)」を提供しているだけです。

 それらのナラティヴの信憑性に関する疑惑をいったん棄却し「ただ信じる」場合に限り、宗教は人を救ってくれます。

 ただ、ここに微妙な点が残ります。一照は「これらにこたえる」といっている。この「こたえる」をわたしは簡単に「答える」と理解したわけですが、そうではなく「応える」なのかもしれません。もしそうなら、宗教もまた「答え」を用意しているわけではないことを認めた上で、それでもなお「応える」ことが大切なのだといっているとも受け取れます。

 もしこの解釈が正しいなら、オタク的な作品も「ビッグ・クエスチョン」に「答える」ことはできないまでも「応えて」いることはありそうです。

 美少女ライブもSFアニメも、基本的にはエンターテインメントであり、人生の難問に答える/応えることを第一義とはしていません。ですが、もしこの記事を読まれているあなたがある程度ディープなオタクなら、何らかの「作品」に触れ、こうした「答えのない問い」に答えをもらったように思ったことがあるのではないでしょうか。

 それが映画なのか、音楽なのか、それともマンガやアニメやライブなのかはわかりませんが、そのいずれであるにせよ、あなたは「宗教的な体験」をしたわけです。伝統宗教が衰退しつづける現代社会においては、稀有な経験でしょう。

 たしかに、それらは、哲学的に緻密な言説や、「天国はある」とか「死後はこうなる」といった物語を提供したわけではないはずです。ですが、それらは「なぜ自分は生きているのか」と悩むわたしたちに対し、懸命に生きるとはどういうことなのか示してくれます。そういう一例を通じ「生きることの意味と無意味」を「実感」した人間こそが、最も熱烈な意味でのオタクになります。

 そもそも「なぜ自分は生きているのか」という「問い」に直面したわたしたちが求めている答えとは、単なるロジカルなストーリーではないはずです。何より大切なのは「自分はこのためにこそ生きているのだ」と心から納得できることであり、たとえ死後どうなるのかはわからないにせよ、いま、この瞬間、ここを生きていると強く感じられることでしょう。

 その意味で、個々の作品はオタクにとって「ビッグ・クエスチョン」の「答え(アンサー)」ないし「応え(レスポンス)」になりえます。あるいはそのメッセージそのものは、一見して陳腐な、たとえば「愛こそすべて」といったものだったりもすることでしょう。しかし、それでもそこに凄まじい強度を感じ取ったなら、それは「生きていく理由」になりえます。

 もしオタクが幸福な人種だといえるとしたら、それはかれらが言葉ではなく体験を通して「ビッグ・クエスチョン」の答えをもらっているからに違いありません。そういった強度を生むひと握りの人間のことを「天才」と呼びます。現代のオタク的語彙をもちいるなら「神」。

 この不安定な時代、「宗教的なもの」を求める若者は少なくありません。しかし、数十年前ならそういう人間が頼っていたような宗教だの文学だの思想だの哲学だのは、かれらにとってリアリティがなく、自分自身の人生とかけ離れているように感じられます。

 だから、かれらは子供の頃から延々と親しんでいたポップカルチャーにこそ「答え」を求めます。そして、幸運な場合には「応え」を得ます。そのような「宗教的なオタク体験」、いい換えるなら「オタク・スピリチュアリティ」を通して「信者」ともいうべき最も熱烈なオタクは生まれるのです。

 いうまでもなく、世の中には「宗教的なもの」を必要としない人もいます。そういう人たちはたとえば自由恋愛や、仕事に没頭することなどで人生を豊かにできるでしょう。いわゆる「リア充」的な生き方です。そういった「世俗的な」生き方で満足できる人はすれば良いと思います。ですが、気質的により神秘的なものを求めずにはいられない人もまたあるのです。

 その昔なら宗教の扉を叩いていたような人たち。

 現代においてはそういう人たちはポップカルチャーに「答え」を求め、見いだし、そしてそこで飢え、かつえ、求めていた「救いと癒やし」を手に入れます。そこから救われ、癒やされた者どうしの「つながり」も生まれるでしょう。「救済」と「癒やし」、それに「コミュニティ」という宗教の役割はこうしてポップカルチャーに代替されるのです。

 「寄る辺なさ」に苦しむ多くの人がそのようにして救われたことでしょう。素直に、素晴らしいことだと思います。

 ④「ありとあらゆる善きものの象徴にして集合」

 オタク文化に「推し」という語彙が登場したのはいつのことでしょうか。初めはアイドルオタクの間で使われていた言葉でしょうが、いまではもっと広い層で使用されています。

 辞書的な意味での「推す」とは「人や事物を、ある地位・身分にふさわしいものとして、他に薦める。推薦する」ことですが、オタクにとってはそれ以上の意味を持ちます。自分の全身全霊をもってその人物を支える、応援する、それが「推す」。

 かつて、一般的にオタクのそういう感情は恋愛感情の変形と見られていました。ですが、いまでは必ずしもそれだけではないことが広く認知されるようになりました。

 もちろん、いまでも「推し」に熱烈に恋をするオタクもいます。いわゆる「ガチ恋」です。そういう恋心は、まず絶対に報われないわけですが、まさにそうだからこそ純度が高い。

 そういった「ガチ恋」オタクは、一般社会で広く見られる感情の変形として受け止められるわけで、ある意味で理解しやすい一面もあるでしょう。しかし、まったく見返りがないように見える「推し活」は、そういった説明だけで理解し切れるものではありません。

 いったい推しとは何なのでしょうか。

 横川良明『人類にとって「推し」とは何なのか、イケメン俳優オタクの僕が本気出して考えてみた』では「推し」は「恋人」より「神」に近い存在であると切々と語られています。

 あまりに宗教的な言説であることから、一読しての納得はむずかしいのですが、その文章から伝わって来る熱量は単なる韜晦とみなすことを許しません。紛れもなくこの人は推しを「神」とみなしているのだと切実に感じさせるものがあります。

 それにしても、なぜ一個人をそこまで崇拝し「信仰」さえするのか、疑問は残ります。いったいそこに何があるのでしょうか。

 横川の本を読んでいると、かれが推しを単なる一個人として見ているわけではないことが伝わって来ます。かれにとって、推しとは、一個人を超えて、この世のありとあらゆる「善きもの」の象徴なのです。あるいは少なくとも、あらゆる「善きもの」が投影されているはずです。

 かれは推しに美貌や演技力だけではなく、人格も求め、その期待が裏切られることを怖れます。常識的に考えれば、彼ら、彼女たちは、ただ見栄えが綺麗なだけのふつうの人間に過ぎず、「神」ではありえません。ですが、横川にとっては、推しはどこまでも善良で、気高く、誇り高く、美しい、理想の存在なのです。

 もちろん、こういった期待は現実と乖離しているでしょう。いってしまえば、かれが推すイケメン俳優はかれの理想に合致するよう演技しているに過ぎず、理想的な人格のもち主であるとは考えづらい。あるいはそれがアニメやゲームのキャラクターなら「超絶美形にして大天才」といった、現実にはまずありえない属性を兼ね備えているかもしれませんが、それでも「神」とはいいがたいでしょう。

 横川にそのような認識がないわけではありません。しかし、それでもかれは推しにありとあらゆる善きものを投影しつづけるのです。まさに信仰といいたくなるような姿勢です。つまりはオタクの推しへの感情は、単なる恋慕を超え、信仰と化している場合が見られるわけです。

 だからといって、即座に推し活を宗教と見ることはあまりに安易な結論でしょう。真の宗教は「ビッグ・クエスチョン」に対する答えを備えていることを思い出してみましょう。いったい美少女アイドルやイケメン俳優、萌えキャラクターが「ビッグ・クエスチョン」に対し答えを持っているでしょうか。

 もちろん「否」でしょう。

 しかし、前に語ったように、推しは「ビッグ・クエスチョン」に「答える」ことはできなくても「応える」ことはできます。

 それでは意味がないでしょうか。ですが、既存の伝統宗教もこの生と死に関する「ビッグ・クエスチョン」に真摯に答えているとはいいがたいのではないでしょうか。

 宗教は「人は死んだらどうなるのか?」といった問いに対し、たとえば「天国へ行く」といった答えを用意します。しかし、それは客観的な事実ではなく、いってしまえばひとつのナラティヴに過ぎません。

 たとえばキリスト教を例として見てみてみましょう。キリスト教徒は聖書のナラティヴを事実として認めることを求められます。

 そもそもイエス・キリスト自身にしてからが実在したのかすらわからない人物なのですが、ほとんどのキリスト教徒はイエスの実在を疑わないでしょう。そして、聖書はさらに膨大なナラティヴを綴っています。イエスがどう行動し、どのような言動を残したかに始まり、使徒たちの行状に至るまで、克明に「記録」されているのです。

 「ビッグ・クエスチョン」に対する明確なアンサー。

 しかし、それはあくまで「物語」に過ぎないこともたしかです。聖書の描写は、完全な虚構ではないにせよ、しばしば現代科学と矛盾します。それでも、信徒はそのナラティヴを現実として信じなければなければならないのです。それで初めて信徒は「救われる」。

 イエスの事績はともかく、エデンの園や黙示録といったことがらはあまりに神話的で、現代においては信じがたいものです。ですが、キリスト教はそういったナラティヴの累積の上に成り立つ宗教なのであって、その「物語」を捨て去ってしまえば信仰もまた残りません。つまり、信仰とは「物語を生きる」ことであるのです。

 一方でオタクはどうか。

 いうまでもなくオタクもまた「物語」を愛します。横川のようなイケメン俳優オタクもそうですが、いわゆる「二次オタ」はさらにわかりやすく物語を愛好しています。ですが、宗教者が宗教の「物語」を現実として信じるのに対し、オタクにとって「物語」はあくまで虚構です。宗教者が物語を生きているのに対し、オタクは虚構が虚構であることを前提にして楽しむに留まっているともいえます。

 ここにオタクの「アイロニカルな没入」の根源がある。オタクは自分が楽しんでいるものがフィクションであることをだれよりもよく知っています。だからこそ、オタクの態度はアイロニーを帯びるのです。しかし、それでもオタクは対象に「没入」します。

 オタクの「物語」に対する態度がわかる一例として、たとえばボーカロイドが挙げられるでしょう。コンピューターで音声を合成するソフトのことです。「ボカロ」として親しまれているそれらのソフトは、それぞれキャラクターの名前が付けられています。その最も有名な例が初音ミクです。

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 いまとなっては初音ミクの「歌」は膨大な量があり、名曲とされるものも数多く存在します。それでは、コンピューターの合成音声に過ぎない初音ミクの「歌声」が、実在する人間の歌にも増して情緒に訴えかけるのはなぜでしょうか。それは、まさに「初音ミクが歌っている」というナラティヴが背景にあるからではないでしょうか。

 もちろん、初音ミクの「歌」を聴く者は、そのような人物が実在しないことを知っています。初音ミクは純粋な虚構であり、さらにいうならほとんど設定らしい設定すらありません。ただその名前と、キャラクターデザインと、身長などのわずかな情報があるだけ。それでも、オタクは初音ミクの「歌」を聴くとき、「初音ミクが歌っている」というナラティヴを感じ取ります。

 この二重性にオタクの本質があるのです。オタクは、たしかにある意味では「宗教的なもの」を信じ熱狂します。ですが、その一方でオタクは虚構の虚構性を理解しています。初音ミクの歌声に涙しながら、一方では単なるコンピューターの合成音声だとわかっているように。

 ここに、伝統宗教とオタクの決定的な落差があります。宗教者がナラティヴを現実のものとして認識しているのに対し、オタクはその虚構性を理解しているわけです。

 ただ、それならオタクがその虚構を冷ややかに相対化しているかといえば、そうではありません。オタクは虚構を虚構として知りながらそれに熱狂します。そこに「この世のありとあらゆる善きもの」の集合、あるいは「聖なるもの」をすら視るのです。

 このような姿勢は、伝統宗教の信徒にとっては理解しがたいものでしょう。かれらは「信じるか、信じないか」という問題に対し「信じる」ことを選びます。ある意味、その態度はシンプルです。それに対し、オタクは同じ問いに「信じないが、信じる」と答えるわけです。そこにはアイロニカルなねじれがあります。

 このねじれを理解せずにオタクを理解することはできません。宗教者が虚構を現実として生きる人たちだとすれば、オタクとは、虚構を虚構のままで生きる人間のことなのです。

 ⑤「世界の秘密と始原の暗号」

 オタクにとって、推しとはこの世界の「ありとあらゆる善きもの」の象徴であり集合である、ひとまず、そう定義することにしましょう。

 ひとり、推しの歌声に耳を澄ますとき、心がどこか遠い「たましいのふるさと」にとどくように思う。映画館で推しの死闘を見守るとき、「生きること」のあまりに重い意味が言葉ではなく実感として体得できる。そういうふうに思う人は少なくないでしょう。

 そう、オタクは推しを通じて「聖なるもの」を垣間見ます。その意味で推しは地上における神聖さの顕現であり、より濃密な別世界に通じる扉です。すなわち天才宗教学者ミルチャ・エリアーデがいうところのヒエロファニー。

 重要なのは、推しがじっさいにそのような聖なる存在であるかどうかではありません。そもそも聖なる存在とは客観的に計測可能なものではないからです。大切なのは推しに聖性を「投射」可能かどうかなのです。

 「投射」とは最新の認知心理学「プロジェクション・サイエンス」の用語です。ともかく、オタクにとっては、自分が推しに何を見出だせるかが真に重大なわけです。オタクはそれが生身の人間だったり架空のキャラクターだったりすることを十分に承知していてもなお、推しに「聖なるもの」を見るのです。

 オタクの姿勢が「アイロニカルな没入」と称されるゆえん。この聖なる何かを、社会学者の宮台真司は「端的なもの」と表現します。

 宮台は『サイファ覚醒せよ!』のなかで、社会システム理論でいう「サイファ(暗号)」という概念を提唱しています。これは「世界の底が抜けている」、つまり世界に「未規定性」が残ることを「翻訳して無害化する」ための表象です。典型的には「神」。

 この世界には解けようはずもない「暗号」があり、その「暗号」を解けたことにして無害化したものが「サイファ」なのです。

 宮台は語っています。

 長くなりますが、重要な個所なので引用しましょう。

「世界」とは奇妙なものです。ありとあらゆるものの全体を「世界」というわけです。ところが、人間は言葉を使って思考するけれど、ありとあらゆるもの全体が「世界」だとして、「世界」はどうしてあるのだろう、「世界」の外は何なのだろうというふうに考えちゃうんですね。〝「世界」はなぜ……〟とか〝「世界」の外は……〟という問いを突き詰めて考えると、必ずパラドックスに陥るからです。
 多くの「社会」では、「世界」は神が創ったとするジェネシス(創世神話)を持ちます。ありとあらゆるもの全体を神が創ったと考えるわけです。さて、神は「世界」のどこにいるのか。もちろん「世界」の中にいたら、「世界」を創ることはできません。かと言って「世界」の外にいるとすれば、ありとあらゆるものの全体が「世界」なのだから、神を含めて「世界」だというしかなくなるし、神が「世界」の外だと言い張ると、「世界」の外にある存在をどうして僕たちが認識できるのかという問題が生じます。神は「世界」の中にいると言っても外にいるとイッテモ、背理になるわけです。
 実は、こうした「世界」概念をめぐる背理は、キリスト教のスコラ神学において既にはっきりと意識されています。その意味で「世界」概念をめぐる背理という観念自体は、キリスト教に由来する概念です。そのキリスト教的な「世界」概念をベースに立ち上がったのが近代科学ですから、どのような個別科学も、それを突き詰めることで、必ず「世界」概念をめぐる背理に突き当たる構造になっています。
 不完全性定理で知られる数学者ゲーデルは、すべての命題の真偽が数学的に証明できると予想するヒルベルトに対抗する形で、この「世界」概念をめぐる背理を証明しようとしました。その結果、「世界」を無矛盾な形式論理で完全に覆えないということが証明されてしまったわけです。これが誰でもその名前くらいは知っている「ゲーデルの不完全性定理」です。アインシュタインをはじめ多くの物理学者にも大きな影響を与えました。ちなみにゲーデル自身は、自分のやった証明を凌駕しうるような「神の存在証明」をしようとして、晩年には気が狂ってしまった。

 「世界」はそもそも人間の論理によって完全に定義することができないというのです。

 わたしたちは科学を信頼するあまり、いつかはそれがこの「世界」の全貌をあきらかにする日が来るのではないかと考えがちです。

 しかし、宮台の主張によれば、その日は永遠に来ません。それこそロジカルに考えるなら「世界」にはどうしても「未規定性」が残ってしまうし、その「未規定性」を覆い隠すために「神」のような「サイファ」が求められるからです。

 人は世界の未規定性を覆うサイファ、すなわち神なるものを見るとき、そこに聖なるものを感じ取ります。宗教学者ルードルフ・オットーが語るところの「ヌミノーゼ」でしょうか。

 宮台によれば「端的なもの」は「世界の根源的な未規定性」に対する志向性を持つかぎり、必然的に出逢ってしまうものです。

 僕は九四年の『制服少女たちの選択』、九五年の『終わりなき日常を生きろ』という二冊の本で、宗教を「前提を欠いた偶然性を馴致する装置」、分かりやすくかみ砕けば「端的なものを、無害なものとして受け入れ可能にする仕組み」であると定義しました。すなわち、宗教とは、たとえば近代科学を徹底的に押し詰めることで露わになるような――もちろん別の仕方でも露わになりうるような――「世界の根源的な未規定性」を、いわばバーチャルに覆い隠すために、無害なものへと加工する社会的メカニズムです。だからこそ、社会システム理論の立場から見ると宗教は不滅であらざるを得ないのです。
 ただ、あとあと話したいことの絡みもあるので、一つだけ注釈をつけておきましょう。僕たちが「世界の根源的な未規定性」に向かい合ってしまうのは、トタリテート(全体性)への希求を持つからです。つまり全体を知ろうとするオリエンテーション(志向性)を有するからです。たとえば、論理を使って言語や思考を制御しようとすれば、それこそ論理て必然的に、その人は全体性への志向を帯びることになります。全体性への志向をもつと、必ず「世界」二は「端的なもの(たち)」が見つかります。つまり皺が生じるわけです。
「端的なもの」は、忘れるか、受け入れるしかありません。受け入れる場合には、無害なものへと加工して受け入れるんです。そこに宗教性が巣くう。実際には、無害化に向けた加工は、「神」概念のような「世界」の内と外に同時に属しうる「特異点」の導入によって図られます。そのことも後で述べるとして、いま述べたロジックを逆にたどれば、全体性や包括性への志向を放棄し、あるいは、「端的なもの」との出会いを次々に忘れてしまうことができれば、僕たちは宗教性から自由でいられます。
 しかしその結果、僕たちの「世界」との関わりは、モザイク状に断片化することになります。もちろんそのように生きている人たちを、比較的容易に見出すことができます。しかし、それは僕たちが「皆」そのように生きられる「はず」だということではありません。

 つまり、人は思考において全体性を志向する限り、「端的なもの」を受け入れるか、あるいはそれを忘却するか二者択一を強いられるわけです。忘却すればモザイク状に断片化した「世界」との関わりしか持てません。そして、受け入れるためには何らかの意味で宗教的な態度が不可欠になります。

 もちろん、それはたとえばキリスト教のナラティヴをそのままに受け入れるというようなことではありません。しかし、ともかく何らかの形で「サイファ」を受け入れることなしには、人は「世界」を全体的に受け止めることができないのです。

 ⑥「推しを通して聖なるものを垣間見る」

 この『サイファ覚醒せよ!』を受けて、マンガ研究家の藤本由香里は『きわきわ 「痛み」をめぐる物語』の最終章を書いています。その文章で、宮台の師にあたる見田宗介の『気流の鳴る音』や田口ランディの小説『コンセント』を引きながら、藤本はある種、「スピリチュアルな」論考を展開します。

 宮台がいうところの「世界の未規定性」とは、つまり、この世界で起こっている諸々の出来事は、一見するとごくたしかそうに思えるにもかかわらず、その実、ほんとうにそれが確実であることはだれにも証明できないことを意味します。しかし、藤本によれば、そのように世界が未規定であるからといって、それがまったく「底が抜けている」とはいえないというのです。

 否、純粋に論理的には「底は抜けている」。つまり、だれにもロジックだけでこの世界の実相を説明し切ることはできません。それは恐ろしいことです。何らかの「サイファ」、つまり「神」のような概念を用意するのでなければ、人は世界を無限に疑いつづけるしかないとうことだからです。

 ですが、ここで藤本は、人が次の行動を決定するとき、論理的には不確定な世界に対し何らかの「見当」をつけていると語ります。つまり、純粋に論理だけで考えるなら、世界はどんな姿にも変わりえます。わたしたちは「世界の姿がこうである」という絶対に確実な答えを手に入れられません。どれほど科学的な探求をくり返しても、どこかで神の指さきがすべてを操っているかもしれないように。

 しかし、それでも「おそらくこうだろう」と「見当」をつけて「賭ける」ことはできるし、人間はじっさいにそうしているのです。なるほど、宮台のいうように「世界の底は抜けている」かもしれませんが、それでもなお、わたしたちは「おそらく世界はこうなっているのだだろう」という「見当」をつけつづけることはできるということ。

 藤本はパスカルの『パンセ』から言葉を引いています。

 神はある、あるいは神はない。しかしどちらの側へわれわれは傾こうか。理性はここでは何事も決定することはできない。……表が出るかそれとも裏が出る。君はどちらに賭けるか……勝つかどうかは不確実であるなどといってもなんの役にも立たない。……賭けをする人はすべて、勝つ不確実さのために確実を賭ける……。

 神があるのかないのか、人間の理性では決して決定できない。それはまさに宮台がいう「世界の未規定性」を覆う暗号そのもの、サイファだからです。ですが、だからといってすべてを「何もわからない」といって終わらせることが最善ではありません。

 疑いの余地は永遠に残るとしても、限りなく「見当」の精度を上げて、どこかで「勝つ不確実さのために確実を賭ける」。たとえば科学とはそういう営みのはずです。何千回、何万回、実験と確認をくり返しても、科学は原理的に「絶対」にはとどかない。それでも、科学者は「おそらく世界はこうなっている」という「見当」の精度をしだいに上げていく。そして、どこかの時点で「信じる賭け」に出るのです。

 世界は美しいかもしれない。醜いかもしれない。神はいるかもしれない。いないかもしれない。

 「理性はここでは何事も決定することはできない」。

 それでも、なお、わたしたちは世界に美しくあってほしいと望み、神聖なるものを「信じる」。

 それはたしかに厳密に論理的な行為ではないでしょう。なぜならそれは「そうであってほしい」という「祈り」に過ぎないからです。ですが、藤本は書いています。

 「私たちの「祈り」が届く一点がある」と。

 それはわたしたちがそこへ向かって「賭ける」、つまり主観をジャンプさせる一点です。そして、彼女はそれを「私の北極星」と呼んできたと告白します。その北極星とはつまり、この世の「神聖さ」の道標です。人は何か「神聖なもの」に触れたと感じたとき、その向こうに「北極星」を見ているのです。

 その「北極星」が具体的に何であるかは人それぞれ異なっているのが当然でしょう。ある人にとってはバッハの旋律かもしれないし、またある人にとってはラファエロの聖母子像かもしれない。藤本にとって、それは不世出の天才舞踏家シルビィ・ギエムの踊りだといいます。

 彼女は書いています。

 ところで、暗闇の中でまんじりともせず「世界は波動でできている」という考えと向き合っていたとき、「異次元が洩れ」、そこから吹きあがって来る風に精神が吹きさらわれそうになっていたとき、私は自分の正気を保つために「自分にとっての神聖なもの」の記憶を必死でたぐりよせていた。その中で、イメージや感覚ではなく、具体的に私が「信じられる」もの、神聖さの指標として浮かび上がってきたもの、それがシルビィ・ギエムの踊り(バレエ)であった。
 萩尾望都『青い鳥』の中に「なにもかもなくしても 希望がなくても 世界が不条理でも 舞台だけは楽しかった……舞台にだけは青い鳥が住んでた」という一節があるが、ギエムの踊りはまさにそれを彷彿とさせる。
 彼女が足を上げる、すると私たちはその向こうに、一瞬だけ永遠が揺らめくのをみる。彼女の腕が微妙に動く、その瞬間、自明であったはずのこの世界に裂け目ができ、私たちはその向こうに、もう一つ、別の次元の世界が揺らめくのを見る。それは不思議な感覚である。これは本当にこの世で起こっていることなのだろうか……?

 なるほど、ギエムであれば、そのような「神聖さ」を感じさせても不思議ではない、そういうふうに思えて来ます。

 しかし、世の中にはギエムの他にもさまざまに「神聖な」作家がいて、作品があります。たしかに不世出の天才バレリーナは「〈神聖さ〉のイデア」を表すためにふさわしいと思われますが、同じことはアニメでもマンガでもいえるでしょう。わたしたちはある人物や作品を通じ「神の世界」を視ます。そしてここまで来てしまえば、その人物なり作品を「推し」と呼んでも不自然には感じません。

 推しとは「ありとあらゆる善きもの」の象徴であり、また集合だといいました。この不たしかな世界で信じられるもの。藤本にとってはギエムがそういう「推し」なのでしょう。それでは、あなたにとっては何でしょうか?

 そのような存在と出逢ったことはない人もいるでしょう。そういう人は「底が抜けた」世界の未規定性に対し不安定であるといえます。なぜなら、ただ理性だけではその不たしかさに対して何もいえないのですから。

 わたしたちはどこかで理性的な「無限の疑い」を捨て、主観的に飛躍する必要があります。そのとき、いったいどこへ向かってジャンプすれば良いのか。それを指し示すものこそが、あなたにとっての「北極星」であり、いい方を変えるなら「推し」なのです。

 いわば推しとは別世界へ通じた聖なる回路、宗教学でいう「ヒエロファニー」なのであって、人の形をしていても、人ではありません。シルビィ・ギエムの一挙手一投足の向こうに「彼岸」が見えるように。

 あまりに大仰な表現でしょうか。ですが、じっさいに多くの人が、ポップカルチャーの傑作名作を通じて、かろうじてこの世界につなぎ留められています。たかが音楽、たかが演劇、たかがアニメ、たかがマンガ――そうさげすむ人たちはいつまでもいなくなりはしないでしょう。しかし、一方でその「たかが」によって救われる人もいなくならないのです。それがカルチャーの価値。

 藤本はいいます。

 「それこそが「サイファ」であり、他のどんなものにも侵されない「〈神聖さ〉のイデア」、わたしの北極星なのだと思うのである」と。

 しかし、どうでしょう? じっさいのところ、ほんとうにアイドルグループの歌声や、他愛ないアニメの数々がそれほどの力を持ちえるのでしょうか? 「〈神聖さ〉のイデア」を胸に抱きつづけることは大切。ですが、それにふさわしいものはもっとクラシックな名作であり、芸術的な傑作なのであって、猥雑なポップカルチャーなどではないのではないでしょうか。

 おそらく、世間一般的にはそのような解釈がまかり通るでしょう。ですが、その「たかがマンガ」にしても、「たかがアニメ」にしても、「たかがアイドル」にしても、見かけよりずっと深い世界を隠しもっているのです。それが単に楽しく、享楽的なだけの文化なら、多くのファンを集めはしても、そこまで熱狂する人はあらわれないでしょう。

 やはり、そこには「猥雑さ」を含み、なおかつそれを超えた何かがあるのです。

 たしかに、並大抵の凡作は「サイファ」でも「〈神聖さ〉のイデア」でもありえないことでしょう。藤本の言葉によれば、その人物なり作品が「神聖さ」を示すためには「天上のもの」である必要があります。一般的なポップカルチャーで、遥かな天上を指し示すような名作になどめったに出逢えるものではありません。

 ただ、その作品の客観的、一般的な評価は問題ではないのです。あくまで重要なのは、あなたやわたしといった個人がそこに何を感じ取るか。人が神聖なものを「視た」とき、それは人生を照らす北極星、つまり「光の道しるべ」となります。

 その道しるべを得たとき、初めて人は有象無象の「スピリチュアルなるもの」に対する本質的な抵抗力を手に入れます。なぜなら、そういった有象無象はそのスピリチュアリティのクオリティにおいて「道しるべ」に及ばないから。

 ポップカルチャーのなかに「光の道しるべ」を手に入れること。それが即ち「オタク・スピリチュアリティ」です。

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 見出しだけ挙げておきましょう。内容的にはスピリチュアル文化やオウム真理教などについて触れています。分量は有料個所と同じくらいです。

 ⑦「スピリチュアル文化の歴史と現状」
 ⑧「オタク文化のなかのスピリチュアルな表象」
 ⑨「人はなぜ非合理的なものを求めるのか」
 ⑩「人類は宗教を離脱するのか」
 ⑪「この世に不思議は残されているのか」
 ⑫「聖なるもののデカダンス」

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