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日本近代文学×超絶耽美イラスト! 読めばあなたも文学少女になれる〈乙女の本棚〉シリーズ傑作10選。

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 それでは、記事へどうぞ。

【はじめに】

 〈乙女の本棚〉をご存知だろうか。

 一度くらいは書店の店頭で見かけたことがあるかもしれない。江戸川乱歩、谷崎潤一郎など、明治大正から昭和初期にかけての「文豪」たちの傑作短編を、現代を代表するイラストレーターたちの優美な絵でいろどった豪華な「絵本」である。

 なかなか売れているとおぼしく、2024年9月現在でシリーズ40冊以上が刊行されている。注目するべきはそのラインナップで、ポーの「黒猫」、坂口安吾の「桜の森の満開の下」など、耽美というか佳麗というか、どこかデカダンスの匂いただよう作品ばかりが選ばれてるのだ。

 しかも、そこに加えられたイラストレーションがまた美しく病んでいて、ぼくのようなその手の趣味を持つ人間にはたまらない「病理文学」の薫香を感じ取ることができる。

 文学などというたいそうな言葉がいかにも死語となりつつあるきょう、「彼岸の世界」の仄かなけはいを感じることができる貴重なシリーズということができるだろう。いやあ、ほんと、素晴らしいですね。

 そもそも日本の近代を代表する作家たちは、いや海外でも同じことだろうが、いずれも優れた短編を残している。むしろ、その本領は短編にこそあるといっても良いかもしれない。

 一切の無駄なく美しくまとまった短編小説は、長編以上にはっきりと作家の力量を物語る。また、読むほうとしてもなかなか『魔の山』やら『罪と罰』のような大長編作品に指さきをのばすことは躊躇されるわけで、短編は文学の広漠たる曠野を気軽に覗くための、いわば「窓」の役割を果たしている。

 もっとも、いったんその「窓」を覗いてみたら最後、二度と元の自分には戻れなくなってしまうかもしれないところが、文学の恐ろしいところであるわけだけれど……。

 いずれにしろ、この〈乙女の本棚〉は、いまの時代、もうとうに喪われてしまった「都市の闇」が刻印された世界、否、「反世界」をありありと実感させてくれる。

 読めば気分はもう文学少年、少女だ。じっさいにいくら歳を取っていても関係ない。どんな人間に対しても、美しくもおぞましく、たおやかに狂った「反現実」を垣間見せてくれることこそ、このような反リアリズムの文学作品の価値であるのではないだろうか?

 以下には、このシリーズのなかでぼくが好きな本を10冊選んで並べてみた。何かの参考になれば幸いである。

 乱歩、谷崎、鏡花――もう二度と来ることがない日本文学の青春をあざやかに飾った作家たちの、ほの暗い耽美短編世界を、あなたも渉猟してはみませんか。

江戸川乱歩+夜汽車「人でなしの恋」

 人間と土くれとの情死、それが滑稽に見えるどころか、何とも知れぬ厳粛なものが、サーッと私の胸を引きしめて、声も出ず涙も出ず、ただもう茫然と、そこに立ちつくす外はないのでございました。

 さて、大乱歩である。乱歩もまたひじょうに印象深い短編作品をたくさん書いた人だが、この「人でなしの恋」もまた――乱歩は、殊に「人外」とか「人でなし」といった言葉を好んだ。そこには自分自身が「まっとうな人間から大きく外れている」という認識が、紛れもなくあったのだろう――きわめて印象深い短編である。

 乱歩といえばいろいろな意味でこの当時の世間の常識から逸脱した性癖、あるいは指向、つまり同性愛やらフェティシズムやらを繊細にしてグロテスクな美意識でもって描いた人だが、この作品は殊にそういった耽美の色合いが濃厚だ。

 あるひとりの男に愛されたと信じた娘が、その夫の道ならぬ不倫を知って復讐を遂げる、とこう書けばあたりまえのメロドラマだが、その夫の恋のあいてというのがじつは――まあネタバレはやめておくけれど、ある意味ではきわめて現代的な作品といえるだろう。

 このような「人でなしの恋」もまた恋、そう思ってしまうのは、狂った時代を生きるぼくの感傷に過ぎないだろうか。

江戸川乱歩+しきみ「押絵と旅する男」

 文楽の人形芝居で、一日の演技の内に、たった一度か二度、それもほんの一瞬間、名人の使っている人形が、ふと神の息吹をかけられでもした様に、本当に生きていることがあるものだが、この押絵の人物は、その生きた瞬間の人形を、命の逃げ出す隙を与えず、咄嗟の間に、そのまま板にはりつけたという感じで、永遠に生きながらえているかと見えたのである。

 乱歩からもう一作。

 「押絵と旅する男」は、かれの絢爛たる短編作品群のなかでも、殊に評価の高い一作である。おそらく、「人間椅子」や「芋虫」などと並んで、最も乱歩らしい作品といって良いのではないだろうか。

 後世の、たとえば京極夏彦の『魍魎の匣』などにも、隠然と影響をあたえているのではないかと思う。

 乱歩の最良の部分はあきらかに短編にこそあり、長編においてはなまじ本格推理をめざすために濁ってしまっているものを、より純粋なかたちで見て取ることができるように感じる。

 さて、この「押絵と旅する男」の想像力の質は、ある意味では先述の「人でなしの恋」と同じである。この世のものならぬ存在に惹かれ、恋をして、しかもその恋に永劫に呪われてしまった男――そのようなイメージがこの二短編には共通している。

 それを、耽美といっても良いし、アンチモラルの文学ということもできるだろうが、いずれにしろはっきりしているのは、乱歩が「この世界」に満たされ切らず、「その向こう側」をこそ望んでいたことである。これもまた、オタクのさがだよなあと思ったりするのだが、いかがだろうか。

江戸川乱歩+ホノジロトヲジ「人間椅子」

 道具屋の店先で、二三日のあいだ、非常に苦しい思いをしましたが、でも、競売がはじまると、仕合わせなことには、私の椅子は早速買手がつきました。古くなっても、充分に人目を引くほど、立派な椅子だったからでございましょう。

 さらに乱歩。いや、ぼくも乱歩好きの末席を穢す者ではあるのだけれど、それ以上にこの〈乙女の本棚〉シリーズに最もふさわしい作家といえば、やはり乱歩になるのではないかと思うので……。

 「乙女」というものは、その本来の性質からして、あたりまえの社会から半歩ほど外に出てしまっているところがある。だから、乱歩のような不道徳な作家が良く似合うのである。

 それにしても、「人間椅子」、何をどう考えてもSM趣味の黒い結晶以外の何ものでもない作品だ。

 ぼくは良く団鬼六あたりの官能文学作品を読んでは、「セックスを前提としたエロSMとそうではなく「物体としての人間」であらんとするガチSMは本質的に違う嗜好であり文化だなあ」と感じるのだけれど、この「人間椅子」はガチSMのほう。

 「椅子になりたい」、「だれかに踏みしめられたい」というあまりにもあからさまにヘンタイめいた倒錯の欲望をこれほどわかりやすく伝えてくれる作品はない。やっぱり乱歩、今日なお色褪せぬ「反社会」の作家だなあと思うのである。オチはちょっとがっかりだけれど。

夢野久作+ホノジロトヲジ「死後の恋」

 ……現在の私が、もし人々の云う通りに精神病患者であるとすれば、その時から異常を呈したものに違いありません。

 夢野久作のことは、このような記事をわざわざ読まれるような方はご存知のことと思う。あの怪奇魔性の傑作長編、三大奇書の一に数えられる『ドグラ・マグラ』の作家である。

 この「死後の恋」はその夢野のいかにも奇怪な短編。ある種のサプライズ・トリックがもちいられていたりするのだが、物語の本質はそこにはないだろう。何とも奇妙で酸鼻で、しかも美しいともいえる恋のお話なのだ。

 いったいこの作品をどう読むべきなのだろう。ひとつの、まあ、ラブストーリー。そうには違いない。しかし、その文体からしてねっとりとしていて、心にまとわりつくようなところがある。

 「戦争」がひとつのテーマになっているが、どのような凄惨無比な大戦争をまえにしても、作家はこのような「人間存在の美点と汚点」をテーマにしたストーリーを考えださずにはいられないのだなあと感心してしまう。

 ホノジロトヲジのイラストレーションがまた、そのブラックな傾向を強化している。それこそ乙女に読ませるにはあまりに奸悪な話だが、これぞ夢野久作ではある。

夢野久作+ホノジロトヲジ「瓶詰地獄」

 けれども神様は、何のお示しも、なさいませんでした。藍色の空には、白く光る雲が、糸のように流れているばかり…………崖の下には、真青く、真白く渦巻きどよめく波の間を、遊び戯れているフカの尻尾やヒレが、時々ヒラヒラと見えているだけです。

 夢野久作からさらにもう一作。「瓶詰地獄」はとても有名な短編なので、その筋書きについては多くの方がご存知のことだろう。

 ある無人島に流れ着いた兄妹、「神様からも人間からも救われ得ぬ哀しき二人」が残した手紙というかたちで書かれたお話であり、「禁忌」について深く考えさせられる物語だ。

 はたして、それは「赦されざる罪」なのか、それとも「祝福されるべき恋」なのか、キリスト教圏の人に読ませたらどう思うだろう、いちど聞いてみたいものである。

 まあ、敬虔な信者なら、あるいはそうでなくても常識的な人なら、「罪に違いない」というだろうけれど、そうだとしたら「神」とはいったい何なのだろう……。

 それにしても、夢野久作の文体をとくべつ美しいと思ったことはなかったけれど、こうして絵本の形式で、細いフォントの文字で読んでみると、何ともいえず言葉の「薫り」を感じ取ってうっとりしてしまいますね。

 この苦悶、この地獄、これが人間だよなあ、といまさらながらに感嘆させられます。いやあ、良いね!

坂口安吾+夜汽車「夜長姫と耳男」

「サヨナラの挨拶をして、それから殺して下さるものよ。私もサヨナラの挨拶をして、胸を突き刺していただいたのに」

 安吾です。安吾といえばその小説よりもあの「堕落論」のほうで有名になってしまったきらいがあるし、小説といえば代表作『白痴』やらのまえにまず『不連続殺人事件』あたりが出てきてしまうのではないかと思ったりもするのですが、しかし短編小説にも優れたものがあります。

 この「夜長姫と耳男」も有名なので、聞いたことがあるという方もわりあいいらっしゃるのではないでしょうか。しかし、じっさいに読んだ人はそれほど多くないかもしれませんね。

 タイトルからわかる通り、可憐な姫君とひとりの醜い耳をした男のお話で、ふつうに読むなら耽美というのともまたちょっと違っていると思うのですが、夜汽車によるイラストレーションを付されると、いかにも「美」と「醜」の、「何も知らないイノセント」と「この世の辛酸をなめ尽くした苦悩」の対比が印象深い傑作としてこころに残ります。

 ある種の寓話ではあるのだろうけれど、「芸術」の闇黒を見据えた作品とも読めますね。ああ、人間ってほんとうに恐ろしい。

荻原朔太郎+しきみ「詩集『青猫』より」

 荻原朔太郎の詩は、だれでもひとつかふたつくらいは耳にしたことがあるのではないだろうか。たとえ、作者がかれであると知りはしないにしても。

 ぼくは不勉強にして詩に親しまず、いままで荻原朔太郎についてもくわしく知らなかったのだけれど、この「詩集」を読んでみて驚いた。何とも甘露な言葉のかずかず……たとえば「寝台を求む」という詩はこのようだ。

どこに私たちの悲しい寝台があるか
ふつくりとした寝台の 白いふとんの中にうづくまる手足があるか
私たち男はいつも悲しい心である
私たちは寝台をもたない
けれどもすべての娘たちは寝台をもつ
すべての娘たちは 去るに似たちひさな手足をもつ
さうして白い大きな寝台の中で小鳥のようにうづくまる
すべての娘たちは 寝台の中でたのしげなすすりなきをする
ああ なんといふしあはせな奴らだ
この娘たちのやうに
私たちもあたたかい寝台をもとめて
私たちもさめざめとすすりなきがしてみたい。
みよ すべての美しい寝台の中で 娘たちの胸は互にやさしく抱きあふ

 フェミニストにいわせたら何というかという気もするが、いやあ、良いよねえ。この本については、これ以上いうべきこともない。

泉鏡花+ホノジロトヲジ「外科室」

 その時の二人が状(さま)、あたかも二人の身辺には、天なく、地なく、社会なく、全く人なきが如くなりし。

 きっと、じっさいに読んで知っているわけではないにしても、多くの人が「外科室」の筋書きについて聞いたことがあるだろう。ある病にかかった女性が、心の奥底に封印した秘密を聞かれることを怖れて、麻酔手術を拒むお話。

 鏡花の作品はその多くがいまとなっては晦渋な文体で書かれているため、なかなか手を出しづらかったりもするのだが、少なくともこの「外科室」は案外と読みやすい。

 そして、この文章の美しさ。乱歩や夢野の作品は、とくべつ文体が美しくととのっているわけではないが、鏡花の日本語は紛れもなく美しい。

 いやあ、卑しくも文学作品を名のるなら、このくらいの技巧を使いこなしてみせてほしいものだよねえ、とムリなことをいいだしたくなってしまうくらい、ほんとうに美しいのだ。

 そしてその物語――これもまた禁じられた恋の話であり、やはり人が文芸作品を読むとき、まず何よりも心ふるえるのは悲劇性なのだなあと感じられる。この種のセンチメンタルに哀しいお話にこそ、鏡花の本領があるのだろう、きっと。

谷崎潤一郎+夜汽車「刺青」

 それは古の暴君紂王の寵妃、末喜を描いた絵であった。瑠璃珊瑚を鏤めた金冠の重さに得堪えぬなよやかな体を、ぐったり勾欄に靠れて、羅綾の裳裾を階の中段にひるがえし、右手に大杯を傾けながら、今しも庭前に刑せられんとする犠牲の男を眺めて居る妃の風情ふぜいと云い、鉄の鎖で四肢を銅柱へ縛いつけられ、最後の運命を待ち構えつゝ、妃の前に頭をうなだれ、眼を閉じた男の顔色と云い、物凄い迄に巧に描かれて居た。

 谷崎純一郎だ。この「刺青」は谷崎初期の傑作のひとつで、人が思い浮かべる「谷崎らしさ」のようなものが、すでにほとんど完璧に出そろっている。

 あるひとりの女の膚に刺青をほどこそうとする男の物語、のように見えて、この話の主役はあきらかにそのようにして刺青をほどこされる側の女である。

 「悪女」という言葉はいかにも陳腐だが、この作品そのものはかならずやこの世界を震撼させるに違いない大悪女の誕生を感じさせて見事だ。

 道徳にも常識にも反するものとたしかに知りながら、それでもなお、なぜか惹きつけられ見惚れずにはいられない、絢爛たる「悪」の美学――それは、遥か江戸の昔から引き継がれてきた日本の文化ではあるのだろうけれど、それにしても谷崎ならではの「凄み」のようなものがはっきりと感じ取れる。

 古語やら漢語を巧みに使いこなした華麗な美文もまさに谷崎潤一郎ならでは。やっぱり小説はこうでなくちゃ!といいたくなるような素晴らしい一篇である。この倒錯したサディズムとマゾヒズムの匂い、何ともいえぬヘンタイさが日本なのです。

芥川龍之介+げみ「蜜柑」

 が、私の心の上には、切ないほどはっきりと、この光景が焼きつけられた。そうしてそこから、ある得体のしれない朗(ほがらか)な心もちが湧き上って来るのを意識した。

 最後は芥川龍之介である。

 芥川といえば、病的なまでに神経質な秀才作家という印象で、あまり耽美だとか頽廃といった言葉とは縁がありそうにない。じっさい、この「蜜柑」も〈乙女の本棚〉シリーズでありながら表紙に花も美少女も描かれていない(笑)。

 だが、これはいい話なんだな。じっさい、芥川龍之介という作家の世間的なイメージとはまったく異なる、心あたたまるような一作だ。

 ここまで、「悪」だの「禁忌」だの「悲恋」だのといった、文学作品のなかで読む分には素晴らしく思えるが、現実世界ではあまり関わり合いになりたくない事柄を扱った作品ばかりを追いかけてきたが、最後の一作でこのような「ちょっと良い話」を取り上げることができて嬉しい。

 芥川のあのいまにも立ち切れそうなほど張りつめた糸を思わせる繊細な感性は、ここで、珍しくも世界を人間を肯定するために使われているように見える。

 しかも、げみによるイラストレーションがじつに甚大な効果を挙げている。ちょっと意外なくらいオススメの一作、そして一冊である。