【プロフィール】
プロライターの海燕です。書評や映画評などを掲載しています。
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それでは、記事をお読みください。
【本文】
しばらくまえの話になるが、「最近のラノベ界隈が気持ち悪い」と題する匿名ダイアリーの記事が話題になった。
タイトルでは「ラノベ(ライトノベル)」と書かれているが、じっさいに読んでみると、いわゆる「なろう小説」の話であることがわかる。
異世界に転生して冒険したりハーレムを作ったり、あるいは「聖女」になったり「悪役令嬢」になったりする話のことだ。この匿名記事の書き手(いわゆる「増田」)はそういった作品が気持ち悪くてしかたない、というのである。
一「なろう読み」としては言いたいことが色々あるが、まあ、これ自体はわからなくもない。何しろ、男性向けにせよ女性向けにせよ、人間のセキララな欲望をそのままに表現したのがなろう小説であるから、「気持ち悪い」というふうに感じる人はいるだろう。
また、この人は女性であるらしいのだが、異性の同僚から長文タイトルの作品を奨められて、それがとても気持ち悪かった、と語っている。
それもまた、まあわかる話ではある。いわゆる「なろう系」独特の雰囲気に慣れていないひとにとって、それらの作品はおそろしくグロテスクに感じられたりもするものだろう。読みもせず批判するのはどうかとは思うが、読んでみる気にもなれないというのがほんとうのところかもしれない。
それはまあ、良い。問題は、ある同僚からそのような本を奨められて、そのタイトルが気持ち悪かったという、単に「その人が」そう思ったという話が、なぜか「世間」とか「一般」の話に拡大されて、「世間一般の人たちはこのように「オタクコンテンツ」を「気持ち悪い」と思うものなのだから、表に出たりしないで、ちゃんと隠れましょう」という話につながっていくところにある。
ラノベなんて本屋でもラノベコーナーに行かなきゃ見えないし見なきゃいいだけの話だけど一部の人間とか制作、販売側が勘違いしているせいで無差別に簡単に見られるようになってしまっているの本当に良くないし
一般人に安易に勧めたりするの本当にだめ勘違い野郎(同僚)やめろ!!
大声で世間に向けてこれが好きです!!って言えるジャンルではないと思うんだ欲望系ラノベって
――いや、ぼくは大声で「世間」に向けてこれが好きです!!っていえますけど?としか思えない。
そもそもこの「増田」自身がBLものを読んだりする「オタク」「腐女子」であるにもかかわらず、こう思うというのだ。この論理展開はいったい何なのだろう? どこから来ているものなのだろう? ひじょうに興味をそそられる。
しかし、じつはこういうタイプの「オタク」はいる。たくさんいる。いまでは数は減っただろうが、昔はもっと大勢いた。今回は「ラノベ」の話だったから話題になったが、「隠れよう」、「隠れることが当然のマナーだ」と主張するこの態度は、とても既視感がある。
とくにBL文化に対してこういうことをいい出す「腐女子」は、少なくないのである。それではどうやって隠れるのかというと「検索よけをしましょう」という次元の話だったりして、「ぜんぜん隠れていないじゃん!」と思ってしまうわけだが、おそらく本人たちにとっては「隠れたつもり」になることが重要なのだろう。
この場合、「隠れること(隠れたつもりになること)」はひとつの道徳であり、倫理であり、規範なので、「隠れようとしない人」はルール違反として断罪の対象になることすらある。いわゆる「学級会」、集団での「ルール違反」の個人のつるし上げだ。
その「ルール」そのものが本来、ある個人がかってに作り上げた個人的な制約であるに過ぎないにもかかわらず、他人にも強いるわけである。そこでは、「自分たちの趣味は「世間」から見て、とても気持ち悪いものである」という意識が強烈にシェアされている。
傍から見ているとそこまで気にしなくても、と思ってしまうところなのだが、どうもそういうわけにはいかないらしい。しかし、なんだか何もかもちぐはぐで、おかしい。
それもふつうはBL界隈内部の話に留まるのだが、この場合は「ラノベ」などの「オタクコンテンツ」全般に話が拡大されているから騒動が大きくなった。
もっとも、くりかえすが、この種の「オタクによるオタクコンテンツ嫌悪」はかなり広く見られる現象なのである。たしかに女性、それも「腐女子」に顕著に多い印象ではあるが、男性にもいる。
そして、そういう人は「わたしはオタクだが、最近の萌えコンテンツの氾濫は目に余る。ちゃんと規制してコントロールするべきだ」などといい出すのである。ほんとうに、これはいったい何なのだろう?
オタクではない人が(「フェミニスト」とかが)オタク文化を嫌悪するのはわかる。ひとりのオタクとして「何だかなあ」とは思うが、まあ正直、理解できないでもない感覚ではある。
だが、オタクでありながら内心でオタク的な表現を気持ち悪がっているというのはいかにも屈折している。この心理が気になるわけだ。
たしかに、ここでいう「欲望系ラノベ」やBL小説などは、きわめてストレートに性的な、あるいは承認欲求的な「欲望」を打ち出していることがある。そのことの是非はここでは措くが、これは「そういうもの」なので、気持ち悪いといわれたら、そうですか、とは思う。
だが、一方でぼくは考える。この現代日本の「世間」にはそれこそ願望充足的としかいいようがないようにも見えるイケメンと美少女が恋をする類の恋愛小説やら映画、ドラマ、それに「あいらぶゆー、きみだけを愛している」みたいな歌詞を歌ったラブソングがあふれているわけだが、それは気持ち悪くないのか?と。
どうもそれらを気持ち悪いと感じる人は、オタクですらほとんどいないらしいのだ。どういうことなのだろう? なぜ、女性向けをも含めて「欲望系ラノベ」ばかりが気持ち悪く、あいみょんや宇多田ヒカルは気持ち悪くないとされるのだろうか。
もし、一切、「世間」に向けて自分の「欲望」だの「性癖」だのを開陳することが許されるべきではないのだとしたら、恋愛映画やアクション映画だって「気持ち悪い」ものとみなされるべきものではないか。そこにだってあきらかにある種の「欲望」が投影されている。
むしろ、まったくのファンタジーではないぶん、「こういうことがあったら良いな」という「欲望」がそのままに漏れ出ている、と見ることだってできると思う。
もちろん、こう書くと、それとこれとはまったく違うのだからいっしょにするな、という意見が出てくるだろう。しかし、具体的にどこがどう「まったく違う」のだろう。なぜ、悪役令嬢ものの「ラノベ」は気持ち悪くて、King Gnuの楽曲は気持ち悪くないのだろうか?
――いや、もちろんわかってはいる。「現実世界で年ごろの男女同士が恋愛して結ばれる」ことは「世間」では「ふつう」のことであり、そうしたいというのは「あたりまえの欲望」であるからとくべつ問題視されないのだろう。
それにくらべれば、「チートハーレム」だとか「聖女」とかといった「欲望のかたち」は、いかにも奇異で、不自然で、「反社会的」にすら感じられるのだろう。だからこそ、それらは「隠さなければならない」文化なのだとされるのだろう。
①の例3で言うとタイトル見ただけでおっさんとJKのラブコメだってことも、タイトルにある『誘惑』の文字、表紙イラストから男性向けの娯楽コンテンツだってこともわかる、こんなの一般人に紹介したら
『自分は冴えないオッサンだけど未成年の可愛い女の子に誘惑されたいという欲望があります!!!!!!』
って言うようなもん
気持ち悪がられるよ普通に犯罪だし
ここでは「一般人」という人たちが当然のものとして想定されている。おそらく「世間」とほぼ同じ意味あいだろう。
しかし、「一般人」とはだれで、何者なのか。あるいは「非オタク」全体を指しているのかもしれないが、オタクの「欲望」に対置するかたちで「一般的」とされる「欲望のかたち」とは何なのだろう。
――と、考えていくと、まあ、やっぱりここにあるものはある種の「異性愛規範(ヘテロノーマティヴィティ)」なのではないだろうか、と思わざるを得ないわけなのだ。
そしてまた、やはり「年ごろの男性と女性が恋愛し、結婚し、子供を産み育て、家庭を築いていくことが健康で正常なことである。それ以外の「欲望のかたち」は異常で、気持ち悪いものである」というきわめて強固で保守的な観念がひそんでいるように思われる。
だから、はやりの恋愛映画を見に行くことは「まともなこと」でも、悪役令嬢ネタの「ラノベ」を読むことは「恥ずべき、隠すべきこと」とされるのだ。まあわかる。理解できる。
ただ、はっきりいおうか。反吐が出るね。
ぼくはこの手の「オタクコンテンツ」をたくさん見たり読んだりしている「オタク」である。
なるほど、ぼくの「欲望のかたち」は「世間一般」に比して、マイナーであり、マイノリティであり、もっというなら「異常」かもしれないが、だからといって「世間一般」に迎合しようとか、隠れひそもうとかまったく思わない。
異常と指さされるなら、異常でけっこう。ぼくは一生を異常者として、異常者の誇りを抱いて生きて行こう。
――とまあ、こう肩ひじ張ることもできるのだが、じっさいには「オタク文化」が拡散し浸透したいまの社会では、ここまで「世間一般の常識」を振りかざして「オタクフォビア」を主張する人はそこまで多くないだろう(まだたくさんいることはたしかだが)。
時代は変わった。良いことだと思う。
「太宰メソッド」ではないが、何かを「気持ち悪い」と主張したいのなら、主語は「わたし」にするべきだ。「世間」なんてあいまいで正体不明なものを持ち出すべきじゃない。
自分の「お気持ち」を「常識」とか「あたりまえのこと」と主張するな。むしろ、その「常識」をこそ疑え。相対化しろ。ぼくは、ひとりの「社会の「あたりまえ」になじめないオタク」としてそう考えるものなのである。
あなたは、どう思いますか?