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Amazonでポイントバック中!傑作剣術マンガ『片田舎のおっさん、剣聖になる』を通し「男の子の物語」の素晴らしさを語る。

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 プロライターの海燕です。書評や映画評などを掲載しています。

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 それでは、本文へどうぞ。

【未読の人はとにかく読むように】

墓所の主「虚無だ! それは虚無だ!」
ナウシカ「王蟲のいたわりと友愛は虚無の深淵から生まれた!」
墓所の主「お前は危険な闇だ。生命は光だ!」
ナウシカ「ちがう! いのちは闇の中のまたたく光だ!」

『風の谷のナウシカ』より

 はじめに、この記事の結論はこうです。マンガ『片田舎のおっさん、剣聖になる~ただの田舎の剣術師範だったのに、大成した弟子たちが俺を放ってくれない件~』がとてつもなく面白いので、もし未読の人がいたら買って読みましょう。

 いま、Amazonではポイント増額セールを行っていて4~5割ほどバックがあるようです。お得ですね。以上。

 で、すでにこのシリーズを読んでいる人や、これで納得して「そっか。読も読も」と思っただまされやすい心が綺麗で素直な人はそれで良いので、ここから先はまだ未読だけれどぼくのいうことなど信用できないという方に向けて「そういわずに読んでみましょうよ」と語ってゆくつもりです。

 まあ、すでに大ベストセラーになっているようなのでいまさらぼくなどが解説することもおこがましくはあるのだけれど、読んでいない人はつねにいるので。

 それにしても、アニメ化もまだだというのに(たぶん、すでに企画が進行していると思う)、良く売れている。しばらくまえは「無名のすごいマンガ見つけてやった」と思っていたのだが、いまではもう無名どころか、有名も有名、ミリオンセラーレベル。

 「小説家になろう」発の作品としては『転スラ』あたりに比肩する最高級の売り上げなのではないかしらん。

 もちろん、第一巻発売の時点ではとくに名の知れた作品ではなかったはずで、これだけ売れているのはひとえに作品のクオリティの高さの証明といえる。

 日々、次々と「なろうマンガ」が発売されつづける今日ではあるものの、真の傑作はひと握りで、多くの人がそのひと握りを貪欲に探し求めている状況がある。そのなかから、時々こういう「掘り出しもの」が出てくるわけです。

 「なろうバブル」はすでに終わったかもしれないけれど、それでも、「小説家になろう」からは、何万にひとつかの可能性ではあるかもしれないものの、いろいろと面白い作品が出てくる。

 そして、それらはマンガ化、アニメ化されて世界へと広がっていく。素晴らしいことです。が、まずはいまは『片田舎のおっさん、剣聖になる』について話をしましょう。

【剣聖なのになぜか自己評価が低い「おっさん」】

 「なろう系」の作品のつねとして、タイトルで内容がわかってしまうのですが、これはある辺境の道場にひきこもっていたある「おっさん」が、弟子に誘われて都会へ出て行き、剣聖と呼ばれるまでになっていく物語です。

 と、こう書くと「ああ、何かチートを獲得したのね」と思われてしまうかもしれないですが、そういう要素はまったくありません。主人公の「おっさん」ベリルはあくまで辺境の地で地道に剣を磨いてきた人物なのです。

 とくべつ大きな夢もなく野心もなく、人生まあこんなものだろうと思い込んでいるひとりの無欲な「おっさん」であるに過ぎない。

 ところが、かれが育てた弟子たち(なぜか美少女ばかりなのはご愛敬)がいずれもとんでもない業績を上げたことから、田舎に埋もれたまま終わるはずだった「片田舎の剣聖」ベリルは一躍スポットライトを浴びることとなる。

 とても剣の天才には見えないベリルの正体を暴露してやろうと、いろいろな者たちが襲いかかって来るものの、じつはベリルの実力は桁外れで――と話は続く。

 凄まじいまでの実力を誇る正真正銘の〈剣聖〉でありながら、謙虚で篤実なベリルが強敵たちを打ち破っていくさま、そしてそれだけ実績を上げてもなぜか自己評価がめちゃくちゃ低いところが興味深い。

 おっさんおっさん、あなた、昔、何かそこまで自己肯定感を削られる出来事があったんですか? 

 まあそれは良いのだけれど、その国で屈指の実力者たちを弟子に持ちながら(そして、かれら以上の剣の腕前を誇りながら)、どうしても自分に自信を抱けないらしいベリルの描写はもどかしくも面白い。

 ただ、この作品の魅力はそういうふうにあらすじを語っても伝わらないでしょう。それはひとつには、剣術に関するディティールの精密さにあり、作画を務める描き手のマンガ力の高さにあるとはつとに語られるところです。

 じっさい、ぼくには良くわからないけれど、このマンガの剣術描写はその道に通じた人にとっても驚くべき水準にあるらしい。しばしばその種の解説を見かけます。

 ただ、それらをマネして語ってもしかたないので、ぼくは違うところに目をつけたいと思います。ベリルを初めとする人物たちが「剣」に向き合うその姿勢が何とも素晴らしいのです。

 この物語は「剣の闇」と正面から向き合っている凄みがある。そこが個人的には最大の魅力を感じるポイントだといっても良いでしょう。

【ベリルと「剣の闇」】

 ベリルは、一見すると「どこにでもいるふつうのおっさん」に見えるものの、その実、剣に人生のすべてを賭け、「道」を追求してきた男です。

 かれはふだん、まわりがいたたまれなくなるくらい謙虚に振る舞うものの、ときとして「剣の鬼」としての顔を垣間見せるようでもある。その、ひとりの「剣に憑かれた修羅」としての恐ろしさが、ふと、感じられるところがたまらない。

 そもそも、ちいさな道場で弟子たちに剣を教えつづけ、日ごろから「剣は良い」と語るベリルは、剣をあくまで人を成長させ、良い方向に導くポジティヴなものと捉えています。

 しかし、かれが極限まで磨いた剣は、やはりあくまで殺人の方策でもあるのです。いつも温厚で偉ぶらず、目下に対しても誠実に振る舞う優しいベリルではあるけれど、剣を追求することに専心する人殺しの剣鬼には違いないのですね。

 つまり、剣には光と闇、その両面があるということ。

 これから先、いままで地味な暮らしをしてきたベリルは栄光と讃嘆を受け、光の道を往く剣聖になっていくのだろうと思います。ですが、それでも、剣から闇の側面がなくなるわけではありません。

 「ただ強く、もっと強くなりたい」というストレートな欲望は、ときとして人を「人外のバケモノ」のように変えてしまいすらする。その欲求はある意味では少年のように純粋なものではあるかもしれませんが、それでも、否、そうだからこそ、途方もない「闇」に続いているのです。

 こういう「強く、もっと強く」という「純粋な「道」の追求」を描く作品群を、ぼくは「男の子の物語」と呼んだりします。

 『ドラゴンボール』でも『リングにかけろ』でもそうですだ、少年マンガのヒット作などはほとんどがその「男の子の物語」です。

 たとえば、ぼくたちは冨樫義博の名作『幽☆遊☆白書』に、「男の子の物語」の可能性の極北を見ることができるでしょう。そこでは、「戦いつづけること」はもはや手段ではなく目的と化していて、そのことの深遠なむなしさが暴露されている。

 あるいはまた、山田風太郎の代表作『魔界転生』は「男の子の物語」の最高傑作でもあるといえます。

 この作品のなかで、それこそ剣聖といっても良い天才的な剣客たちは、まさに「もっと強くなりたい」というそれだけのために、人間であることを棄ててしまう。「剣の闇」の果てには、まさにそういう光景があるのです。

【男の子の物語】

 男の子の物語、それはタナトスの物語であり、ニヒリズムの物語でもある。剣を、強さを追求すればするほど、そのことそのものの無意味さ、むなしさが露出するわけです。

 中国の伝説的な大作家、金庸の『秘曲笑傲江湖』などもその「剣の果てにある虚無」を描いています。この作品では、もっと強く、男らしくなろうとする剣客たちの追求の果てに、途方もない落とし穴が待っている。

 自分のなかのマチズモを追いかければ追いかけるほど、それとは真逆のある地獄に落ち込まなければならないという矛盾がこの作品のテーマです。

 ちなみに『機動戦士Gガンダム』のキャラクターとして有名な「東方不敗」という名前はもともとこの作品の登場人物から採られています。より正確にはその映画化作品かららしいけれど。まめちしきー。

 「男の子の物語」は、また、ある意味では「強者の物語」でもあります。『片田舎のおっさん、剣聖になる』、この作品には典型的な「男の子の物語」の魅力があるんですね。

 そのなかで、ベリルもまた「生きることそのものが剣」であるような人間として描かれているのだけれど、かれはいまのところ、「剣の虚無」に呑み込まれる様子がありません。

 かれにとって剣は「あいてより強くなろう」とするマウントの手段というより、あくまで純粋な技術の道なのです。そのため、かれはおそらくギリギリのところではあるのかもしれないけれど、「剣の闇」、「剣の虚無」とは無縁でいられる。だからこそ、かれはヒーローなのです。

 しかし、そのかれのまえに、まさに「剣の闇」に呑まれたかと見えるべつのキャラクターが登場してきます。それは、いわばベリルの鏡像、ミラー・イメージだといっても良いでしょう。ベリルは自分自身の影と斬り結ぶ――いやもう、ぼく、こういうストーリーが大好きなんですけれど。

 ぼくがいうところの「剣の闇」とは、「強さの闇」であり、「男らしさの闇」でもある。「強く、もっと強く」と望むことは、どうしてもそのような「闇」へ、「虚無」へつながっている一面があるのだということ。

 ある意味ではその「闇の深さ」こそが剣の魅力でもあるのでしょう。それなら、「闇」を見つめ、「闇」を愛し、あるいは「闇」に愛されてなお、「闇」に呑み込まれない道はあるのでしょうか?

 『風の谷のナウシカ』ではありませんが、「虚無」と直面してなお「虚無」に呑まれないことは可能なのでしょうか? ぼくはそのようなことを考えながら、『おっさん剣聖』を読んでいます。

 いや、このマンガ、ほんとうにすごいので、未読の方がもしいたら読んでみてください。原作も悪くはないのだけれど、マンガのほうの出来が良すぎる。いずれアニメ化されたとき、どれくらいマンガを意識した作品になるのか、注目しています。

 テーマやコンセプトの話はともかく、『少年ジャンプ』でもめったに見ないくらいのアクションが爽快な快作なのです。ぜひ。