母性殺害事件、あるいは母の呪いを解くたったひとつの冴えたやりかた。

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 プロライターの海燕です。書評や映画評などを掲載しています。

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 それでは、本文へどうぞ。

【母殺しは可能なのだろうか】

 先日、いままさに『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』が話題沸騰中の三宅香帆さんによる新刊『娘が母を殺すには?』が発売された。

 「娘による母殺し」を主題としたきわめて画期的な内容で、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』のようなベストセラーではないだろうが、個人的にはより重要な指摘がなされていると感じる。

 少女マンガや女性作家による文学作品といったフィクションに登場する「母と娘の物語」を参照しつつ、母娘関係の問題をつまびらかにしているのだが、今後、その種の女性による女性のためのフィクションを語る際には必読の文献といえるだろうし、それ以前に以前からその手の作品を読んできた人間にはめっぽう面白い。

 ぼくとしては納得がいかないところもあれば「それはどうなんだろう?」と疑問に思う点もまたあるのだが、そこも含めて、ひじょうに価値が高い一冊といって良いと思う。

 ネットでの連載時から追いかけていたのだが、無事、刊行されてほんとうに良かった。どれほど批判的に見ても、これから先、少女マンガや女性文学を語るとき、本書を無視した議論はありえない、それくらいの業績であるといっても良い。

 類書としては斎藤環の『母は娘の人生を支配する』などがあるが、それより先に進んでいる印象を受ける。もちろん、いずれは「この先」もまた探求されなければならないだろう。しかし、そのことは本書の意味を貶めるものではない。文句なしの快著である。

 それにしても、「母殺し」とは衝撃的な言葉である。だが、もちろん、じっさいに自分の母親を殺害することではない。重要なのはあくまで象徴的なレベルで「母なるものを乗り越える」ことであり、じっさいに殺してしまったら本末転倒なのだ。

 とはいえ、この本は冒頭から「ほんとうに母親を刺し殺してしまった」実例を描く。そして、その上で物理的に母を殺してもなお、「母の呪い」は解けないことが示されるのである。

 これは、重い。あまりにも重い。ある意味では母は殺しても殺せないのだ。いったいこれほど強い「母の呪い」に対し、娘にどのような解呪の方法があるだろうか。冒頭からしてサスペンスフルな展開が続く。

 そもそも、いわゆる「父殺し」、すなわち「息子が象徴的な意味で父を殺すこと」がストレートに英雄的行為でありえるのに対し、「母殺し」、つまり「娘が母を殺すこと」にはどうしようもなく「罪悪感」なり「罪の意識」がともなう。

 それは結局、ひとえにこの社会で「母なるもの」が過剰に礼賛されていることの証左でもある。

 歴史的に見れば、いまのような「母子密着」による子供の育成は決してあたりまえのものではないのだが、近代以降の産業社会においては「母なるもの」は徹底的に美化され、称揚されている。そして、それ故に、「そのような母を殺すこと」は幾重もの意味で困難を来たすのだ。

【萩尾望都と山岸涼子――ふたりの天才】

 そこで三宅は、まず、戦後のマンガ界を代表するともいえるふたりの天才作家を対比的に語る。萩尾望都と山岸涼子である。

 彼女は先に萩尾の『イグアナの娘』、『ポーの一族』、『トーマの心臓』、『残酷な神が支配する』などを引き、萩尾が「少年どうし」の対関係に「母なるものから逸脱した関係」の希望を見いだしていると書く。

 そして、続いて山岸涼子、その最高傑作ともいうべき『日出処の天子』を取り出して、その物語が「運命的な絶対愛の拒絶」をもって終わっていることを示す。三宅の主張はこうだ。

 ここに、萩尾望都と山岸涼子の決定的な差異――母の代替をパートナーに見出し、永遠のユートピアを描いた萩尾と、母の代替をパートナーに求めることは、ナルシスティックな暴力であることを示した山岸の差異がある。 

 そして、

 萩尾も『残酷な神が支配する』において、イアンの口から「親も神ではなく人間だ」と告げさせていたが、結局イアンはジェルミの完璧な「母」になった。何より読者は、萩尾の描く美しい同性愛に、少なからず女性性を脱臭したユートピアを見出してしまうだろう。だが『日出処の天子』は、それを許さない。山岸の冷たい目線は、少年たちが「母」の体内に籠ることを許さない。

 そうだろうか。ぼくには萩尾が「永遠のユートピア」を描いているとする解釈はいかにも一面的に思える。『トーマの心臓』にしろ、『ポーの一族』にしろ、『残酷な神が支配する』にしろ、その結末は「永遠のユートピア」というにはあまりに苦く、破綻を孕んでいないだろうか。

 『トーマの心臓』は罪の意識を背負ったユーリがひとり旅立つところで終わっているし、『ポーの一族』はそれこそ永遠であるかと思えたエドガーとアランの関係の終焉を描いて完結している(数十年後にさらに続編が発表されるのだが)。

 また、『残酷な神が支配する』におけるジェルミとイアンの不安定で不完全な関係を楽園的なものと見ることは、少なくともぼくにはどうしても納得がいかない。本書を読んでいて、最も強烈な違和を感じたのがこのポイントだった。

 イアンが「完璧な母」という解釈にも強烈な違和感がある。あるいはそれは男性であるぼくが、多くの女性読者とは異なり、三宅が「萩尾の描く美しい同性愛」と呼ぶものにただ美しいだけではないなまめいたものを感じ取ってしまうからかもしれないが……。

 とはいえ、『残酷な神が支配する』のあの結末を読んで、「ああ良かった。これでジェルミは母の呪縛から解放されて、イアンと幸せになれるんだな」と思った読者がどれほどいるだろう。あのエンディングをユートピア的な結末と見ることはあまりに解釈が先んじているように、ぼくには感じられる。

 だが、それはまあともかく、『日出処の天子』がナルシスティックな対関係を否定していることは明確に見て取れる事実である。

 この作品の結末において、運命のパートナーとして見出だした男に「母の代理」を求めてついに得られなかった主人公・厩戸王子はひとりの痴呆の少女をパートナーに選ぶ――あたかも、何らかの凄惨な復讐であるかのように。

 『日出処の天子』は互いに唯一にして絶対のあいてとして愛し愛される「鏡像愛」を拒んだのだ。

 それは、「ユートピアファンタジーとしての同性愛」を拒んだともいえるだろうし、ある種、「不完全な現実の人間関係」の端緒に着いたともいえるだろう(もちろん、厩戸はそういった不完全さをどうしようもなく孕んだ「現実の人間関係」から逃れるためにこそ母のイメージを追っているのだが、ともいえるだろうが)。

 このあまりにも悲劇的な結末によって『日出処の天子』はそれこそ永遠に不滅の名作となったわけだが、結局、厩戸の「母殺し」は失敗したことになる。そして、三宅はここから果敢に「厩戸王子が「母殺し」を実現するための方法はなかったのか」と探っていく。

 で、槙村さとるやよしながふみなど、じつにいろいろな作品が参照され、批評の俎上に上げられるのだが(ほんとうによく読んでいるよね)、まあ批評書なのでネタバレも何もないと判断して書いてしまうと、最終的には「母の規範」から出るために「母の規範から逸脱する欲望」を持つことが大切であるとされる。

 それはヒト、コト、モノ、何でも良い。とにかく「母娘が、お互いを唯一無二の存在だと思わない」ことが大切なのだ。本来、まったく異なる人格と個性を持っている母と娘がたがいにナルシスティックな投影を行う母子密室を、母とは異なる欲望でぶっ壊して脱出すること。

 三宅は書いている。「母への愛着に対抗できるのは、別の何かへの愛着しかないのではないかとも思う。目には目を、愛着には愛着を」と。

 しかし、『日出処の天子』の厩戸がまさにそうであったように、たったひとりのヒト、あるいはコトやモノへの愛着は、たやすくあらたな密室を、つまり共依存関係を創り出す。だから、三宅は注意深く記す。

 また、母に代わるような絶対的な愛情を求めないことも重要だろう。母の代替を探し始めると、出口のない迷路に迷い込む。母の代替を探そうとした『日出処の天子』の厩戸王子は、「その実それは……あなた自身を愛しているのです」と告げられていた。つまり、母の代替を探そうとすることは、他者に出会わず、自分自身の内側に閉じこもることを意味する。 

【「執着」と「溺愛」】

 お説ごもっとも、ではある。しかし、現実にいまの「女性向け」創作作品を見ていると、むしろ「母に代わるような絶対的な愛情」を示す「他者に出会わず、自分自身の内側に閉じこもる」作品が大勢を占めているといえないだろうか。

 いま、たぶんボーイズ・ラブでも少女マンガでも、あるいはネット小説でも、最も人気のあるパターンは男性の女性に対する(攻めの受けに対する)病的なまでの「執着」であり「溺愛」だろう。

 これらは批評的というか「文学的」に見るならナルシスティックな「鏡像愛」の範疇を出ないわけだが、一方でその氾濫を眺めているといかにひとがこういったイメージを強烈に欲しているのか痛感させられる。

 それは女性にかぎらない。いまでは男性向けもあまり変わらない情勢になっているように思えてならない。

 「母に代わるような絶対的な愛情を求めないこと」がひとの成熟に取り重要なのは間違いないが、同時に、それは一切、「絶対的な価値」が存在しない不安定な世界に投げ出されることを意味する。

 すべての人間に絶対的な座標を意味するはずの「神という名の父」が「殺されて」久しい(ニーチェの『ツァラトゥストラ』)この何もかもが相対的になったポストモダンの社会で、ひとはどうしても「絶対にして完全な愛」を求めてしまうのではないか。それは逆らいがたいほど心地良いファンタジーなのだから……。

 しかし、そういった「おのれの鏡像に対する純粋な愛」の次元に留まるなら、ほんとうの意味では何も愛することはできないこともたしかである。ファンタジーはとても気持ちいいが、同時に「しょせんそれだけのもの」という気もしてしまう。

 あるいはみんな、つまらない現実なんて見たくないのかもしれないけれど、ぼくは現実世界がつまらないだけだとは思わないのだ。

 おそらく、「絶対愛のファンタジー」を求めることそのものが間違えているのではない。ただ、ぼくなどはやはり、それは物足りないと感じてしまう。

 そういった対のファンタジーは、とてつもなく快くて、心地良くて、気持ち良くて――そしてどこかむなしい。ぼくはやはりどんなに不安定でも不完全でも、ほんとうに人は人を愛せるのだという可能性を見てみたいのである。

 その意味で面白いのが『花野井くんの恋の病』で、これは典型的な「溺愛執着型」の愛が重い男子とかれに愛される少女の話なのだが、連載はいま、その「溺愛と執着」が本質的に問題含みであることが暴露され、主人公ふたりがいったん別れて距離を取るところまで来ているのだ。今後、どのような展開になるのか目が離せない。

 また、思えばあの『シン・エヴァンゲリオン劇場版』において、主人公・碇シンジがけっきょく儚く美しいレイとも、似た者どうしのアスカとも、あるいは絶対的な友愛を示してくれるカヲルとも結ばれなかったのは、まさに「鏡像どうしの純愛」を避けるためだったのだろう。

 シンジは自分を盲目的に愛してくれるあいてを避けることで成熟への一歩を踏み出したのだ(しかし、男性であれ女性であれ、この結末に納得できない多くのファンはたくさん同人誌を生み出して物語を「補完」しているのだが!)。

 一切の破綻の可能性を孕まない「完全な愛」は、まさに完全であるがゆえに自己愛の域を出ない。しかし、それでも多くの人は、ぼくもそうだが、どうしようもなくその「完全な愛」、「とざされた完全な世界」に惹かれてしまう。

 たとえ現実離れしたファンタジーだとわかっていても、「そういうものなのだ」と理解したうえで消費するなら無害だとはいえるかもしれない。だが、ほんとうにそれで良いのだろうか? それで十分に満たされるのか? ぼくはいつも疑問に思うのである。

 ここら辺、腐女子も夢女子も、そうではない人も含めた多くの女性たちはどう考えているんだろう。だれか意見を教えてほしいところ。もし、ご意見がありましたらよろしくお願いします。そもそもぼくのブログはまったく女性には読まれていない気もするけれど。