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オタクは女の子になりたがっている? 「ポスト性同一性障害男子」は「政治的に正しい自慰」の夢を見るか。

 『萌えの研究』を書いた大泉実成(id:oizumi-m)はそれに続く『オタクとは何か?』の第12回で次のように書いている。 

 僕は前作の『萌えの研究』の中で、どうしても理解できない作品として『マリア様がみてる』をあげた。自分の目の前に立ちはだかる最大の壁、といった言い方もした。

 なぜかといえば、このミッション系お嬢様学校の、「姉妹(スール)」と呼ばれる女子高生同士の恋愛の姿の、その何をどう楽しんでいいかがさっぱりわからなかったからである。そこには僕の入り込む余地がまるでないのだ。なぜなら、そこには自分の自我を託せるような男性主体が出てこないからである。

 今日は、ここらへんの話をすることにしよう。題して「オタクは女の子になりたがっている?」。

 大泉は、上記の文章に続けて、こう書く。

 その後、取材を進める中で、僕は次のような理解をした。すなわち、僕のような未熟者は作品の中にどうしても自我の託せる男性キャラが欲しくなるが、熟練のオタクの妄想力があれば、女の子だけの話にも十分自分の妄想をぶち込むことができるはずだ、と。

 しかし、そうではなかったのである。

 彼らは、彼らの中の少女を十二分に共鳴させて、作品中の女子高生と同一化していたのである。彼らはそこで女になりきり、女として恋愛を、そして他愛のないおしゃべりを楽しみきっていたのだ。

 ひとつの納得できる結論ではある。男性が男性の出てこない作品を楽しめるのはなぜか。それは、じぶんの男性性を捨てて、女性になり切っているからだ、というのだ。

 大泉のように考える論者ほかにもいる。たとえば、男性学学者の熊田一雄は、著書『男らしさという病?』のなかで、ササキバラ・ゴウの論考を踏まえた上で、次のように述べている。

 このように論じると、百合を愛好する男性も作品のヒロインたちの「かわいさ」を一方的に値踏みしているのではないか、「男→女」というポルノ的な視線の一方性に変化はないのではないか、と反論されるかもしれない。しかし、本書第5節(引用者注:『マリみて』ファンの男性たちが掲示板で交わした文章のログが掲載されている。)の、「どうして俺は女子高生じゃないんだ!」という発言に象徴されているように、百合を愛好する男性は、作品を外部の視点から一方的に観察しているのではなく、作品中の登場人物である女性に自己同一化しているのであり、やはり彼らの男性性は「フェミニスト的偽装」からさらなる変容を遂げ、確実に一歩前進しているのである。

 ここでも百合男子が作中の女性になり切っていることが自明視されているわけだ。

 ただ、実はここらへんの話はひとりの百合オタとしてのぼくの実感とはかけ離れている。ぼくはフィクションのなかの女性に自己同一化したりしない。それをいうなら、男性に自己同一化もしない。ただひたすら眺めて楽しむだけ。

 ぼくには「自分の自我を託せるような男性主体」が出てこないと作品を楽しめない、という感覚がよくわからない。だって、小説でも映画でも、自分の自我を託せる人物なんて出てこないことが普通じゃね?

 ただ、一般論としていうなら、たぶんそういうひとも少なくない、そしていまも増えつづけていることも事実だろう。

 その背景にあるものは、女性性(正確には、女性性に対する幻想)への憧憬であり、そしてときには男性性への嫌悪感であると思しい。

 この記事では、男性の百合萌えを「女性と女性の絡みを眺めることによる精神的充足」、「脳内での女性キャラクターへの同一化による、感情移入」、「男性への嫌悪→自己の否定」の3段階に分けた上で、このようにまとめている。

 どうだろう?

 当たらずとも遠からずと言った所だと思うのだけど。

 第1段階に当たる人は恐らく腐るほど存在すると思う。僕もその一人だ。

 ゲイがまぐわるのは耐えられないけど、女性と女性ならどんとこい。

 でも許されるのは、「美×美」の状態のみ。

 つまり美しければ問題はない、と言うのが一般的な見地だと思う。

 「美×美」に萌えているということは、第1段階にいる人は至ってノーマルな人であることがわかる。

 綺麗なものに愉悦を見出すのは男としても女としても、何も間違ったことではないのだから。

 ところが、萌え属性ではなく、完全に百合を偏愛している人はそうはいかない。

 第2段階に入ることで、百合の世界に擬似的ではあるが、主観を見出すことが出来る。

 そして第3段階に入り、最終的には男性を否定してしまう。

 これは即ち自分自身の否定だろう。

 男性であることを認識してはいるにも関わらず、それを認めたくない。

 ポスト性同一性障害と名付けるべきか。

 ここでも、百合男子は作中の女性と同一化し、最終的には男性性を嫌悪するに至るとされているわけだ。

 しかし、それでは、なぜかれらはそんなにも男性性をきらわなければならないのだろうか。自分自身、男性なのに。いや、男性であるからこそ、男性性のひどさ、みにくさ、あさましさを知っているのだ、というべきだろう。

 ここらへん、女性性に嫌悪感を抱く女性たちと、たしかによく似ている。だから、このように書くひともいる。

 いつも読んでるニュース系サイト見てたら、自己否定へと導く百合への愛情っていうトコがあって見に行ったのよ。

 いやもう、この書き込みテキストの「男」を「女」に置換するだけで、まんまやおい系の腐女子の心理を示すテキストになりますよ!

 人間の心の働きというものは、根源的には性差は無いのだろうか、と思うぐらいそのまんま。

 しかし、やはり両者を完全に同一視することはできない、とぼくは考える。一部の百合男子たちが嫌悪してやまないのは、男性性そのものであると同時に、男性性の「加害者性」であると考えられるからである。

 じつは、男性であることと誠実に向き合った結果、男性である自分に絶望してしまうのは、何も百合男子だけの話ではない。

 独自の「生命学」を提唱する学者の森岡正博は、著書『感じない男』のなかで、男性である自分に対する違和感と、嫌悪感、そして女性性への憧れを赤裸々に語っている。

 私の心の底には、まだ自分に男性ホルモンも、筋肉も、体毛も、精液も満ちていなかった、あの少年のころの体へと戻りたいという思いがある。そしてできることならば、あの思春期の分岐点を、男性ホルモンも、筋肉も、体毛も、精液も存在しない「女の体」のほうへと向かって、大きくカーブしてみたかったという思いが存在する。

 もちろん、森岡は生身の女性がそれほどに清潔な存在ではありえないことを知っているだろう。しかし、理性でそうと悟っていてなお、女性性への憧れは募るのである。

 たぶん、森岡が憧れているのは、一部の百合男子たちと同じく、生身の現実の女性というよりは、かれらのなかで理想化された架空の女性イメージなのだろうと思う。

 そしてまた森岡は、そのことを踏まえてこのように書く。

 このように、ロリコンの原因は、ロリコンの男が自分の体を自己肯定できていないところにある、というのが私の仮説である。ロリコンの男は、空想の中で自分の体を抜け出し、目の前の少女の体にこっそりと乗り移っているのである。いわゆる「おたく」の男たちの多くはロリコンであると言われているが、彼らが自分の体の外見に対してきわめて無頓着であるらしいということ、そして彼らがネット上で少女キャラに自分を同一視する傾向があるらしいということも、この仮説で説明できるように思われる

 森岡の場合は「おたく」一般が少女への同一化をめざしていると語っているわけだが、とにかく「男性による男性嫌悪」と「女性化願望」をセットで語っているという点では、これまで見てきた言説と同根である。

 このような見方はどの程度妥当なのだろうか。百合男子は本当に少女になりたがっているのだろうか。たぶん、ある程度は本当なのだろう、とぼくも思う。

 しかし、たぶん百合作品そのものの本質的な魅力とは、関係ない話でもあるとも考える。男性性への嫌悪がない人間にとっても魅力的な百合作品もありえるだろう。女性性への嫌悪がない女性にとっても魅力的なボーイズ・ラブ作品があるように。

 より深刻な問題は、百合男子がどれほどマッチョな男性性を嫌悪しても、やはりかれは男性でしかありえないということだ。

 どれほど繊細な人物でも、たぶんほとんどの場合何かしらの性欲がわくのだし、その欲望を解消しようとすれば、それはどうしても女性への一方的な性的視線を伴う。

 男であることは、ただそれだけで、どうしようもなく暴力的なのかもしれない。ときにはげしい自己嫌悪をひきおこすほどに。この問題をどのように解決していけばいいのだろう。

 森岡によれば、男性が抱えるそのような暴力性は、男性の不感症から来ているのだという。そして男性が「感じない男」から脱出するためには、不感症であることを実感し、そのことを「やさしさ」につなげていくことが大切なのだという。

 かれはいう。

 性のパートナーがいないときには、マスターベーションした直後に、人々に対するやさしい気持ちを自分の心の中に満たしてやるといいかもしれない。鍵になるのは、不感症であるからこそ発揮できる「やさしさ」である。「敗北感」と「自己否定」と「復讐」に向かいがちな不感症の体験を、生命あるもの、傷つきやすいものに対する「やさしさ」へと振り向けていくことは可能であると、私は確信する。不感症をやさしさの根源とすること、こことに「感じない男」からの脱出口が開いている。

 不感症をすなおに認め、射精のあとでやさしい気持ちになれるような心身をとりもどし、自分のセクシュアリティのねじれや対人関係のねじれを解きほぐし、そのあとではじめてセックスの心地よさを探検していくという筋道があるはずだ。

 森岡のいうことを、ぼくは理解できると思う。しかし、一抹の違和感は禁じえない。「セクシュアリティのねじれ」を解きほぐす、と森岡はいうが、それでは「ねじれていないセクシュアリティ」とは、どんなものだろう。

 愛とやさしさにあふれ、野蛮さや攻撃性はなく、自己否定感もなく――うーん、うまくいえないのだが、何だか違う気がしてならない。

 そういう「政治的に正しいオナニー」をしよう、という考え方には、やはり無理があるのではないか。森岡のポルノ作品に対する姿勢には、ホラー映画の残虐シーンを取り除こうとするひとのようなナイーヴさを感じる。

 結局、こたえは出ない。まあ、ぼく自身には男性性への苦悩も違和もまったくないんですけどね。この落差はどこから出てくるのか少々興味深い。『おにまい』とか連想するところだよなあ。

 ここらへん、女性の百合オタ(百合女子)はどう思っているのだろう。そこまではぼくにも想像がつかない。

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