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「「エビデンス」がないと駄目ですか?」問題を交通整理する。

 朝日新聞の「「エビデンス」がないと駄目ですか? 数値がすくい取れない真理とは」という記事が批判を浴びている。ネットではほぼ「炎上」状態である。

 有料記事だが、期間限定で無料で読める形で拡散している人がたくさんいるので(ありがとうございます)、ぜひ、読んでみてほしい。わたしはとても興味深く感じた。

 もちろん、記事に賛同するわけではない。ツイッターなどでの批判は当然だ。

 一切の保留なく「「エビデンス」がないと駄目ですか?」といわれたら「ダメに決まっている」としかいいようがない。

 「エビデンス」というと堅苦しく感じられるが、ようは発言には何らかの明確な根拠が必要とされるというあたりまえの話に過ぎないのであって、何ら根拠のない発言が流通し通用するようでは建設的な議論はおぼつかない。

 いままでエビデンスにもとづかない主張をたくさん行っていながら、この記事を掲載した朝日新聞の態度は「開き直り」ともいえるもので、きわめて悪質だ。

 多くの人がそういっているし、わたしもそう思う。

 この記事ではエビデンスが差別を生み、社会を分断するかのように書かれているが、エビデンスのない主張こそが差別の温床なのであって、たとえば「とくにエビデンスはないが、何となく外国人は悪事を企んでいる気がする。わたしのそのようなささやかな不安は抑圧されてしまうのだろうか」というような発言は、ストレートに差別につながるだろう。

 この種の主張の悪質さは、自身を「無視され抑圧される被害者」としてのみ認識し、その主張の「加害性」を無視しているところにある。

 記事の本文中にも、このような記述がある。

福島に住む人たちは、原発をめぐって様々な体験をしてきました。帰還困難区域や地域ごとの支援金の額の線引きで、住民同士の摩擦が起きたり、葛藤に苦しめられたりしています。被曝線量でも問題の残るデータ利用がありました。甲状腺がんの訴訟も起きていますが、このような文脈があるなかで「エビデンスがあるから処理水は安心だ」と言われても、健康に関わる心配は絶えないでしょう。


ある人は「エビデンスに殴られているような感じがする」と言っていました。政治や大企業はエビデンスを振りかざし、彼らの恐怖を無視している。不安の声をふさいで、一人ひとりを無力化しているのではないかと思います。

 「エビデンスに殴られているような感じがする」。

 それがほんとうにあったのかどうかはともかく、きわめて印象的な発言である。

 ここでは、「エビデンスのない発言をすること」の加害性は隠蔽され、ひたすらにそれが抑圧されることの被害性だけが注目されている。いかにも朝日新聞らしい論法というしかない。

 また、記事のなかで取材を受けている村上氏もこのようにツイートしている。

 福島県への差別につながりかねない加害的な発言を行っていながら、あくまでその認識は「侮辱されている・貶められている」という「被害者ムーヴ」なのだ。

 氏の主張の本質はここにこそあるのではないだろうか。

 自身の加害性への徹底した無自覚。自分の主張を理解されず、一方的に攻撃されているという過剰な被害者感。

 たしかに、上記の記事を読みもしないで侮辱し攻撃している人がいないわけではないだろう。

 しかし、一方で記事の内容を正確に理解した上で批判している人もたくさんいるはずだ。そのすべてを一括して却下する姿勢は知的に不誠実である。

 ただ、じつは「どんなに明確なエビデンスで説明されても、不安なものは不安だ」というその感覚そのものはまったく理解できないわけでもないのだ。

 客観的には大丈夫だとわかっていても不安になることはたしかにある。

 わたしは観覧車に乗るのが苦手で(ジェットコースターは平気)、はっきりいってしまうと怖くて乗りたくないのだが、「こんなにたくさんの人が乗っているのだから安全だろう」などといわれても怖いものは怖いのである。

 その不安の心理をあざ笑われたら腹が立つ。それはそうだ。

 SF作家のアイザック・アシモフは飛行機が苦手で、生涯、搭乗することがなかったらしい。だが、それはべつだん、飛行機の安全性について理解していないわけではないだろう。

 ボストン大学に准教授として務める科学者でもあったかれは飛行機のほうが自動車より安全であるという統計的エビデンスを十分に理解していたはずだ。

 その上で「乗りたくないものは乗りたくない」と決めていたに違いない。

 こういう態度は、非合理的ではあるかもしれないが、ある種の人間らしさとしてとてもよく理解できる。

 杞憂という言葉の語源になったという杞の国の人のように「天が落ちて来るかもしれない」と考えることは愚かかもしれないが、その心理そのものはだれでも少しは理解できるのではないか。

 理屈を超えた不安というものがある、ということには一定の普遍性がある。

 また、そのような不安心理を抑圧するべきではない、ということもわかる。

 問題は、そのような心理には政治的主張に利用される懸念がある点に無自覚であるように見えることだ。

 村上氏は書いている。

人は単純な説明に乗っかってしまいがちです。エビデンスがあると言われたら、理は相手にあり、負けたような気になってしまう。でも、生きるってそんなに単純なことではないはず。もっと複雑であいまいです。相手がなぜそんなデータやエビデンスを示すのか、自分との間に線を引こうとしたのか、相手に聞いてみるのはどうでしょうか。エビデンスや数値にはすくい取れない真理もあるのです。


僕は真理には3種類あると思います。自然科学や社会科学の文脈から、データで導き出せる客観的な妥当性。一人ひとりの経験の中にある真実。そして、人権のような理念。理念は数値化できるものではないけれど、普遍的な価値を持っています。

 理解できる意見ではある。たしかに、「一人ひとりの経験の中にある真実」や「人権のような理念」は科学的に証明できないとしても大切にするべきものだろう。

 その「客観的に証明できなくても大切にするべきものがある」という考えかたそのものには賛成できるのだ。

 たとえば、ある人が長い人生経験を通して「家族は大切にするべきだ」という主張をしたとして、その人に「それは科学的に証明されているわけじゃないただのあなたの感想ですよね」などということはいうべきではない。

 たとえ客観的なデータとして立証できないとしても、その人の膨大な人生を背景にして生み出された経験知には一定の価値がある。それはリスペクトをもって尊重されるべきものだ。

 また、そこに科学的な裏づけがないとして「人権のような理念」を踏みにじることも許されないだろう。

 もちろん、理屈の上では「人権概念にはじつは根拠がない」といった議論を展開する余地はあるし、そういったやり取りは行われるべきだ。だが、一方で人類が長い年月をかけて培ってきた思想にはそれなりの意味があるし、尊重されてしかるべきものであるに違いない。

 村上氏の主張はとてもよくわかる。賛成すらできる。それでは、かれの理屈はどこがおかしいのか。

 それはひとえに、この三つの「真理」を混同してしまっている点にあると思われる。

 それらは同じように「真理」ではあってもいわば別種の「真理」なのであって、べつの意味と価値を持っているのである。

 だから、それらをいっしょくたにして「どれも真理なのだから同じように尊重するべきだ」とすることは端的にまちがえている。

 科学的エビデンスが尊重されるべき場合もあるし、科学に拠らない人生経験が大切だとされるべきときもあるし、人権思想にもとづく理念が何より重要であるときもあるだろう。

 ただ、それらは混同されてはならない、ということなのだ。そうではないだろうか。

 「科学的真理」に盲従することはじっさい問題ではある。

 科学が導き出す情報はそれ自体は中立だ。たとえば科学は放射能の危険性、あるいは安全性を一定の数値で示すことができるだろうが、それと「どのくらい原子力発電所を維持するべきか」という判断とはべつだし、べつであるべきなのだ。

 だから「たとえ放射能事故の危険性が科学的に極小であるとしても、原子力発電所は使用されるべきではない」といった意見はありえるし、決して鎧袖一触に否定されるべきものでもない。

 判断するのはつねに人間である。科学は参考になる情報を提供するに過ぎない。

 ただ、だからといって科学を曲解することも許されない。「経験的真理」や「政治的真理」が大切にされるべき局面はたしかにあるだろうが、それらを偏重すれば無自覚のうちに差別や加害に加担することになるに違いないからだ。

 アシモフのように飛行機に乗ることを怖がることはかってだが、「飛行機は危険な乗り物だ」といい出したらそれはトンデモ主張でしかない。

 「科学的真理」と「経験的真理」と「政治的真理」はそれぞれそれなりに価値と意味があるのだが、それらは厳密に分けられているべきなのだということ。

 「科学的なエビデンスがないなら黙っていろ!」という意見はたしかに暴力的だが、「わたしが長年積み重ねてきた経験にもとづく考えに従え!」とすることもまた暴力的である。

 もし、エビデンスは何もないけれど不安だということがあったら、そのとき、わたしたちが選ぶべき行動はそのエビデンスそのものを否定することではない。

 むしろ「どんなにエビデンスがあろうが、不安なものは不安なのだ」と堂々といってのけることだろう。

 その「根拠のない不安」は決して無視されたり嘲笑されたりするべきものではない。人はただファクトとロジックだけで生きているわけではないのだから。

 ただ、一方で科学的なファクトとロジックを無視することは大きな災厄をもたらす。両者は厳密に分けられているべきだ。

 これが、村上氏がほんとうにいいたかったことなのではないかと思うのだが、どうだろうか。

 何かある主張を行うことには、しばしば加害性がともなう。したがって、場合によっては明確な根拠が必要とされる。一方で、人は明確な根拠がなくても心配に思うことはある。

 それらは両方ともひとつの「真理」であり、尊重されるべきものだ。

 ここまではわかる。決して荒唐無稽なことをいっているわけではないし、記事を読んでもその意図にまで到達できていない人も少なくないのではないか。

 ただ、村上氏がその「真理」をあつかう手つきはあまりにも危ういように思える。いかにも「混ぜるな危険」を混ぜてしまっている印象がぬぐえない。また、朝日新聞という掲載場所の問題もある。

 わたしはそう考える。あなたはどう思われるだろうか。科学的に証明されていない意見でもかまわないので、教えてほしい。

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