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「いったいホストに何千万もつぎ込む売春女のどこが貧困なんだよ(笑)」「ここです」。

 「ホス狂い」という言葉をご存知だろうか。

 主に女性をあいてにする遊興施設であるホストクラブに通いつめ、何百万、何千万という大金を浪費して「ホスト遊び」に夢中になる女性たちを指す俗語だ。

 そういった女性たちのなかには、違法な売春を行ってそのカネをホストに貢ぐ人物が少なくないことが知られており、社会問題化している。

ホス狂い

ホス狂い

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 そうでなくても一般に「ホス狂い」は社会的逸脱として見られる行動であり、社会が彼女たちを見る目は冷たい。

 もちろんインターネットでもそうで、ツイッターを検索すると、そのような人々を批判し攻撃するツイートが数限りなく発見できる。

 とくに目立つのが、彼女たちが「貧困」状態にあることを否定する言説だ。

 これらのツイートの内容は、つまりは「いったいホスト遊びに何百万もつぎ込む売春婦のどこが貧困なんだよ(笑)」という問いに要約できるだろう。

 日々、ホストクラブ通いに明け暮れて優雅に遊んでいる女たちは貧困などではない、むしろ金銭的に余裕のある良いご身分だ、というわけだ。

 この理屈は直観的に理解しやすい。何といってもこの不況のご時世に何百万、何千万といった金額を稼ぎ出しているのだから、貧困どころか富裕な身分であるように見える。

 それをホストクラブの「遊び」に費やしてしまうのはひとえに彼女たちの自己責任的な自堕落さゆえであり、まったく貧困の問題などではない、とする論理展開はきわめてわかりやすいことだろう。

 しかし、じつはこういった女性たちのこの状態は紛れもなく貧困なのである。

 それも、最も過酷な「絶望的貧困」と呼ばれる状態である可能性が高い。

 なぜそういえるのか。それは、この問題が貧困問題における最先端のテーマであり、実証的研究が行われているからだ。

 結論から書いてしまうなら、危険な個人買春に従事しながらホストクラブに大金をつぎ込む若い女性たちの多くが「実存の貧困」の状態にあるといえる。

 この場合の実存とは、人間の存在、精神そのものを指す。つまり、実存が貧困状態にあるということは、その存在そのものが貧困に陥っているという意味である。

 その「実存の貧困」について、貧困問題を専門とする社会福祉学の観点から分析したのが原田和弘『実存的貧困とはなにか』だ。

 これは非常に面白い本で、読み進めるほどに知的驚愕を覚えるごくめずらしい書物のひとつである。

 ただ、いわゆるベストセラーではなく、また、読み始めた人のなかでも完読した人は少ないと考えられる。

 何しろハードカバーで700ページ以上もある大部な専門書であり、その文字数はおそらく優に百万文字を超えている。

 一般的な読者がこの一冊を読み通すのは容易ではないだろう。

 わたし自身、完全に内容を把握しているかというと必ずしもおぼつかないのだが、とにかく、ものすごい本であることはまちがいない。わたしにとってはこの10年間のベストといって良い。

 この本を読み進めながら、わたしはその内容に驚愕、震撼し、ほとんど落涙しそうにさえなった。

 以下ではこの本の内容を掻いつまんで紹介しながら、なぜ「ホスト遊びに何百万もつぎ込む売春婦」たちが、それほどの大金を稼ぎ出しているにもかかわらず貧困だといえるのか、この、直観的にはわかりづらい、だがきわめて重要な問題を簡潔に解説していきたい。

 

 

 ただ、『実存的貧困とはなにか』の内容はきわめて広範にして専門的かつ学術用語が多用されているので、社会福祉学の学徒ならざる一読者に過ぎないわたしがかみ砕いて語ることそのものがそこまで簡単ではない。

 わたしの説明に不審をおぼえた人は、ぜひ、実物を読んでほしい。

 ごくアカデミックな内容ではあるが、この種の書籍としては必ずしも難解な内容ではない。

 著者はさまざまな実例とともに過去の文学作品やポップカルチャーまで引いて「実存的貧困」がどのような状態を指しているのか説明していく。

 その際には太宰の『人間失格』からカミュの『異邦人』、さらには『新世紀エヴァンゲリオン』までが新たな光をあてられる。

 とくに『異邦人』の読み解きは衝撃的である。原田は実存主義文学の傑作として知られるこの作品を、「実存的貧困」に苦しむ個人の物語として読み解き直す。

 一見すると、「理由のない殺人」を犯すこの物語の主人公は、あたかもニーチェ的な「超人」のようにすら見えるのだが、原田の読解によると、かれは孤独と疎外によって実存を傷つけられた「異邦人」である。

 その孤独と絶望は最後に一行において露わになる。

 そこに至るまでのかれの苦しみをあきらかにする原田の「読み」は見事だ。

 その他の論点も素晴らしく整理されている。長大な一冊だけに相当の覚悟がないと読み通せないだろうが、それだけの価値はある、と断定しておく。

 読み終える頃には、あなたの世界はいくらか変わっているだろう。

 見方を変えるなら、この本はつまり「親に愛されなかった人間がどうなるか」という素朴なテーマを扱っている。

 もちろん、両親の愛情を得られなかったからといって、即座に不幸な人生を歩むわけではない。

 しかし、両親の愛情を得られないことは人生において大きな不利を抱え込むことである。

 さらにそこから周囲に適切な人間関係を見いだせないと、多くの場合、「貧困」といって良い状況に陥る。

 いい換えるなら、愛にも仲間にも環境にも恵まれなかった個人がしばしばどのような苦境に落ち込むものか、膨大な凡例と研究をもちいて学術的にあきらかにしたのがこの本だということができる。

 そこで描かれているのは、経済的貧困以上に過酷な実存的貧困の現実である。

 実存的貧困の当事者は、その当初においては必ずしも経済的貧苦にさらされているわけではない。

 ここがいかにもわかりづらいところで、「お金があるのに貧困」という状態は直観的に理解しづらいだろう。

 それ自体はじつは無理はないことである。そもそも本書によれば、社会福祉学でも、長いあいだ、「貧困とは物質的に困窮した状態である」ということが「常識」として通用していたらしい。 

 その社会福祉学の常識を「天動説」とみなし、根底からひっくり返してしまった「地動説」がこの本なのだ。

 だが、べつだん、気まぐれな論理で恣意的にその「常識」を逆転させたわけではない。筆者の論旨は徹底して実証的であり、圧倒的な説得力がある。

 とはいえ、「貧困とはお金がないことを指す」とは、直観的には当然のことに思える。

 たくさんお金を持っていても苦しんでいる人のことを知識として知ってはいても、それを「貧困」という言葉で表現しようと考える人はまれだろう。

 だが、原田によれば、「実存の貧困」はなまじの経済的苦境以上に人を追い詰め、そして最終的には必ず経済的貧困につながる。

 かれはさまざまな論文や文献を渉猟しながら、獲物を狙うハンターのように着実に「実存的貧困」に切り込んでいく。

 

 

 かれの主張を俗なことばに表わすなら「心が貧しい状態にあることもまた貧困である」という理解になるだろうし、いかにも冷笑的に受け止められやすい観念に思える。

 だが、この本を読んでいると、「心が病み、自分を守れない」ことがいまの社会においていかに巨大な不利益なのか強く実感できる。

 あるいは「実存的貧困」状態の当事者に対する偏見は、やはり社会的弱者である「社会的ひきこもり」の当事者への誤解と無理解に似ているかもしれない。

 ひきこもり当事者はしばしば「仕事をせず怠けて楽をしている」ものとして見られる。

 だが、現実にはひきこもっていることは楽などではなく、その苦しみは筆舌に尽くしがたいほどなのだ。

 それと同様に、「ホス狂い」の人たちも「たくさんカネをかけて楽しんでいるだけだ」とみなされる。

 しかし、じっさいには当人たちはべつだん、その「ホスト遊び」に享楽的な喜びを見いだしているわけではない。

 否、大金をかけた「遊び」に楽しみを見つけだしてしあわせに暮らしている女性がまったくいないわけではないかもしれない。

 そのような人を「貧困」と呼ぶことは余計なお世話に過ぎないともいえる。

 だが、ほとんどの場合、そういった当事者たちは使い道に困るほどの額のカネに恵まれてそれを趣味的にホストにつぎ込んでいるわけではない。

 『実存的貧困とはなにか』では、「D二」という仮称の女性の語りと合わせてこのように書かれている。

 D二のナラティブが示すように、ホストクラブは嗜癖と同じで、そのサイクルに嵌ると、最初に存在していた楽しみや喜びはなくなり、単にストレスが溜まるだけになる。だが、やはり嗜癖と同じで止めることができないのである。「ただー、ホストにお金使って…承認欲求とか満たしたいだけ? 周りから。」というD二のナラティブは、本研究においてホストに嵌っていた全ての女性たちに当て嵌まるだろう。結局ホストに大金を使う理由は、これ以上に無い。異常に「承認」が欠如した人生を送って来た人間は、「内的作業モデル(IWM)」に欠損を抱えて、「実存的貧困」状態に陥りやすい。そして、社会的排除の対象となった時に、「実存的貧困」は完成し、「自傷的存在証明」を発動させるのであるが、D二の場合は、生まれた時から社会的排除の対象なのである。

 ここでいう「内的作業モデル」とは心理学者のボウルビィが提唱した「愛着理論」にもとづく考え方で、「母親との愛着が内在化し、他者との関係の取り方として機能するモデル」を指している。

 「内的作業モデル」に欠損を抱えているとは、即ち、人としての愛着が壊れている、ということである。

 D二というこの女性はだれからも愛されなかったことにより愛にもとづく自己肯定ができない。

 彼女は愛情に飢え、「愛による承認」を求めつづけるが、それはしょせんかりそめの「承認ビジネス」であるに過ぎないホストクラブでは決して得ることができない。

 したがって、D二のような女性は「ホスト遊び」で喜びを感じることはできない。

 初めは楽しくても、それはやがて破滅的な蕩尽のいら立たしさに変わっていく。

 何百万、何千万という巨額の金銭をつぎ込んで彼女たちが得られるものは形容しがたい「虚無感」でしかないのだ。

 それでも、彼女たちは可能なかぎりホストクラブに大金を浪費する。それが、彼女たちの人生においてただ一本の「蜘蛛の糸」に見えているからだ。

 原田は「内的作業モデル」を通して得られる自己肯定の資本を「愛着資本」と呼ぶ。

 この「愛着資本」が致命的に貧しいことが「実存的貧困」の第一条件である。

 「実存的貧困」とは、その「愛着障害」から始まって、さまざまな他の社会的承認をも欠損させた状態なのだ。

 そして、それがさらに進行すると「絶望的貧困」と呼ばれる状態となる。

 一見すると、ただひたすら享楽的にホストとの逢瀬を楽しんでいるように見える女性たちは、その意味で、わたしの言葉を使って表わすなら「愛着弱者」だということなのである。

 もちろん、そのような愛着弱者はただ「ホス狂い」の女性だけではない。原田によれば、この社会で「テロリスト」として理解されている「理由のない犯罪」の犯人たちも、一様に「実存的貧困」の状態にあるとされる。

 いままで、それらの犯罪は「心の闇」という、ほとんど無意味なバズワードによって説明されてきた。それほど説明困難な事件の数々であったのだ。

 しかし、原田は『実存的貧困とはなにか』において、そのなぞめいた「心の闇」に光をあて、犯行理由をあきらかにしていく。

 その際には、「京アニ事件」のみならず、たとえば「『黒子のバスケ』脅迫事件」などもその対象となる。それらの不可解な事件は、じっさいには同じ実存的貧困の問題なのである。

 しかし、そういった事柄に関してはこの記事では書き尽くせなくなるのでその点について深入りするのはよそう。いずれまた、別稿で触れることにしたい。

 「ホス狂い」の売春女性たちを好奇の目で見る報道は少なくない。そこには彼女たちの苦境に対する冷淡な態度ばかりが感じ取れる。

 彼女たちがひたすらに求めているものは「愛の次元における承認」なのだが、そのことは単なる性欲の問題として理解されてしまうのだ。

 わたしはここから、栗本薫『グイン・サーガ』において、大国の王女として生まれたヒロインのひとりであるシルヴィアが、ひたすらにだれかの愛情を求め、売春に手を染めたことが「淫らな女」として糾弾され、「売国妃」としてあつかわれたことを思い出さずにはいられない。

 そう、「無償の愛」――現代の「シルヴィア」たちが求めているものはそれである。

 それをあたりまえに享受している人間からすれば、いかにも彼女たちのやりかたは稚拙で甘ったれたものに見えるかもしれない。

 だが、ひっきょう、いまもなお多くの社会問題の根源にあるのはひとつ愛の問題なのだ。

 わたしはべつに単にカルアミルクのように甘ったるい感傷でいっているわけではない。

 そうではなく、この社会の基盤を成しているものが家族による愛着形成である以上、その点が毀損している人間が社会生活にいちじるしい不利益を被ることは必然だと考えるべきなのだ。

 つまり、この流動的な「ポストモダン」社会における最も深刻な現実的問題として、愛(の欠如)の問題はあるのである。

 たとえ一定の経済的苦境にあっても、幼年期における愛着形成が十全であれば、そこから脱出しようと試みることも可能だろう。

 だが、まず愛着形成に失敗し、そこを起点として社会から逸脱した個人は、最終的には必ず経済的な意味での貧困にも陥る。それは必然の展開である。

 とはいえ、家族からの愛情にめぐまれず愛着形成が不完全であったとしても、仲間や環境にめぐまれて救われることはありえるだろう。

 しかし、そのような幸運にめぐまれなかった者は底なしの絶望に落ちていくことが必定だ。

 まわりのあらゆる環境から「承認」を得られない、その絶望を指して「実存的貧困」と呼ぶわけである。

 実存的貧困の当事者の幼さ、愚かさをあざ笑うことはたやすい。かれら、彼女たちの行動は「新自由主義的価値観」においてはまさに「自己責任」として処理されるに違いないからである。

 だが、彼女たちはただ放埓に遊び狂っているわけではない。どこまでも承認を求めながら、決してそれが得られない、その姿勢が社会から見て無責任なものに見えているに過ぎない。

 たしかにかれらは自ら望んで絶望の穴に落ちていっているように見えるだろう。しかし、それはただかれらが自分自身を保護することができないことを表わしているに過ぎない。

 とくに「パパ活」や「ホスト遊び」の現場において、愛着弱者は徹底して搾取される。

 愛着の毀損から始まって、「パパ活」、「立ちんぼ」などの危険な個人売春によって社会的烙印(スティグマ)を当事者は、多くの「まともな」社会人男女にとって冷笑と嘲弄の対象でしかないことだろう。

 とくに一部の男性が彼女たちを見つめる視線の冷たさは凍えるほどだ。

 だが、『実存的貧困とはなにか』が指摘するところによれば、ネットではそれとは切断された「弱者男性」の問題として見られる「秋葉原通り魔事件」や「京都アニメーション放火事件」もまた、表れ方が違うだけで本質的には同じ社会問題なのである。

 とくに「『黒子のバスケ』脅迫事件」を読み解いた個所などは本書のなかの白眉といって良いであろう。そこではこの犯人が直面したニヒリズムが適切に解剖されている。

 虚無(ニヒル)。

 本書で取材された女性たちの言葉のなかに、くり返し登場するのが先ほどもふれた「虚無感」という言葉だ。

 愛着と承認を得られなかった人間は総じてこの「虚無感」を訴える。

 見方を変えるなら、自分の意思によらずして生まれる人の存在はみな「虚無」にさらされており、その虚無から人を守るものは即ち人間関係における愛情と承認以外にはないということだろう。

 この「愛着の欠損」の問題は日本のポップカルチャー、とくにかつての少女漫画でくり返し語られてきたテーマだ。

 『イグアナの娘』、『天人唐草』や『日出る処の天子』、孤独な子供たちを描く『フルーツバスケット』に『彼氏彼女の事情』、あるいは「母に愛されなかった娘」を主人公とした『風の谷のナウシカ』――。

 このテーマをあつかった天才作家たちによる名作の数々は、いずれも「愛がなければ生きられない」ことを語っている。

 物語のなかでは、しばしば彼女たちを救いだす「王子さま」があらわれてハッピーエンドとなることだろう。

 しかし、現実にはそのような女性たちは徹底した経済的搾取の対象とされてしまうわけである。その現実はあまりにも重い。

 そして、また、ひとりの「実存的貧困」男性を主人公に、その現状を描写したのが映画『ジョーカー』である。

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 『ジョーカー』の主人公アーサーは、あらゆる承認から疎外され、絶望的に追い詰められた結果、暴力として「自傷的自己証明」をくり返す。

 かれのアクションは犯罪ではあるが、「ポストモダン」とか「リキッド・モダニティ」と形容される不安定な社会のなかで、必然的に表れるものである。

 そしてまた、「ホス狂い」の女性たちのいかにも嗜癖(アディクション)めいた行動もまたそうなのだ。

 かつて、稀代の天才歌手・宇多田ヒカルは「Adicted to you」と歌った。「きみにAdictedかも」。

 その依存が、嗜癖が、愛によって報われるならまだ良いだろう。

 しかし、「ホス狂い」の女性たちの行為は、そこにあるものが単なるビジネスとしての構造でしかない以上、決して彼女たちが望む形では報われることはありえない。

 そのあたりまえの事実にも気づかない愚かな女たち――たしかにそう見えるかもしれない。

 だが、そこにある「絶望的貧困」を直視するなら、まったくべつの風景が見えてくるはずだ。

 「実存的貧困」は女性と男性で異なる表れ方をする。しかし、その両方がまさに「絶望的な」状況である。

 もはや、男女で分けて「自分たちのグループのほうが不幸だ」と競い合っているような状況ではない。「分断と対立」をあおるインフルエンサーに影響されたりせず、アカデミックに解き明かされた「孤独と絶望の構造」を見よう。

 そこにある貧困を直視し、理解し、把握する。そこからしか、この「新しい貧困問題」を「自己責任」で終わらせない議論は始まらないはずなのである。

 そこにある絶望を、見よ。

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