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「百合」を定義することは可能なのか?

 ども、読み始めてくださり、ありがとうございます。

 この記事は「百合ってよくわからない」とか「気になるけれど敷居が高い」、あるいは「興味はあるけれど具体的な内実がわからない」といった思いを抱えておられる方に向けて、「まあ、だいたいこのようなものじゃない?」といった定義の話をする内容となっております。

 現在、幸いなことに百合作品は一時の不作ぶりが信じられないほどの百花繚乱の盛況にあり、爆発的な大ヒット作こそ見られないもののかなり世間的な認知度も上がっているものと思われます。

 しかし、その一方で百合一般に対する紹介や批評の文章は、質的にはともかく量的には十分とはいいがたく、そもそも百合初心者がこの世界に入門するための本は一迅社の『百合の世界入門』くらいしかないという状況です。

 また、同人誌や電子書籍まで含めても百合ジャンルを総合的に語っている本は何冊も見あたりません。

 大きな例外は雑誌『ユリイカ』の2014年12月号の特集で、これはかなり読みごたえがあるものですが、すでにかなり昔の本なので、内容的に古くなっていることは否めません。

 近くて遠いジャンルであるボーイズ・ラブに関する本が相対的にわりあい充実していることと比べると、やはり「うーん……」とがっくりうな垂れざるを得ません。

 そこで何か書こうと思った次第です。ぼくが個人でその大きな欠落を埋められるとはまったく思っていないのですが、せめて一助となれば良いかと思い、まずは百合の定義についてここにまとめておきたいと思っています。

 もちろん、この一記事で百合定義のすべてを語り切れるはずもないので、しょせんは断片的な内容になってしまうことはどうしようもありませんし、個人で書く以上、ぼくの主観を出るものになるはずもないのですが、なるべくフェアにわかりやすく書いていくつもりです。

 というのも、百合に関するまとまった論考は少ないことを書きましたが、もちろん、ネットの記事などの形で読める百合論そのものは膨大にあるものと思われます(完全に検索し切れていないのではっきりどのくらいあるかは何ともいえませんが)。

 ただ、それらを一読して「百合ってこういう感じなんだ」とわかるかというと、個人的には多少の疑問符がつくのです。

 おそらく百合に関しての抑えようとしても抑えきれない巨大感情があふれ出すからなのでしょうが、初心者がそこから百合を理解するためには過度に難解だったり、理屈っぽかったりする文章が多いように感じられます。

 長大で晦渋な論考も悪くはありませんが、その一方で「入門編」のストレートな論述も必要でしょう。

 そのため、本書はまず「百合の定義はどういうものがあるのだろう?」と問うところから始めていきたいと思うわけです。

 百合定義論の入門編として、なるべく偏りのない内容を目指したいところですが、そこはあくまで個人の記事、そこまで総覧的な内容にできるはずもありません。

 あくまでぼく個人の趣味の範疇に収まるだろうと思いますので、そういうものだと認識した上で読んでいただければ幸いです。

 それでは、百合の話を始めましょう。

 百合。

 この文章を読まれている方は、おそらくだれもがこの言葉の意味をご存知でしょう。

 もちろん、植物の百合を指しているわけではありません。「女性どうしの恋愛(を中心とする何らかの)関係を描いた物語」のことです。

 しかし、すでにこの時点で問題の契機を孕んでいるといえます。なぜなら、「百合」という言葉の定義は人によってまちまちで、しかもどうやらその多くが「自分の定義こそが的確である」と確信しているからです。

 その証拠に「百合」の定義を巡っては過去、幾たびも過激な論争が発生しています。

 それはあらしのように巻き起こり、多くの人を巻き込んで拡大し、そして――いつのまにか終息してきました。

 もちろん、だれもが納得する明確な定義が発見されたわけではありません。

 ただ、ソーシャルメディアをご利用の方ならご存知の通り、この種の論争は参加者のだれもが疲れ、呆れ、うんざりしてしまった時点で何となく終わるものなのです。

 あとには不毛の曠野が残るばかり。勝ち名乗りを挙げる者がいないとはいいませんが、客観的な勝利者は存在しないでしょう。

 当然、百合という言葉の意味を正確に定義することなしに百合を語ることは不可能に近いわけで、本記事は「百合」の定義論について語っていくつもりです。

 しかし、矛盾しているようですが、この話に深入りすることは気が進みません。端的にいって、明確な定義は不可能だからです。

 この言葉は、語源こそある程度はっきりしているものの、それでもかなり自然発生的に広まっていった一面があります。

 したがって、完全な定義などそもそも存在しないのです。存在しないものをいくら探そうと努力してもまるでむなしいことでしょう。

 ですが、その一方で、「百合」という語に対しては、たくさんの人が愛やら理想やら、情念やら妄執やらといった思い入れをたっぷり注ぎ込んでいることもたしかです。

 「百合」は、当然ながら単なる言葉であるに過ぎず、純粋な可能性としては他の語でも良かったはずなのですが、いまではそれは複雑で膨大な感情の交差点のようになってしまっています。

 うかつにそこに突っ込んでいけば凄惨な交通事故が起こることは目に見えており、ぼくは病院に担ぎ込まれたりしたくないので、厳密な定義についてはあいまいなまま話を続けていきたいと思います。

 おそらく、百合に関する狭い定義は「精神的にも肉体的にも生まれながらに女性である者同士の恋愛を描いた物語作品」といったもので、より広い定義は「何らかの意味で女性といいえる者同士の何らかの関係を描いた、非物語も含む作品」といったあたりが適当ではないかと思います。

 とはいえ、このかなり日和見的な定義ですら多くの人から「それは違う!」という批判が飛んできそうではあります。そのくらい、百合を愛する人はこの言葉にさまざまな思い入れを抱いているのです。

 たとえば、ピュアで儚い純愛でなければ百合とは呼べないという考えの人もいるでしょうし、ただ女の子どうしが仲良くしているだけの物語こそ百合の王道だと信じる人もいるに違いありません。

 そして、そのいずれが正しく、いずれが間違えているということもできない。そうである以上、定義論にこだわることに意味はないとぼくは考えます。

 当然、人によっては、たとえば「どう考えても百合ではないもの」を「百合である」と主張されてはたまらないと感じることもあるでしょう。

 しかし、その「どう考えても百合ではない」という認識そのものも、やはり個人の主観を大きく出るものではないのです。

 たしかに、異性どうしの関係や、男性どうしの関係を百合と呼ぶことはめったにないでしょうが、それすらまったく例がないわけではない。

 そして、一定の最大公約数的な認識こそあっても、だれも「正解」を持っていない以上、それらを一概に「間違い」として切り捨てることもできないわけです(あるいは、いや、それは間違いなのだから間違いだとして切り捨てるべきだという人もいるかもしれませんが、そういう人も単なる最大公約数を超えた明確な定義を示すことはできないはずです)。

 とはいえ、わりあい広い層が「まあ、だいたいこのくらい」と受け止めている定義はなくはない。

 したがって、この記事が厄介でめんどくさく、新たに不毛な論争を呼び込むことになりかねない厳密な意味での定義論を回避したとしても、それほど大きな問題はないでしょう。

 ちなみにこの種の定義論争はひとつ百合に限った話ではなく、SFでもミステリでもライトノベルでも、明確な定義が不可能な「ジャンル」であれば必ずといって良いほど起こっています。

 いや、百合が「ジャンル」なのかどうかというその時点ですでに問題含みなのですが、その認識も「人それぞれ」としかいいようがありません。

 たとえば『罪と罰』は「ジャンルN」にあたるかどうかと訊かれても、「ジャンルN」に定義が存在しない以上、答えようがないのと同じ。

 ただ、「百合」に関しては多くの場合、その言葉を使う各人が「何となくの印象」と「複雑に錯綜した思い入れ」を抱いているから厄介であるわけです。

 百合定義論争は今後もこの言葉があるかぎり永遠に終わらないでしょう。そういうものなのです。

 さて、そういうわけで、「百合」には何となくの印象とその言葉を使う大多数が共有するおおまかなイメージはあることを説明しました。

 それでは、めんどくさい話題がたくさん絡んできそうな定義の話はこのくらいにして、次の話に移りましょう――といいたいところですが、もう少しだけこの話題を続けたいと思います。

 というのも、「百合」にはまったく同じ意味ではないにしてもかなり近いところにあるいくつかの語があるので、その説明をしておきたいのです。

 たとえば、「GL(ガールズ・ラブ)」。これはかなり「百合」と重なる意味で使われている言葉です。

 「百合」との違いは、「百合」が恋愛や性愛以外の何らかの関係性も含む場合がありえるのに対し、「GL」は明確に恋愛に限定されていることでしょうか。

 たとえば、「親愛百合」とか「友情百合」といったものはわりに想像しやすいのに対し、「友情GL」は矛盾した印象です。

 「百合」が何であるにせよ、一般的にはそれは「GL」を含み、もっと広い範囲を示す概念であるといえそうです。

 また、「GL」はあきらかに「BL(ボーイズ・ラブ)」の女性版という文脈で出て来た言葉であるわけですが、やはり百合は単にBLの魅力を女性に移植しただけの作品群ということはできない。

 くわしくいうと長くなるものの、百合とBLにはあきらかに非対称性がある。

 したがって、個人的にはこの語は「百合」に比べほんの少し使いづらいというか、使うべき局面が限定される印象があります。

 もちろん、「ふたりの関係は友情や尊敬に留まるものではなく紛れもない恋愛である」と強調する場合には意図的にこの言葉が選択されることもあるので、一概にはいえない一面もあります。

 たとえば、NHKでドラマ化されたことでも知られるマンガ『作りたい女と食べたい女』などは、おそらくかなり意図して「百合」ではなく「GL」という言葉で宣伝されていたように思います。

 つまりはここでも「百合」という表現がつねに正しく、「GL」はおかしい、間違えているなどとはとてもいえないわけです。

 べつの語なので、べつの意味とニュアンスがある。それだけのことです。

 また、やはり近い意味の言葉に「シスターフッド」や「ロマンシス」があります。「シスターフッド」とは、かつてのウーマン・リブ(女性解放)運動のなかで使用された言葉で、これも完全に明確な定義があるわけではないでしょうが、女性どうしの強い絆、親愛、友情、連帯などを指しています。

 「百合」には、「GL」ほど色濃くはないにしろやはり恋愛、性愛が中心となる意味がありますが、「シスターフッド」はそうではありません。

 その意味で、両者を混用するとかなり問題含みなことになります。

 たとえば、ネットで検索すると、「シスターフッドの物語を「百合」と言われるのがきらいだ。」という一文から始まる「シスターフッドと百合 | N words (theletter.jp) 」という文章が見つかります。

 そこにはディズニーのヒット作『アナと雪の女王』について、このようなことが書かれています。

話は戻って「アナと雪の女王」が百合だと言われていたことに、私はかなり嫌悪感を覚えていた。アナ雪は公開当時観たわけではなく、かなり経ってから観て、ディズニー作品の中でも随一で好きな作品になった。
彼女たちは血のつながった姉妹であったけれど、あれば明確にシスターフッドでエンパワーメントの物語だった。(いろんな意見があるけど)私はあの物語、特にエルサにとても救われた。
鑑賞後、公開当時アナ雪が「最高の百合」だと話題になっていたことをふと思い出し、怒りににも似た気持ちになったことを覚えている。
私が個人的に恋愛感情を重要視していないというのもあって、あのふたりの関係を恋愛関係に落とし込められたことに、ひどくもやっとした。
姉妹や血の繋がりに萌えを感じるひとがいるのはわかるし、それを悪いことだとは思っていないけど、それはそれ、これはこれじゃないか…と思ったりした。
ひとそれぞれ価値観は違うものだから否定したり、同調させようとは思わないけど、わたしは、とても哀しい気持ちになった。

 一読、なるほどと思わせる文章です。

 前述したように「百合」は明確な定義がない言葉なので『アナと雪の女王』を百合だと思うかどうかは人によるとしかいいようがありませんが、アナとエルサの間にあるものが恋愛感情ではなく姉妹愛であることがあきらかである以上、あるいは「シスターフッドの物語」と呼んだ方がより適切であるかもしれません。

 もちろん、何度もくり返すように、『アナと雪の女王』を百合だと認識する人のほうにもそれなりの理屈があるので、ひと筋縄ではいかないのですが。ここで示されているものは、おそらくある種の恋愛至上主義に対する強い違和感だといって良いでしょう。

 本来、人間どうしの関係には、あるいは女性どうしの関係に限っても、多彩で豊饒なものがありえます。

 母娘、姉妹、友人、恋人、知人、仕事仲間、セックスフレンド、あるいは仇どうし――関係の数だけ種類があるとすらいえるかもしれません。

 しかし、それらの関係が「百合」というひとつの言葉で塗りつぶされると、あたかもそのすべてが恋愛ないし性愛の関係であるかのように見えて来てしまう。そのことに対する痛切な違和。

 これは、ぼくにも理解できる感情です。たとえば「カップリング萌え」の二次創作作品などを見たとき、ときに「そのふたりの複雑で微妙な関係を単なる恋愛感情に狭めてしまって良いのだろうか」と感じることがあります。

 たとえば、バットマンと宿敵のジョーカーは互いに対しひと言ではいえないきわめて複雑な情念を抱いているわけですが、BLものの二次創作ではそれがひたすらにつよい恋愛感情として描写されることがありえる。

 あるいは『鬼滅の刃』の胡蝶カナエと胡蝶しのぶを描く百合二次創作でもかまいません。

 とにかくぼくはそのような描写を見ると、その純粋な出来不出来とはべつに、何か違和としかいいようがない隔靴掻痒の感覚を覚えるのです。

 もしかしたら引用した文章の書き手も同じような感覚を覚えたのかもしれません。恋愛が無条件に最も尊い感覚とされ、それ以外の感情なり関係がそれによって塗りつぶされてしまうことへの、何ともいえないもどかしさ。

 ぼくは百合作品が好きですし、百合的な関係を「尊い」と感じることがあります。しかし、当然ながら女性どうしには(狭い意味での)百合以外の関係もありえると考えています。

 女性どうしの関係はすべて百合であるとすら考える人もいるあたりが厄介なところではありますが、ぼくの感覚では、それはさすがに定義を広げ過ぎているように思われます。

 だから、ぼくには「愛憎が混じりあった複雑な姉妹関係」とでもいうべきものを単に「百合」として表現されることへの違和が理解できるように思うのです。

 もちろん、それが単純に「正しく」、『アナと雪の女王』を百合と見る人が「間違えている」とはいえないあたりがむずかしいところではありますが……。

 つくづく「百合」という言葉に対する感覚は人それぞれで、共有しあうことがむずかしいと感じます。もちろん、ぼくの個人的な定義や感覚も「正しい」ものではありえません。

 さて、もうひとつ、「ロマンシス」という語を挙げました。これは男性どうしの強い絆を意味する「ブロマンス」に対応する女性どうしの絆を意味する言葉で、たとえば「百合ではない?女同士の究極の友情、ロマンシス | ReaJoy(リージョイ)」という記事では、「百合というほど甘くなく軽くなく、ともすると骨太ハードボイルドな彼女たちの絆にはガツンとくる」、「この記事をきっかけに少しでもロマンシスが認知され、百合とは一線を画す女同士の絆に焦点があたれば幸いだ」などと記されています。

 しかし、ここまで読まれた方にはおわかりのことと思いますが、「百合」と「ロマンシス」を分けるラインは必ずしも明確ではありません。

 「甘くなく軽くなく、ともすれば骨太ハードボイルド」といっても、「いや、百合だってべつに甘くも軽くもない作品もあるんだけれど?」と思う人もいることでしょう。やはりこの言葉も当然のように定義があいまいなのです。

 このように創作作品のジャンルに関する定義があいまいになってしまうことは、そもそも作品内容を明確に言語化して分けることが不可能であり、さらにいくら緻密に言語化したところでその後に出て来る作品によって意味をかき乱されてしまうのが必然であることを考えれば、しかたがないことなのかもしれません。

 とはいえ、それが原因で不毛な論争(とは名ばかりのつまらないケンカ)が起こることは避けたいところです。

 ここまで、「百合」、「GL」、「シスターフッド」、「ロマンシス」といった言葉の意味を観てきたわけですが、そのすべてが確実にこうだといえるような内実を持っていません。

 もちろん、「これはさすがに百合というよりシスターフッドだろう」といった個人的な感覚は百合作品好きなら各自が持っていることと思いますが、その感覚もまたしょせんは主観であり、他者を十分に納得させられるとは限りません。

 互いに感情的な思い込みをぶつけあっても得るものはないことがほとんどでしょう。

 もちろん、ぼくにもそういった思い込みはいくらでもありますが、ここで「これが正解だ」としてそれを開陳することはやめておこうと思います。百害あって一利なしとしかいいようがありません。

 願わくは、今後、少しはその種の百合定義論争が収まってほしいものです。絶対に収まるはずがないと確信していることもたしかなのですけれど。

 そういうわけで、百合の定義について長々と書いてきましたが、結局は「人それぞれ」という結論に落ち着きそうです。

 ジャンルとはしょせん明確に定義できないもの。ぼくはそれで良いと考えます。まあ、定義の話はこれくらいにしておきましょう。

 じっさいの百合作品は、少なくとも百合定義論よりは、破格に魅力的なものなのですから。

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