よくいわれることだが、ここ数年、Twitterなどのソーシャルメディアにおける言論の過激化が凄まじい勢いで加熱しているように見える。
Twitterなんていつでもそういうものだろ、と思われるかもしれないが、10年前はたしかにもう少し落ち着いた場所だったはずだ。
それが、いつのまにか日本の分裂と対立を象徴するような過激な言論空間になってしまった。
もはやTwitterにおけるツイートが単なる「つぶやき」にしか過ぎないことなど、だれも記憶していないようだ。
その結果、タイムラインを見ているとココロが痛むのでほとんど利用しなくなってしまったのだが、たまにそこを見ているとひとつ思うことがある。
フィクションはしょせん人の心を涵養しないのだろうか、ということだ。もっとはっきりいってしまうなら、多数の素晴らしい内容のフィクションに日夜触れているはずのオタクや読書人が、まったく素晴らしい人間になっていないように見えることにいまさらながらに驚かされるのである。
いや、もちろん、オタクにも読書家にも架空の物語から何か気高い教訓を学び取ったと思しい人は少なくはない。そういう人たちは尊敬に値する。
しかし、そうではない例があまりにも多い。それどころか、一般的なシロウトよりも膨大な作品にふれているはずのクリエイターですら、おそろしく単純素朴な考え方をする人が少なくないことをTwitterはあきらかにした。そこで、わたしは愕然としたわけである。
ただ、いうまでもなく、当然といえば当然の話ではあるのだ。
正義のヒーローが活躍する物語を読んで、だれもが正義に覚醒するなら、世の中はもっと良い場所になっているだろう。
フィクションはあくまでフィクションであるに過ぎず、それらにふれたからといってすぐに立派な人になったりしない。あたりまえすぎる話。
だが、それにしても、きわめて複雑な内容のフィクションに日常的にふれているはずの人たちが、いざ現実の問題に対すると、とたんにシンプルになってしまうことは非常に不思議だ。
いったいフィクションがそれらを見た人間を啓蒙することはありえないのだろうか。
そう、『ガンダム』でも『コードギアス』でも『PCYCHO-PASS』でも何でも良いけれど、日本のアニメには「善悪では割り切れない複雑な現実」を描いた作品が無数にあって、アニメファンならそれらを見ているはずなのに、何かしら現実の問題が絡むととたんに発想が単純になってしまう傾向がはっきりと見て取れるように思う。これは何なのだろうと考えてしまうのである。
たしかに「いや、そういう価値相対主義的な態度こそ問題なのだ。アニメはむしろ明確な善悪の基準をこそ教えてくれるのだ」と考える人もいるかもしれない。
じっさい、シンプルな勧善懲悪のマンガやアニメは複雑な多面性を感じさせる作品よりさらに多い。そういうヒーローにあこがれる人は、自分自身もヒーロー的に行動しているつもりでいるのかもしれない。
それでは、結局のところ、小説や映画やアニメやマンガや演劇といったフィクションは人を複雑にしないのだろうか。わたしはここで考え込まざるを得ない。
その昔は「文学作品」の読書はひとつの「教養」であり、そういった作品たちを通して人は複雑になることができると考えられていたように思う。
いまはそれがアニメやマンガといったポップな作品たちに代わった。現代においてオタク的な文化はひとつの「教養」と化している。
そして、それらを消化することによって、人は単純ではない現実を仮想的に体験し、複雑な人間になることができる。わたしはわりあい、そのように考えていた。
そのような見方はわたしの独自なものというよりはフィクションを愛好する人にはスタンダードなものだろう。ちょっと検索してみただけでこのような記事が見つかる。
今日、人文学は常に「それが何の役に立つのか?」という厳しい眼差しを向けられています。確かに文学研究ではワクチンは作れません。しかし、コロナの時代であっても、人は物語なしには生きていけないのも事実です。むしろ現実が厳しく、社会が不安の渦中にある時には、善悪の区別や物事の因果を大胆にでっち上げる、陰謀論のような怪しい言説が魅力的に見えたりします。文学は、そうした安易で危険な物語に対抗する免疫を与えてくれます。
また昨今では、共感やコミュニケーション能力の重要性がしきりに叫ばれています。しかしそれは、周囲の人間の意図をすばやく先読みし、誰とも波風立てずにつき合うということに矮小化されているようです。そうした「効率的な忖度」は、他者の人格をデフォルメし、分かりやすく辻褄の合うストーリーに押し込んで片付けてしまう態度を導くのではないでしょうか。そこには深い共感が生まれる余地はありません。逆に、生きている者同士の間では、物語の縛りが解けた一瞬にこそ、不意に心の共鳴が起こるようにも思います。
「分かったつもり」をやめて、他者の視点に辛抱強く寄り添う。その訓練に役立つのが文学です。それは、運転席を誰かに譲り、助手席に座ってドライブを体験するのと少し似ているかもしれません。外国文学であれば、異言語と異文化に時間と労力をかけて向き合うので、自分の自動化された反応をいやでも客観視させられます。
理解できる。
そして現代日本には、文学ならぬポップカルチャーにも「分かりやすく辻褄の合うストーリー」を超えた名作がいくつもあるはずである。
だが、ネットを見ていると多数の文学作品を消化してきたはずのプロの作家や、膨大な映画を見てきたはずの評論家などでも、自分の生活や政治がからむとその瞬間に複雑さを手放して硬直したイデオロギストの素顔をのぞかせる人が少なくないことに気づかされる。
そういう姿を見ていると、この人たちにとってフィクションとは何なのだろうと思ってしまう。
かれらは文学や映画や、マンガやアニメからまったく影響を受けなかったのだろうか。おそらくそうではないだろう。というか、そういうふうには思いたくはない。
かつてのような「教養小説(ビルドゥングス・ロマン)」の時代は去ったにせよ、いまでもフィクションから何かを学ぶことは可能だと考えたいのだ。
しかし、現実にコナン・ドイルはシャーロック・ホームズであればたやすく見抜いたであろう子供じみたトリックに踊らされたわけで、人がフィクションからどのくらい学べるかは微妙なところなのかもしれない。
否、もちろんひとのことばかり声高に責めることはできない。自分自身、どこまでフィクションからあるべき態度を学べているのかといえばむずかしいところだ。
たとえば『コードギアス』のルルーシュの「反逆」の生き方を見ていると立派だとは思う。
しかし、じっさいに自分がそのようなスタイルを貫けるかということはやはりまたべつのことである。むしろ自分にはできないからこそあこがれるのかもしれない。
ただ、わたしはフィクションからものごとを相対化して見るまなざしを学び取れたとは思う。
シンプルな正義は世の中を改善するどころか、ときにいっそう泥沼に陥れてしまうということ。わかりやすい善悪が見てれるように思える場合でも、見方を変えればまた違う現実がそこにあることも少なくないということ。
つまりは、わたしはフィクションの体験を通して、いくらかは複雑な人間になれたと思っているわけだ。
それが良いことだったのかどうかはそれこそ単純にはいえないにせよ、わたしはいくつかの物語(ナラティヴ)を通して、物語(ストーリー)を相対化する視点を少しは獲得できたと考えている。
それこそ、「安易で危険な物語」、「分かりやすく辻褄の合うストーリー」が氾濫するいまの社会において最も必要とされるものではないだろうか。
たしかにその複雑な発想はあまりにすべてを相対化しすぎる迷宮的な思考にはまり込むリスクも抱えているかもしれない。それでも、少なくとも名作アニメのキャラクターくらいには複雑な認識を抱いていたいと思う。
たとえばSFアニメの傑作『PSYCHO-PASS』は、人間を「善」と「悪」、「敵」と「味方」に分けることがそもそも不可能であるような複雑で奥深い世界を示してくれている。
そこにおいては、ことの理非曲直を見きわめることは容易ではない。その世界がはたしてユートピアなのかディストピアなのかすら判然としないのである。
ある種、ポストジョージ・オーウェル的光景ということもできるだろう。このようなアニメを体験することは、必然にアニメファンの内面を複雑化すると思うのだが、現実にはそうでもないらしいということがわたしには不思議だ。
いや、ほんとうは不思議でも何でもないのかもしれないし、自分がどれほど複雑になれているのかも客観的にはわからないわけだが……。
たかがアニメの内容を真に受けることは愚かしいと思われるだろうか。
しかし、わたしはじつはネットでもリアルでも、そのアニメの主人公より複雑な内面を持った人間はそう多くないのではないかと思うことがある。
わたしたちはむしろ、いまこそアニメから学ぶことを覚えるべきではないだろうか。
これはもちろん自戒でもある。たかが文学、たかがアニメ、たかがフィクション、それはそうかもしれない。
だが、その「たかが」を頭からバカにできるほど知的な人間がそう多くはないように見える上に、自分自身のインテリジェンスもそれほど信用できない以上、わたしはこれからもアニメから人生を学びつづけるしかないと思うのである。
ひっきょう、作品の価値は受け手次第で決まる。物語はときにわたしたちに複雑で深遠な世界を示してくれるが、それをしっかり受け取れるかどうかは読者による。
せめて、宝物庫に入ったらひとつでも宝物を持ち帰れるような人間でありたいと、そう考えるのである。
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