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「百合にはさまる男」は悪なのか?

百合

 「セクシュアリティ」について考えています。

 といっても、ぼくのばあい、べつに自分の性自認やら性的指向やらに疑問があるというわけではなく、あくまでフィクションの話。

 いまの世の中、BLやら百合やら、あるいはもう少しリアルでシリアスなテーマの作品にしても、色々なセクシュアリティを描いた作品があって、ぼくも好きで読んでいるのですが、同時に「何か違うなあ」という違和感があるんです。

 「そうじゃない、これはぼくの求めているものじゃない」と。

 どう表現すれば良いか良いかなあ。いや、BLも百合も好きは好きなんだけれど、それが「ジャンル」として固定され、「そうでなければならない」となった瞬間に非常に窮屈なものになる気がするんですよね。

 だって、現実はもっと複雑で混沌としていて「何でもあり」なんだから。

 それに比べて「ジャンル」に縛られるフィクションは何というか「狭苦しい」ものに思える。

 もちろん、そういう風にジャンルで分けて個々の需要に応えることはわかりやすく、またビジネス的にも意味があることには違いないのだけれど、でも、それって「現実の一局面を切り取って描いているだけ」に過ぎないように感じられてならない。

 ぼくはもっと「混沌とした現実世界そのもの」を描きだした作品を読みたい。

 ところで、いま、たまたま電子書籍で全巻が手もとにある、友人のペトロニウスさんのオススメであるところのマンガ『ボクラノキセキ』既刊28巻を読んでいるのだけれど、これはたしかに面白い。

 本編も面白いのだけれど、この作品についてペトロニウスさんがいっていることに共感する。

 かれはこの作品の物語のなかで、転生者である主人公たちが「男の子同士」で告白し、されるシーンを取り上げてこう書いています。

 「にもかかわらず」なんですが、まったくボーイズラブの匂いがしないんですよ。だから、見ていて、読んでいて、不思議な感覚を感じたんですよね。なんか、おかしいなって。僕は、百合でもBLでも好きでみるんですが、いつも持っている不満は、「その世界観で固定」されているところなんですよね。百合は、女の子同士が基本的に性的、恋愛の対象ですし、ゲイのものはその逆。でも、なんというか、世界って、「そうじゃない!」でしょうっていつも思うんですよ。
 世界のあり方って、「どの組み合わせもありでしょう!」のはずなんですよ。
 ある種に、百合でもゲイでも、もしくはストレートな恋愛でも、「それしかない」とか「それ以外はマイナー」みたいな扱いになってしまう。もちろんそれはそれで世界観が「集中している」ので、分かりやすいし、良いと思うんですよ。まぁジャンルのようなものですものね。たとえば『私の百合はお仕事です!』とか、とても好きで新刊出て、尊いわーってほんわかしているんですけれども、これだけ可愛い女の子が集中していて、全ての組み合わせが少女×少女だと、それはそれで尊いんだけれど、陽芽ちゃんとか、このタイプはストレートじゃないの?って気がしてしまうんですよねー。

 あ、いやいや、これはこれでめちゃくちゃ尊いので、文句を言っているわけではなくて、物語のリアリティレベルを維持するために「お約束」ってあるよね、という話。だけれども、これだけ、同性同士の物語がメジャー化して、当たり前になってくると、僕(ペトロニウス。アラフィフ男性)ぐらいの昭和の頭の人でも、もう時代は、それが当たり前だよね、LGBTQとか、別に言われなくても、自然とそれを受け取るようになってきている気がするんですよね。少なくとも日本のエンタメの物語の世界では、僕にはもうすでに違和感がない。
 で、あるならば、「どの組み合わせもあり」という世界を見たいと思うのですが、これがどうもなかなか難しい。

 わかるわー、と思います。こういうところ、ほんと、ペトロニウスさんとは気が合うなあ。

 そう、現実は「どの組み合わせもあり」のはずなんですよね。

 現実には異性愛の人も同性愛の人も一定の割合で混ざっているわけで、あたりまえだけれど「同性愛者の美青年とか美少女だけの世界」というものは存在しない。

 ぼくはその「複雑で混沌とした現実」をフィクションの文法で描いた作品を読みたいな、と思うわけなんですよ。ひょっとしたら、『ボクラノキセキ』はそういう作品なのかもしれない。

 このマンガ、先ほどいったようになぜか全巻、電子書籍で手もとにあるのですが、いままで読まずにきました。

 しかし、なるほど、これはすごい。あるファンタジーワールドから現代に生まれ変わった少年少女たちを描く「転生もの」なのですが、前世と現世で性別が違っていたりするんですね。

 主人公の少年にしてからが前世では「異世界のお姫さま」なんですよ。まず、そこが面白い。

 主人公たちは必然的に二重のアイデンティティとセクシュアリティを抱えることになっているんですね。そして、それがさらにさまざまなレイヤーで複雑に関わり合う「関係性」のドラマが存在する。

 こ、これ、これや!って感じ、たしかにある。

 もちろん、こういった「性の混乱(ジェンダーパニック)」の描写は、たとえば同じく転生ものである『ぼくの地球を守って』などでも描かれてきたものではあります。

 また、いまどき、いわゆるTS(トランスセクシュアル)ものなどめずらしくもないでしょう。それこそ『お兄ちゃんはおしまい!』とか。

 それはそうなんだけれど、この作品が興味深いのは、それが男×男(ボーイズ・ラブ)とか女×女(百合)みたいなひとつの関係性に限定されおらず、「何でもあり」の様相を呈しているところだと思います。

 上記の引用でペトロニウスさんが「まったくボーイズラブの匂いがしない」といっているけれど、これはちょっと誤解を招くいい方かもしれない。

 たぶん、そこにボーイズ・ラブ的な性格が決定的に欠如しているということをいいたいわけではなく、ボーイズ・ラブという「ジャンル」にまるで限定されない関係性を描けているということなのではないでしょうか。

 ふつう、BLはBLだし、百合は百合だし、TSものはTSもので、それらは「混ざらない」。ひとつの「ジャンル」として確立されている。

 まあ、幾原邦彦監督の『少女革命ウテナ』とかCLAMPの『カードキャプターさくら』とかみたいに「混ざっている」ように見えるものもあるにはあるんだけれど、現状では超例外の超少数派だと思う。

 BLはどこまでいってもBLで、百合はどこまでいっても百合で、それらの世界はある種の純粋性を保っているといえる。

 でも、それが『ボクラノキセキ』においては「混ざっている」んですよ!

 しかも、前世と現世というふたつの次元があって、ひとりの人間が複数のアイデンティティを抱えることで「混ざっている」。これはすごい。面白い。ああ、こういうのが見たいんだよなあという気持ちになる。

 現代という時代の多様性(ダイバーシティ)をそのままに表現できているという評価もできるかもしれないけれど、そういうこむずかしいことをいい出さなくても、非常に魅力的な世界だと思います。

 そうそう、こういうのだよ、って。

 ぼくはBLも百合も、もちろんストレートな恋愛ものも(いわゆる「ノーマル」カップリング)、好きで色々と読んで来ているのですが、そこにある種の限界を感じないこともありません。

 いわゆる「男性向け」、あるいは「女性向け」の恋愛ものにしても、あるいはその規格に入り切らないBLや百合にしても、どうしてもそこには「ある特定のパターン」があって、「そういうものを好きな人向け」に内容がアジャストされている。

 でも、それって繰り返すようだけれど現実世界の複雑さ、多用さをそのままに表現できていない気がしてならないんですよね。

 念のためにいっておくと、「フィクションも現実のようであるべきだ」といっているわけじゃなく、「現実世界にある面白さを十分に表わし切れていないんじゃないか」ということがいいたいのです。

 これは「ジャンル」がもつ宿命ではあるのかもしれない。ある「ジャンル」が確立すると、そこには必然的に「お約束」が生まれ、実質的に「そのジャンルのルール」として作用します。

 この「お約束」の魅力はひとりのオタクとしてぼくにはよくわかるのですが、でも、一方ではそれは窮屈にも感じてしまうんですよね。

 たとえば、よく「百合のあいだに挟まろうとする男は死ね」みたいなことがいわれます。

 百合オタの間ではこれは鉄板ルールとして、なかば冗談、なかば本気で語られているんだけれど、でも、ぼくは「百合に男がはさまって何が悪い」とも思うわけです。

 もちろん、同性愛の愛し合うカップルのあいだにむりやり男性が割り込むようなまねはそれは醜悪ですよ。

 でも、「女の子ふたり」が「正しいあるべき形」であって、そこに男が混ざることは「まちがえたありかた」かというと、そんなことはないでしょう。「現実は何でもあり」なんだから。

 いや、あるいは「百合というジャンル」においてはそれが「正しい形」なのかもしれないけれど、べつに百合という形だけが「たったひとつの冴えたやりかた」ではない。

 フィクションは本来、「ルール無用」の「何でもあり」であるはずなんですからね。

 ここでぼくが思い出すのが90年代の名作ゲーム『アトラク=ナクア』です。これは今日なお「伝説の百合ゲー」として知られている名作で、ぼくにとってもいまだに「百合の最高傑作」なのですが、単純に百合といい切れない作品でもある。

 というか、百合という概念が生まれるより前の作品なので、「百合のお約束」に縛られていないんですね。

 したがってこの作品では主人公の百合カップルに男が混ざってきたりしますし、また、主人公にしてからが男を犯したり殺したり、逆に犯されたり殺されかけたりします。

 もう、めちゃくちゃ、ほんとうの意味での何でもありです。

 この、受けと攻め、主体性と客体性がかぎりなく逆転しつづけるところがぼくは好きなんですよね。

 現代の保守的な百合オタの常識からすれば「なんじゃこりゃ」な作品かもしれないけれど、この自由さ、奔放さは、「ジャンルのお約束」に縛られた作品からは決して出て来ないものでもある。

 「百合概念誕生以前」の作品であるがゆえに、「百合のルール」に束縛された作品にはない自由さがあるわけです。

 ここでは異性愛も同性愛も完全に入り混じっていて、単純に「百合」という言葉では表わすことができない物語が展開しています。

 そもそも、ぼくたちは人間のセクシュアリティを異性愛、同性愛、LGBTみたいなフレームで考えることに慣れているわけですが、「同性愛」という概念ができたのは19世紀のことに過ぎません。

 「ゲイ」とか「レズビアン」みたいな言葉はもっとあと。

 つまり、そういった概念でくくることが唯一の「科学的に正しい」考えかたでも何でもないわけです。他のフレームで考えることだってできるわけですよ。

 そういう性のあいまいさ、あるいは多層性をそのままに表現したフィクションがあっても良いんじゃないかと思う。

 そう、ここまで書くとはっきりとわかりますね。ぼくは百合もBLも好きだけれど、ぼくがほんとうに求めているのは「百合」とか「BL」みたいな「ジャンル」じゃないんだなって。

 むしろ、ジャンルを超えて擾乱するものをこそ求めているんだなって。

 そういう意味で「百合オタ」とか「腐女子」みたいな「ジャンル愛好家」の人たちとは違うと思う。

 いや、「ジャンル」が好きだという気持ちもそれはそれでわからなくはないのですが……。

 たしかに、百合だと思って読んでいたら突然、男が混ざって来てそいつとくっついて終わりました、みたいな展開はいやだという気持ちもあるでしょう。

 それはわかる。わかるんだけれど、「そういうこともありえる」のが現実じゃないですか。「それは決してあってはならないことだ」なんてだれもいえないし、いう資格もない。

 そういった「不文律」をもうけることはフィクションの自由を制限することに他なりません。

 その意味では『リコリス・リコイル』とか『機動戦士ガンダム 水星の魔女』などはちょっと良かったですね。

 また、ペトロニウスさんが挙げている『真空融接』なんかも好きだし、BLなのにやたら女の子が可愛い『海辺のエトランゼ』なんかも好みです。

 それらはぼくが求める「ジャンル無用の何でもありさ」にはまだ到達していないようにも思えるけれど、少なくとも「BLとか百合というジャンルに限定される狭苦しさ」はあまり感じられない。

 ぼくは「BLに女はいらない」とか「百合に男は出て来ないほうがいい」みたいなことはまったく思わないんですよね。

 いつかぼくが希望する「何でもあり、ジャンルなしのジャンル」が誕生するのか、それともずっとこのままなのか、それはわかりません。

 でも、ぼくは「そういうもの」を見てみたいし、そういう時代は来るのではないかとも感じている。

 もし、そのときが来たら、「えっ、昔は違ったんだ」と意外に感じられるようにすらなるかもしれません。

 そのように考えながら、まだ見ぬ「ジャンルX」を期待し待ちつづけているのです。

 いつか「お約束」のそのリミットを超えて行けたらいい。そう思いませんか?

 え、まったく思わない? そうですか。ごめんなさい。

 でも、ぼくは思うんですよ。

 BLよ、百合よ、どこまでもどこまでも「お約束」という地平線を超えて行け、と。

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