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『アンパンマン』の聖なるカニバリズムと『銀河鉄道の夜』を超える「正義と自己犠牲」のあり方とは。

そうだ うれしいんだ
生きるよろこび
たとえ胸の傷がいたんでも

 映画『それいけ!アンパンマン いのちの星のドーリィ』を見ました。

 『アンパンマン』の映画を観るのは初めてです。テレビシリーズもほとんど観ていないので、ぼくは『アンパンマン』についてほとんど何も知らないことになります。まあ、子供がいなければふつうはそんなものでしょう。

 さて、実質的に初めての『アンパンマン』はどうだったかというと――お、面白い。これは傑作なのでは。

 物語は、「いのちの星」によっていのちを得た人形のドーリィを中心に展開します。

 彼女はせっかく得たいのちを最大限に活用しようとわがまま放題に行動するのですが、なぜかそのいのちは彼女の体に定着しません。

 いのちの期限をまえにドーリィは悩み、同じように仲間の輪に入ろうとしないロールパンナに相談します。

「ねぇ、ロールパンナちゃんは何のために生まれたの? 何をして生きるの?」
「わからない」
「アンパンマンは困っている人を助けるために生きるっていうの。嘘だよね、そんなの。ありえないよね」

 つまり、アンパンマンの行動は「偽善」なのではないかと問い質しているわけです。困っている人を助けるために生きる、そんな綺麗な生き方はありえないと。

 それに対し、ロールパンナは答えます。「嘘じゃない。アンパンマンはそうなんだ。でも、わたしにはできない」と。

 ロールパンナは善と悪、ふたつの心を持つ少女で、アンパンマンのために純粋な正義のために行動することはできないのです。

 そのロールパンナの複雑な内心が垣間見えるセリフとなっています。

 アンパンマンの生き方は偽善ではない。かれはじっさい、ピュアに正義のために行動している。しかし、それはだれにでもできる生き方ではない。そのことが示唆されているといって良いでしょう。

 それでは、それを踏まえてドーリィはどう生きるのか。それがこの映画のクライマックスになります。

 ドーリィは、じつは持ち主に虐待された人形でした。彼女はその悲惨な状況のなかでいのちを望み、そしてそれを得、そのいのちを自分だけのために使おうとします。

 しかし、それでは彼女にいのちは定着しません。ここでは「ただ自分の快楽のために生きることは正しい生き方ではない」ことが示されているわけです。

 ここで思い出したいのはバイキンマンです。かれは一貫して自分だけの楽しみのために生きています。しかも、他人が楽しんでいればいるほど面白くないというひねくれた精神を持っています。

 いわば、かれの存在はドーリィがそうであったかもしれない形なのです。

 人はアンパンマンのようであるべきか、それともバイキンマンのようであるべきか。この映画はそのことを問いかけているといっても良いでしょう。

 最終的にドーリィはみずからを犠牲にしてみんなを助ける道を選びます。いわば彼女は「偽善ではないか」と疑っていたはずのアンパンマンの生き方を選んだのです。

 この展開は感動的ですが、その自己犠牲のあり方はいかにも危うくはないか?

 ちょっと疑問に思って検索してみたところ、やはり同じことを考えた記事がありました。

 この記事では、宮沢賢治を絡めて『ドーリィ』の「自己犠牲のテーマ」を語っています。

 賢治は、おそらくだれよりも深くその「自己犠牲のテーマ」について考えた作家でした。

 そのどこまでも真摯に「ほんとうの幸」を求める姿勢はたしかに『アンパンマン』に一脈通じています。

 ここでは『銀河鉄道の夜』が取り上げられているのですが、たとえばそれが『グスコーブドリの伝記』でも同じことでしょう。

 『グスコーブドリの伝記』では、主人公グスコーブドリが共同体の幸せのために火山を噴火させ、自分は犠牲となって死亡します。そのあり方には、あきらかに賢治自身が投影されているといえるでしょう。

 「みんなの幸せ」のために犠牲になることをいとわないグスコーブドリは賢治の理想の姿なのです。

 こういった描写は、たしかに自己犠牲を美化し、理想化し、一面的に称揚しているように思えます。

 そのため、賢治の作品にはつねに批判が付いて回ります。それこそ、ドーリィがアンパンマンを疑ったように「偽善ではないか」といわれたのです。

 しかし、それは賢治にとっては「嘘じゃない」のでした。かれはじっさい、「困っている人を助けるために生きる」ことに理想を見出していた。

 そのこととままならない現実との相克が、葛藤が、宮沢賢治の文学を何よりも深いものにしているのだと思います。

 それでは、アンパンマンはどうでしょうか。上記引用の記事でも引用されていますが、「アンパンマンのマーチ」にはこのような箇所があります。

そうだ うれしいんだ
生きるよろこび
たとえ胸の傷がいたんでも

 アンパンマンにも痛む「胸の傷」はあるわけです。

 そして、ここでは「たとえ胸の傷がいたんでも」と歌われていますが、むしろ「胸の傷がいたむからこそ」アンパンマンはあれほど自己犠牲的に正義をつらぬくことができるのだと考えるべきなのではないかと思えます。

 つまり、おそらくアンパンマンにも「行動の動機」となる「内面のトラウマ」は存在する。それは決して作中で語られたりはしないものの、あることは想像できるのです。

 ここで、ぼくは『Fate/stay night』の主人公・衛宮士郎を思い出します。士郎はまさにその「内面のトラウマ」に駆動されるままに「正義の味方」をめざし行動しつづけたのでした。

 その生き方は徹底して「壊れて」いて、ある意味ではグスコーブドリを思わせます。

 それでは、アンパンマンもまた、グスコーブドリであり、衛宮士郎であるのか。

 これは微妙なところです。飢えたものを見つけては自分の顔を食べさせるかれの行動は一見するとまさに自己犠牲に思えますが、かれはそこから「生きるよろこび」を得ている。

 つまり、なんらかの「胸の傷(トラウマ)」を背景に行動してはいるかもしれないものの、その活動はグスコーブドリや衛宮士郎のように破滅的ではない、と見ることもできる。

 しかし、他方で、「自分のアイデンティティそのものである「顔」を他人に食べさせる」というかれの行為は、『Fate』や『グスコーブドリの伝記』における自己犠牲以上に不気味で、グロテスクで、狂的でもある。

 それはたしかに絶対の正義かもしれないものの、いかにも過剰で、恐ろしいのです。

 檜垣立哉『食べることの哲学』では、そのことがこのように語られています。

 この絵本の不思議さは、生命にとって、そしてとりわけ四肢動物全般にとって、その人格性=パーソナリティを決定する器官である「顔」がそもそも食べ物であり、さらにそれを惜しげもなくちぎって相手に与えることでらう。これは自分の肉を食べさせる、他人の肉を食べるというカニバリズムよりも、さらに業の深さを感じさせる所作ではないだろうか。余談であるが、ヴェジタリアンのイギリス人の同僚が、切り身として皿にのった刺身は食べられるが、焼き魚は食べられないと話してくれたことがある。逆に日本人にとっては、豚の丸焼きを連想すればわかりやすいだろう。顔を食べろというのは、たんなるカニバルなものではなく、相当な抵抗感をひきおこすものである。ところがアンパンマンは、顔をこそ食べさせるのである。食べてはいけないものの最たる部分が食べ物であるという矛盾が、この絵本のもっとも重要で衝撃的な点ではないだろうか。

 それでは、アンパンマンをしてそこまでさせる「生きるよろこび」とは何なのか。ふたたび「アンパンマンのマーチ」を見てみましょう。

時ははやくすぎる
光る星は消える
だから君はいくんだ ほほえんで

 この歌詞からわかることは、アンパンマンの行動の背景にあるものは「時ははやくすぎる」という「逆らいがたいこの世の摂理」だということです。

 時の流れを止めることはできず、すべてのものは「死」へ向かって一直線に落ちていく。永劫にまたたくかと見える「光る星」でさえもいつか「消える」。

 それがこの世界の法則。いわばアンパンマンはその「グランド・ルール」を背景にしたヒーローなのです。

 おそらく、アンパンマンは何ごとも永遠ではありえないことを知っている。そして、まさにそうだからこそ、いまこの時を生きるよろこびを知っている。そう解釈することができます。

そうだ うれしいんだ
生きるよろこび
たとえ胸の傷がいたんでも

 アンパンマンは時が過ぎ、光る星さえもやがて消えていくこの世界での「生きるよろこび」を知っている。だからいつも「ほほえんで」いる。

 その行動は、いかにも無償の自己犠牲のように見えるけれど、その実、自分自身の快楽と欲望に根ざしている。この一点において、やはりアンパンマンは本物のヒーローであるように思えます。

 その「自分の顔を食べさせる」という不気味とも、聖なるものともいえる食人的なアクションは、しかし、根本のところでかれのこの世界とのかかわり方を表わしている。だからこそ持続的である。

 それが、ぼくたちのヒーロー、アンパンマンなのです。いけ、みんなの夢、守るため。

 ロールパンナと妹のメロンパンナについては、またべつの機会に語ろうと思います。乞うご期待。

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