『ぼっち・ざ・ろっく!』の最新巻のついでに『子ども部屋おじさんの彼と一緒に住みたい私の100日間戦争』というコミックエッセイを読んでみた。
なかなか面白い。ぼくも実家で両親と同居しているいわゆる「子供部屋おじさん」なので、わりと身に沁みるというか、考えさせれるものがあった。
まあ、ぼくは非モテおじさんなので恋人はいないし、だれかと同棲したり結婚したりすることも一生ないだろうとは思うけれど。
ぼく、恋愛とか結婚とか、まったく興味がない人なんですよね。好きとか嫌いとか、最初にいい出したのはだれなのかしら♪
ちなみに、ぼくは経済的にも生活的にも何ひとつメリットがないし、両親との関係も一応は良好なので、いまのところ家を出ていくつもりはまったくない。
わざわざ広くて部屋が余っている実家を出て六畳一間で家賃を払って暮らさなければならない理由が何もないのだ。
もちろん、いくら家があっても人はそこを出て「自立」するべきだと考える人もいるだろう。
そういう人は実家を出てアパートでもマンションでも好きなところで暮らせば良い。
ようはだれもが好きに生きれば良いとしか思えないのだが、それではいけないのだろうか。
各人が各人の最大幸福を自由に追求して良いし、互いの権利が衝突しないかぎり他者の自由は侵害しない。それがまっとうにリベラルな社会というものなのでは、と思うんですけれどね。
そもそもこの「子供部屋おじさん」への社会の(あるいはネットの)風当たりの強さはいったい何に起因しているのだろう。
べつに、実家で親と同居しているからといってだれに迷惑をかけているわけでもないだろう。少なくともインターネットの赤の他人に危害を加えているはずはない。
それなのに、なぜ「子供部屋おじさん」はこうも揶揄され、罵倒され、攻撃されつづけるのだろうか。ひとりの子供部屋おじさんとして、たいへん気になるところである。
ひとつには、現代日本の未婚率の高さと出生率の低さを親元から自立しない若い層の「甘え」に原因があるとみなす意見がある。
たとえば、日経ビジネスには以下のような記事が掲載されている。
しかし、これは冷静に考えてみるととても怪しい見解である。
じっさい、以下の記事では、いろいろな統計を参照しながら「要するに、少なくとも親元に住んでいるから未婚率が上がるなんてことは言えないのです」と結論づけている。
ましてや、「中高年の親元未婚が増えたから未婚化が進んだ」という因果はなく、むしろ中高年の未婚化のほうが先で、結果として40~50代の親元未婚者数が増えたと見るべきです。決して、子どもの自立意識の問題ではないし、親が子離れできないからでもありません。自立する・しないや甘える・甘えないという問題以前に、子にしても親にしても、そもそも経済的問題が最も大きいのではないでしょうか。
(中略)
未婚化の問題を「若者の草食化」などとする考え方同様、親元未婚に対して「社会の落伍者」であるかのようなレッテル貼りは正しくありません。
ましてや、「おじさん」という属性なら安心してたたいていいという風潮は、正しい事実をねじ曲げ、未婚化や少子化の本質的部分を曖昧にする危険性があると考えます。それでは、「見たいものしか見ない」というより「見てもいないものを見たと信じてしまう」ようなものです。個人的な不快感や怒りの感情に支配されて、不都合な真実を透明化してはいけないと思います。
同じ荒川さんの以下のnoteも参考になる。
問題はなぜこうした印象操作的な記事が出回ってしまうのかという方です。記者や専門家が無知ならまだマシかもしれません。そうではなく、あえて「子ども部屋おじさん」という言葉を使いたい理由があることこそが危険なのです。
つまり、生贄です。
僕は書籍でも記事でもインタビューで同じことをずっと言い続けていますが、未婚化や少子化の要因というものは「個人の問題ではない」のです。経済環境や職場環境含めた社会構造上の問題です。若者の草食化が未婚化の原因なんて言い草はとんでもないいいがかりなのです。
しかし、人間は社会構造の問題などという曖昧な理由では納得できない。というより安心できない。特定の誰かのせいにしたがる。だから、自分たちの安心のために、悪者を作りあげてしまうのです。コミュニティ内の仲間意識や絆を強化するのに一番最適なのは、コミュニティの外に敵を作ることです。敵がいるからみんなが一致団結して協力できるから。
もし適当な敵がいなければ、仲間内から敵を作りだし(捏造して)、これをみんなで排除することで仲間意識を確認します。世の中のいじめなどはすべてこの原理で発生します。
今回の件で言えば、少子化の原因を「子ども部屋おじさん」という悪であり敵に責任を一手に負わせることで、既婚者たちは安心を得ているわけです。
これって何かに似ていると思いませんか?そうです。中世欧州の汚点ともいうべき「魔女狩り」そのものです。
魔女狩りか……。
あまりにあたりまえのことだが、社会に何かしら問題があってその構成員が不利益を被っているとき、最善の方法は何らかの手を打ってその問題を解決してしまうことである。
この場合なら、経済を回復させることが問題解決のための最善の方策だろう。
しかし、人は往々にして面倒で複雑な対策を練ることより、だれかを責任者に仕立て上げてその人物を責めることで問題を回避しようとする。
ぼくはこっそり「愛と正義のただのクズ」と呼んでいるのだが、正義感と使命感のつよい愚か者ほど厄介な存在はいない。
そう、この「あたらしい魔女狩り」現象は、つまりはマクロな経済問題の必然的な帰結をミクロな個人の「甘え」として処理しているわけで、典型的な差別言説以外の何ものでもないのである。
このいかにも「新自由主義的」に感じられる自己責任論はじつにくだらない。他人に対し主観的な価値観にもとづいて「自立しろ」と迫るなら、せめてこの社会の経済状況と労働環境を十分に改善してからいうべきだろう。
それ以前にひとり暮らしをしていれば自立しているとも限らないし、そもそも自立とは何かその具体的な条件もあいまいであるわけで、あらためて「自立幻想」の根深さを感じる。
ここら辺はいま読んでいる『ケアの倫理からはじめる正義論――支えあう平等』が面白そうだ。ロールズ的な正義論からこぼれ落ちる「依存」を人間の基本条件として思考を進めている。この本のことは、いつか書こう。
それにしても、「子供部屋おじさん」を攻撃する意見の保守性は気になるところである。
それは結局のところ、お国と社会のために自立し結婚し子供を作ってご奉公するのが「まともな生き方」とみなしているようにしか思えない。
自由も人権も何もあったものではない。令和にもなろうというのに昭和というか戦前から何も変わっていないではないか。
でも、まあ、こういった発想は時代にかかわらず永遠のものなのかもしれない。多様性と個人主義はどこへ行ったんでしょうね。
もちろん、自由も人権も多様性も個人主義も国家と社会の安定がなければ実現しないこともたしかだ。
日本という国家が衰退し滅亡したあと、それでも日本人(だった人たち)の権利が保障されるかというと、とても怪しい。
その意味で、やはり少子化問題は、解決とまではいかないまでも改善されなければならないという意見は理解できる。
しかし、だからといって「このままでは国が亡びる!」などと脅迫し、「わがままな若者や女性を結婚させて子供を産ませろ!」などと迫るのは、まったく現実的ではないし、むしろ逆効果である。
以下の記事では、世界でも最低の出生率になってしまった韓国を俎上に上げ、そもそも社会の経済発展と前近代的な文化のギャップこそがその原因であることが示唆されている。
コールマン氏は韓国をはじめ東アジアで出生率が低い理由として、過去から始まった前近代的な社会・文化と急速な経済発展の乖離、過度な業務負担と教育環境などを挙げた。
コールマン氏は「経済が急速に発展して女性の教育・社会進出は拡大しているが、家事労働の負担は加重される家父長制と家族中心主義は続いている」とし「教育格差は縮小したが、賃金格差は依然として大きく存在し、過度な業務文化や入試過熱など教育環境も出生率が低い背景」と説明した。
続いて「これに伴い、女性にとって結婚は魅力的ではなくなった」とし「反面、行政システムと政策は非婚者を考慮しないでいる」と指摘した。
コールマン氏はまた、韓国の従来の少子化対策のほとんどが「一時的」だったせいで効果が制限的だったと診断した。
コールマン氏は「少子化に効果的な政策や方案は育児休職など制度改善、企業の育児支援義務化、移民政策、同居に対するさらに開放的な態度」と明らかにした。
ただし、韓国社会の特性上、移民政策は少子化問題の解決において制限的だろうとし、文化的要因に考慮して少子化問題にアプローチしなければなければならないと強調した。
子供部屋おじさんも子供部屋おばさんも、あるいは「ニート」や「ひきこもり」も、すべてはマクロな社会問題のミクロな個人における表出なのであって、「甘やかすからそうなるのだ!」などといって済ませられるような単純な話ではないことは明白である。
しかし、人はしばしば科学も統計も事実も無視して安易で安直な個人攻撃に流されてしまう。水は低きに流れるのだ。
いったい無数の「魔女」を殺し尽くしたあと、中世の社会は少しでも幸福になっただろうか。自分がしあわせになることより他人を不幸に陥れてスッキリすることのほうが大切だというのなら、もう止めようがないけれど……。
ところで、『ぼっち・ざ・ろっく!』のほうでもひとりちゃんを初めとするメンバーが将来と進路の問題に直面しているようだ。
いや、ほんと、ぼっちちゃんにはがんばって未来を切り開いてほしい。
子供部屋お姉さんそのものはべつに悪くないが、彼女の場合、美貌も才能も実力も人気も収入も兼ね備えているのだからあかるい未来が待っているはず。
あしたは、こっちだ。
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『「萌え」はほんとうに性差別なのか? アニメ/マンガ/ノベルのなかのセンス・オブ・ジェンダー』は一部フェミニストによる「萌え文化」批判に対抗し、それを擁護する可能性を模索した本。
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