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大谷翔平、羽生結弦、藤井聡太、若く謙虚な天才たちはなぜ非難されたのか。

 苛烈な時代は不世出の才能を生むものなのだろうか、いまの日本を一望すると、さまざまな分野で異質なほどの能力を示す若者が幾人も見つかる。

 そのなかでも、しんじつ天才と呼びたいのが以下の三人だ。

 野球二刀流の大谷翔平。

 フィギュアスケート金メダリストの羽生結弦。

 将棋八冠の藤井聡太。

 いずれもその分野における最高の実力者である。

 そしてまた、それだけではなく、この三人にはあきらかに共通項がある、と感じる。

 また、そう思うのはぼくだけではないらしく、Googleで「大谷翔平 羽生結弦」と入れると「藤井聡太」がサジェスションされたりする。

 まったくべつのジャンルの人物ではあるが、どうにも並べて語りたくなるところのある三人なのだ。

 それでは、そんなかれらの共通点とは何か。

 いうまでもないだろう、いままでの常識では考えられないような快挙を実現した並はずれた天才であるのみならず、ふだんから礼儀正しく、いつも謙虚で偉ぶらないその人格の高潔さだ。

 

 

 ただその成績だけを見ても、それぞれの競技でかれらほどの業績を成し遂げた者はかつてないわけだが、それ以上に印象に残るのは人を分け隔てせず、だれに対しても優しく接するその人間的な度量の大きさである。

 かつて、「天才」というと、世間知らずだったり常識がなかったり、あるいは放埓な性格だったりと、ある側面では巨大な力量を示しながら、べつの面では何か欠落を抱えているものという印象が強かった。談志とか。

 それはときにかれら自身を破滅に追いやることもあるほどで、ある種、その種の天才たちに対して一般人は崇拝とともに見下しを抱いていたのではないかと思う。

 しかし、上記の三人は違う。その成果だけをみてもそれはもう途方もないほどの大天才たちである上に、人格的にもきわめて成熟しているのである。

 あるいは、これからフィクションで天才を描くとき、才能と欠落を等量に抱えているような描写をすると古くさい印象になってしまうかもしれない。

 それくらい、かれらの人間的な素晴らしさは「天才」のイメージそのものを塗り替えてしまった。

 現在20代の三人を一世代としてくくるとしたら、この世代はほんとうに立派な人間を生み出したものだと感心するしかない。

 まあ、将棋の場合、羽生善治という人がいて、かれもまたいつも笑顔でだれにでも気さくな「新時代の天才」だったわけだが、やはりかれはその全盛期においては突出した存在だったと思う。

 こういった凄まじい才能と繊細な人格を併せ持つ若者が次々と出て来る現代日本は案外と悪くない時代なのではないかと思えてくる。

 もちろん、一部の突出した人間だけをサンプルに世代を語ることはできないわけだが、じっさい、「いまどきの若者たち」は平均的に見ても心やさしく温和で折り目正しい人が多いと感じられる。

 そう、おそらく問題なのはもっと上の世代なのかもしれない。羽生や大谷の世代が中心になったら、日本はまた変わって来るのではないか。

 そんなささやかな期待を抱かせるほど、この世代のスターたちは素晴らしいのだ。

 しかし、世の中は広いもので、こういう「できた人たち」が嫌いな人もいるのである。

 あるいはほとんど完璧な才能にしか見えるかれらに対する「逆張り」というものなのかもしれないが、たとえばフェミニストの北原みのりさんはこのように書いている。

 「羽生結弦」が苦手だ。
 などと言えば、日本全国どころか今や世界中の反感を買いそうだけれど、女は意外に「羽生結弦」が苦手なのではないか。羽生結弦さん個人のことではなく、「羽生結弦」というプロジェクトに対する苦手意識のようなものだと思ってほしい。結婚の報告を読んで、やっぱり「羽生結弦」が苦手……という以前からどこかで感じていた気持ちがむくむくとわき上がってしまっている。あんまりモヤモヤするので、なぜ「羽生結弦」が苦手なのか、言語化してみたい。
 率直に言えば、「羽生結弦」はとても重たく、そして直視するには、あまりに痛々しいのである。

 自分個人が苦手だというだけのことを「女は」と主語を大きくするところがなかなか最低な上に、この後には羽生結弦と「羽生結弦」に対する批判が延々と続いている(ただし、最後は大谷翔平には「悲壮感がない」と褒めている)。

 「「羽生結弦」というプロジェクト」のことを「重い」、「痛々しい」と感じることは理解できなくもないものの、そういう単なる個人的印象をもとに人をジャッジする厚顔さには反発を感じる。

 こういう人もいるのだ。

 また、作家の白饅頭さんは「大谷翔平のただしさと息苦しさ」と題した記事で、以下のツイートを取り上げ、

 「個人の感想にすぎないものが、ここまで罵詈雑言を浴びせられなければならないほど大炎上するのかと笑って驚いてしまった。」と語っている。

 かれはこれらのツイートの「炎上」を「大谷不敬罪」としてかなり冷笑的に揶揄しているのだが、ぼくにいわせれば、いまや世界的大スターでたくさんの人のリスペクトを集める大谷を「キモい」、「ネオテニーっぽ」いなどと中傷すれば批判を受けるのはあまりにもあたりまえのことである。

 まして、薬をやったりしないから人間的魅力がないなどという意見はちょっと理解を絶するトンデモツイートとしかいいようがなく、大炎上して当然の暴論としか考えられない。

 これらをあえて「個人の感想に過ぎない」とみなして弁護するなら、白饅頭さんが大嫌いな北原みのりさんのようなフェミニストの意見だって「個人の感想に過ぎない」と捉えるべきだろう。

 そもそも白饅頭さんが「恐ろしいほどの火柱」、「火あぶりの刑」、「罵詈雑言」とひとまとめにしているものもいってしまえば「個人の感想に過ぎない」わけで、もし「個人の感想」に対し批判が浴びせられるのが「息苦しい」というなら、白饅頭さん自身がやっていることは何なのかという話になってしまう。

 さらにいうなら、白饅頭さんはふだんからリベラリストやフェミニストの意見に対してはみずから率先して「罵詈雑言」を浴びせて「火あぶりの刑」に処しているのだから、よくもまあこういうしらじらしいことがいえるものだというしかない。

 ようは自分の同意見のお仲間が批判されることは一方的に「ただしさ」の押しつけとみなして「息苦しい」と感じるが、自分が他人を批判することは「ただしさに対する抵抗」と捉えて正当化しているのだろう。

 その意味で、かれの姿勢は北原さんと大差ないくらい恣意的だと感じてしまうのだけれど、まちがえていますかね。

 人が自分のいちばん嫌いなものに似ていくというのはこういうことである。そういうぼく自身もまた他山の石としなければならないだろうけれど。

 フェミニストとアンチ・フェミニストの有名人ふたりが期せずして羽生結弦と大谷翔平というふたりの天才アスリートについて、「痛々しい」とか「ただしさと息苦しさ」という言葉で批判的に語っていることは印象的だ。

 

 

 このふたつの意見にも、何となく共通項があるのが見て取れる。

 そう、北原さんと白饅頭さんの記事に共通しているものは、かれらの真摯で誠実な姿勢をある種の「過剰さ」とみなして攻撃する態度である。

 つまりは人間的な立派さそのものに対する反感なのだ。

 北原さんは羽生を「痛々しい」というし、白饅頭さんは大谷を「ただしい」と語るのだが、これらはようするに「完璧すぎるのが気に喰わない」という言葉のパラフレーズであるに過ぎない。

 もちろん、それではかれらが人間的に小物であったら好感を示すかというとそうではないだろう。

 こういう人は有名人がどれほど謙虚で誠実で理知的な態度を取ろうと関係なく、自分の「お気持ち」でジャッジしてはやれ「痛々しい」とかやれ「息苦しい」といって非難するものなのだ。

 フェミニストとアンチ・フェミニストと、思想的立場は真逆であるはずのふたりだが、自分の個人的な「お気持ち」を屈折した論理を駆使して一般論にまで拡大していく手つきはよく似ている。

 仲良く対談でもしてほしいくらい。羽生結弦と大谷翔平のどちらがひどいかをテーマに話したらどうですかね。意外と意見が合うかもしれない。

 大谷や羽生や藤井は少なくとも人前ではこういう繊細さを欠いた人の悪口をいわないわけで、それだけでもかれらが尊敬されるのは当然だと思える。

 北原さんたちに理解できないのは、世の中には練習をなまけたりだれかの悪口をいったりしなくても辛いと感じない人間もいるのだ、ということなのではないか。

 自分たちのレベルで考えると異常に見えても、大谷や羽生にとってはそれがナチュラルな態度であるという可能性もあるのだ。というか、おそらくそうなのだろう。かれらはかれらなりに自然体なのだと思われる。

 人として立派な態度で活躍する人物を見て「弱さ」がない人間なんて気持ち悪い、などと批判することはたやすい。

 しかし、大谷や羽生や藤井のような若き天才たちも努力して「弱さ」を克服してきた側面もあるはずなのである。

 それすらも批判されることは人間のさがとしてわかる。だが、それはもはやかれら天才たちの問題ではなく、どうにか天才の欠点を見つけて批判しようとする凡人たち自身の問題でしかないだろう。

 ひとりの能なしの凡人として、心からそう思うのである。

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 さて、フェミニストとアンチ・フェミニストの両巨頭に文句をつけて多方面にケンカを売っている記事だったわけですが、どう評価されるものでしょうかね。

 ぼくはエゴサもしないし自分の記事へのレスポンスを読みに行くこともないので、どういう反応があろうと正確にはわからないのだけれど、何となくこの記事は読まれそうな気がする。

 たくさん読まれれば反発する人もそれだけ多くなることだろうが、まあ、自分のいいたいことをいっているだけなので、かまわない。

 いいたいことをいえないくらいなら何のためにブログを書いているのかわからないからね。

 もちろん、それが上記のおふたりのような逆張りのための(炎上ねらいの?)暴論だと困ってしまうわけだけれど……。

 フェミニストとアンチ・フェミニストの(多くの場合、いたって低次元な)議論というかののしりあいを見ていると、つくづく、どんな思想であれ両極は似てしまうとつよく感じる。

 というか、おそらく、人はどこかで自分と似ていてしかも決定的に違う人間に対して最もつよい反発を感じるものなのだろう。

 その意味で、ひどく怒りを感じるあいては何らかの意味で自分の鏡写しである可能性があるのだ。

 ということは、ぼくがつよい怒りをおぼえるあの人やあの人はじつはどこかぼく自身とそっくりだったりするのかもしれない。なかなかつらい話だが、認めなければならないことに違いない。

 ぼくのブログを継続して読まれている方は、ぼくが作家の山本弘さんをたびたび批判していることをご存知だろう。

 ようするに、山本さんはぼくが批判したくなるようなキャラクターのもち主なのだが、それは決して山本さんを嫌いだということを意味しない。

 むしろ若い頃からたくさん作品を読んでいる最も好きな作家のひとりなのである。好きだからこそ反発を感じるのだといって良い。

 つまり、ぼくにとって山本さんはユング心理学でいう「シャドウ」なのかもしれない。どこかで自分自身であり、なおかつ自分とはまったく違う自分の「影」……。

 自己分析してみると、山本さんに対して反発するのは、かれほどの人ならこの程度のことがわからないはずはないのに、とどこかで考えているからであるように思える。

 単に軽蔑しているだけのあいてなら決してそのようなことは思わない。むしろその知性をリスペクトしているからこそその「欠点」が腹立たしいのである。

 もちろん、欠点といってもあくまでぼくから見たとき、欠けているように思える点ということに過ぎないが。

 こういうことは、ほんとうに嫌いなだけの人には感じない。

 ようするにぼくは山本さんの「やっかいなファン」なのだろう。

 「ファン」と「アンチ」とはほんとうに紙一重である。

 ぼく自身はそれなりに節度を保ってなるべくロジカルに批判しているつもりなのだが、あまりにたびたび取り上げるのでぼくがよほど山本さんを嫌いなのだと思っている人も少なくないだろうな。決してそんなことはないんですけれどね……。

 ぼくがもっと積極的に軽蔑している人物として、唐沢俊一という人がいる。

 山本さんのケンカ別れした元友人であるわけだが、この人は、はっきりいってしまえばただのクズである。

 もう、ほんとうにどうしようもないくらいゲスだし、醜悪だし、ほとんど褒めるところがない。

 だからこそ、ぼくはめったに批判したりしない。批判しようと思えばそれはもうたくさんそうできるポイントがあるのだが、そもそも批判したいという欲求すら湧いて来ないのだ。

 いってしまえば、そのレベルの人である。

 それに比べると岡田斗司夫さんなどはだいぶ知的にひねくれたロジックを展開しているので、批判したくなるところがある。

 まあ、批判されるほうにしてみれば同じことかもしれないけれど、必ずしも徹底して嫌いな人間を批判しているかというと、そうではないということ。

 そう考えていくと、フェミニストとアンチ・フェミニストの対立も、案外、おたがいのことを嫌いではないのではないかと思えてくるわけだが、まあ、そんなことはないのだろうな……。

 ほんとうにおたがいのことを蛇蝎のごとく嫌っているに違いない。それでいて、その態度はどこかで似ている。

 少なくとも大谷翔平と北原みのりさん、羽生結弦と白饅頭さんよりは、白饅頭さんと北原みのりさんははるかに似ているに違いない。

 ぼくにはそう思える。それなのに、本人たちはその類似点にまったく気づいていないらしいところが少し面白い。

 いったい人は、どんなに努力しても自分の人格の欠点について的確に把握できないものなのだろうか。

 まあ、そういっているぼくにしてからが欠点が服を着て歩いているようなろくでもない人間なので、ひとり高みに立って他人を非難することなどできようはずがないのだけれど。

 おそらく、凡人に必要なのは天才の人間性を批判することではなく、まずは鏡のなかの自分を直視することである。

 凡人よ、鏡を見ろ。

 ぼくは、そう思う。

 いま、さっそく鏡を覗いてみたところ、そのなかのぼくはまっかな舌を出して「オマエモナー」といっているようだった。いや、ほんとにね。

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