漆黒の絶望が生みだした現実否定文学「異世界転生」に希望は見いだせるのか?

 「異世界」とは結局、何なのか?

 芳賀概夢&灯まりも『異世界車中泊物語 アウトランナーPHEV』というマンガを何だか気に入ってしまって、読みつづけている。

 一見するとあまり語ることのない、見ようによっては平凡な作品である。

 主人公は仕事にも生活にも行き詰まっているダメサラリーマンで、あるとき、ちょっとしたことから異世界におもむき、そこで冒険したり、美少女たちと出逢ったりする。

 なんということはない、あたりまえの「異世界系」。

 それはそうなのだが、この作品に特異性があるとすれば、それはいったん行った異世界から「現実世界に戻ってくる」ところだろう。

 そう、この物語においては主人公が、異世界と現実を行き来しながら少しずつ少しずつ「成長」していくのだ。

 ここが、革命的に新しいというほどではないにせよ、何となく気になる。

 現実と異世界を往還するだけなら『日帰りクエスト』の時代からあるにはあるのだが、それでも、いままでの「異世界系」は「行ってしまって、帰ってこない」ストーリーが主流だった。

 そもそも「異世界転生もの」のばあい、転生するまえに一度死んでしまっているのだから帰りようがない。

 「転生もの」よりさらに以前のファンタジーの主流が「行きて帰りし物語」だったのに対して、「転生もの」は故郷に帰るつもりがまったくないのだ。

 

 

 なぜ、このような物語類型が生まれたのか?

 その点について考えるためには、そもそも、「小説家になろう」を中心に爆発的に浸透し、いまなお広く読まれている「異世界系」の、その「異世界」とは何なのか、考えなければならない。

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 といっても、答えは簡単である。

 「異世界」とは、ようするに時代が生んだ現実逃避のテーマパークなのだ。

 つまり、「異世界転生」とは、現実があまりにも過酷で未来が見えないから、どこか遠くに行ってしまいたいという願望がストレートに反映された物語だということができる。

 一見すると単にお気楽なだけの楽観的なストーリーと見える「異世界もの」全般には、強烈な時代感覚があるのである。

 「どこか遠いところへ行ってしまって、もう二度と戻りたくない」。これが、異世界系に秘められた暗い想いだということ。

 なぜ、いまの時代、そのような物語が要請されているのかということは、いまさらくわしく語るまでもないだろう。

 いわゆる「失われた30年」の経済的な沈滞は、この国からあらゆる希望を奪った。もはや、現実の生活には楽観しようがない。そこで、遠い「異世界」へ行ってしまおう!ということになったわけなのである。

 その「異世界」のモデルは『ドラクエ』や『ファイナルファンタジー』などのゲームだが、じっさいには「異世界」は『指輪物語』や『ロードス島戦記』などの従来のファンタジー小説の「異世界」とは決定的に内実が異なっている。

 そういった世界が「切ないあこがれ」が生み出した「本来そうあるべき真世界」として位置づけられているのに対し、現在の「異世界」はあくまで過酷な現実から逃げ出すための場所であるに過ぎない。

 現実逃避というと、いかにもネガティヴなひびきではある。「異世界もの」の願望充足とご都合主義はつとに批判されるところでもある。

 しかし、その背景にあるものが、あまりにも過酷で未来がうかがい知れない状況であることは注意しておかなければならない。

 「異世界もの」そのものはお気楽な内容かもしれないが、それを生み出した現実は、時代は決してそうではないのだ。

 「異世界系」とは、いわば『進撃の巨人』や『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』などの苛烈で凄惨な「新世界系」の陰画なのである。

 だから、「異世界系」においては、転生したり召喚されたりした「異世界」でいくらか成長したとしても、それが現実に還元されることはない。

 象徴的なのが『無職転生』で、「異世界」へ行って「本気を出し」人間的な成長を遂げたルーデウスの人生はあくまで「異世界」で完結する。

 「異世界」での経験を活かして現実世界のいじめっ子に立ち向かおうとかそういった話にはならないのである。

 「異世界もの」は現実世界への徹底した絶望から生まれている。もう、現実世界には何ひとつ希望を見いだしようがない、だから空想の「異世界」で、すべての願望を充足させよう。

 「異世界系」が生み出された動機は、ひとえにそのようなものだ。

 もはや現実には何も求めない。現実では、仮にいくらか成長したとしても、まったく希望を見つけようがない。

 「行ったきり帰ってこない」という異世界系のストーリーにはそのような辛辣な想いがにじみ出ているようだ。あるいは、そのはずだった。

 そこで、『異世界車中泊』である。

 このお話は、途中で現実に帰ってくる。「一度行ってしまったら、戻って来るべきではない」という異世界系のセオリーを打ち破っているわけだ。

 しかも、主人公はまさに異世界で積んだ経験を活かして、現実世界で少しだけ活躍して幸せになる。

 この点は非常に興味深い。「異世界系」は現実への絶望からスタートしているがゆえに現実で活躍することはないはずなのに、いったいどういうことなのか。

 もちろん、「異世界帰り」の主人公が「現実世界で無双」するといった話はいくつもある。しかし、それはいわば現実世界が「異世界化」しただけのことで、現実逃避のストーリーであることは何も変わっていない。

 だが、『異世界車中泊』においては主人公はべつだん、異世界で何らかの「チート」を身につけて現実世界で活躍するわけではない。

 かれが現実世界へ持って帰れるものはあくまで経験だけである。これは、ある意味で「現実と向き合った」物語だといえる。

 現実に向き合うことがイヤだったからこそ「異世界」が求められたはずなのに、あきらかにこの展開は矛盾している。

 いったいこのような作品がいまの時代にウケるものだろうか。おそらく、ぼくは決してウケないことだろうと思う。

 マンガとしての出来は良いので、それなりに読者は獲得できることだろうが、大ヒットしたりはしないだろう。

 とはいえ、個人的にはこのような「現実と向き合う」物語はとても好きである。

 ほとんど楽観的な願望充足を突きつめているように見える「異世界系」がその実、深い絶望に裏打ちされているのに対し、ここには希望を求めるスピリットがある。

 その意味で、『異世界車中泊』は「明るい」物語だとすらいえるだろう。そこにあるものは、ファンタジーで身につけた知恵を現実に還元して現実世界で生きていこうという、古典的なファンタジーのモラルであるようにも見える。

 しかし、それにしてはこの「異世界」はやはり甘い。現実逃避世界的である。このような甘ったるい世界で「何かを学ぶ」ことなどできないのではないかとも思える。

 とはいえ、主人公の「異世界経験」の活かし方は適切なのである。これをどう考えるべきなのか。

 つまりは、ここでの「異世界」はある種の休養の場、現実からの一時的な避難の場所と考えるべきなのだろう。

 あまりにも辛い現実を離れて、いったんおいしいものを食べ、美少女と語らい、自分がどうするべきなのかを深く考える。そのような場所として「異世界」は設定されているように思える。

 これは「異世界系」の文脈においては、ある意味で新しいし、可能性を感じる。

 何より、ぼくはやはり徹底した現実への絶望より、少しでも現実へ向き合おうとする姿勢のほうが好きなのだ。

 これはファンタジー全般をどのように考えるべきかという問いともうらはらなのだが……。

 漆黒の絶望的文学としての「異世界転生」のさらにその先に、はたして希望は見つかるのか? 

 ぼくはいま、わくわくしながら『異世界車中泊』を読んでいるところだ。

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