相模原の障害者施設「やまゆり園」で起こった障害者殺傷事件についてはご存知だろう。
その事件をもとにフィクションとして犯行に至るプロセスを描いたのが映画『月』である。その映画について、このような批判記事を読んだ。
最初に『月』のよかった点から書く。宮沢りえ、二階堂ふみ、磯村勇斗、オダギリジョーら豪華な俳優陣は素晴らしい演技をしていたと思う。二階堂ふみは朝ドラやメガヒット映画にも出る一方、こうした重いテーマの作品にも意義を感じて出演してくれる俳優だし、磯村勇斗は『PLAN75』とはまったくちがう役柄ながらみごとに演じていた。
では、何がよくなかったのか。最終的には脚本の限界というか、「重度障害者に対する殺人」という、作り手が自ら設定したドストエフスキー的なテーマを扱いかねたまま終わってしまっている(ように見える)ことにつきると思う。
「そんなに簡単に答えが出る問題ではないのだ、安易な綺麗事やハッピーエンドにすることを拒否したのだ」という見方はもちろんあるだろう。しかしながら、この映画は実際の障害者たちを俳優として使っている。実際の障害者の映像で観客に「現実」「衝撃」を突きつけ、磯村勇斗に「こいつらに生きる意味はあるのか」と言わせ、二階堂ふみに「彼らを見て心の中で気持ち悪いと思わなかった?」と問いかけるという重い手法を秤の片方に乗せた以上、秤の片方には「その問いかけに対して作り手はどう思うのか」という作り手の体重を乗せなくてはならないはずである。しかし、この映画はそれができず、単に観客に問いかけたままで終わっている。
なるほど。しかし、この記事では同時にこのようにも書かれている。
つまり、ポジティブな絶賛が「宣伝」になってしまうSNSにおいては、ネガティブな批判もまた「反宣伝」ネガティブキャンペーンにしかならない。褒めれば宣伝で、批判すれば批評になるほど状況は単純ではない。
とはいうものの、やはりある種の批判を書いておかざるをえない映画というものは存在する。
タイトルにも書いたと思うが、石井裕也監督の『月』の話だ。上で書いたように、これは糾弾とか否定ではない。こんな映画だから見るな、という話でもない。見た上でここに書いたことが正しいかどうか確かめてもらえればと思う。
そういうわけで、読んで、見に行ってきた。
映画『月』。繊細な感情描写と淡々と進む展開が見るものを圧倒する素晴らしい内容だと感じた。
とくに主役を務める宮沢りえのふるえるような演技はすさまじく、ほんとうに日本を代表する女優のひとりだと感じさせる。
あまりにもむずかしい役を引き受け、みごとにやり遂げたことは称賛に値することだろう。彼女の気弱な夫を務めるオダギリジョーもすごい。
上記記事にも書かれている通り、全体に役者陣は好演であり、それは監督の演出力の証明でもあるだろう。その意味でこの映画は傑作だと思う。
思うのだが、たしかに、上記の記事で書かれている批判はこの映画にあてはまってしまっている。
ただ、それは結末が弱いというより、全体としての主張が弱いのだろう。
作中で障害者を殺傷する「さとくん」の声のつよさに対して、主人公たちの声は拮抗できていない。
かれらはどうにか障害者のいのちを擁護するロジックを組み立てて「さとくん」の理屈に対抗しようとするのだが、それらはあっさりと「嘘」、「きれいごと」として却下されてしまい、一定の説得力を発揮するまでに至らない。
この映画はあまりにも重い「現実」と「きれいごと」が対立しあい、「きれいごと」が負けてしまう構図になっているとすら見える。
じっさいの重度障害者たちを起用したという作中の障害者たちの描写はほとんど露悪的なまでに執拗な印象であり、「一度もあいつらを気持ち悪いと思わなかったの?」というセリフも出て来る。
その一方で、その障害者たちはあくまで作品の「背景」をなしているだけであり、主だったドラマを演じるのはあくまで施設の職員を務める健常者たちだ。
その意味で、この作品は障害者を描いた映画ではない。
どこまでも、「異質な他者」としての障害者をまえにうろたえ、思い悩み、迷いながら葛藤する健常者を描いた映画であるに留まる。
作中に登場する障害者たちには固有の名前すらなく、それぞれの個性が描写されるでもなく、ただただ悩みつづける主人公を初めとするキャラクターたちの「鏡」であるに過ぎない。
かれらはひたすらに「グロテスクさの記号」なのであって、「生きた人間」として描かれていないのだ。
それは「きれいごとでは済まない障害者のリアルを正面から描いたらそうなるのだ」という意見はありえるかもしれない。まさに劇中で「さとくん」が「これが現実」と幾度もくり返し述べるように。
しかし、それでは、「知的障害者のグループホームの管理責任者」だという人物の以下のような批判をどう受け止めるべきだろうか。
結局、「あの大量殺人鬼は如何にして生まれたのか」ということを描こうとするあまり、極端に「記号化」して「価値のない醜悪な障がい者と人権無視の施設」という設定にしてしまったんやろなぁ。観ている間ずっと「違う!この仕事はもっと明るいし楽しいこともやりがいもたくさんあるんや!」って叫びたかった…。本当に誤解してほしくない…。
確かに、障がい者施設や介護施設の職員による虐待事件は頻繁に起こっている。でもそれは、「差別意識」「スキル不足」「人手不足」なんかが原因。つまり、障がい者への偏見がなくなり、職員の意識も向上していけば、なり手が増えて、待遇も良くなって…と徐々に改善していくはず、と希望を持って日々がんばってるねん
つまり、こういう映画作品で「障がい者」を明るく前向きに描いて欲しいねん。あの事件がテーマでは難しいかもしれへんけど、施設の日常をもっと楽しく肯定的に描くことはできたはずやし、その方が後半の悲劇がより際立ったのではないか?と思った。
これもまた一定の説得力をもつ批判意見である。
作中で「これが現実」として描かれているものは、じっさいの障害者の生活からかけ離れているという意見は他にもいくつか見あたる。
わたしはそういった実態についてくわしく知っているわけではないが、おそらくそうだろう。
もちろん、制作陣は取材をもとにして映画を撮ったのであり、まったくでたらめな内容とは思えない。
この映画でつづられたような障害者の虐待や隔離といった事実がまったく確認されていないわけでははないだろう。
しかし、それは「現実の一面」ではあっても「現実のすべて」、「現実そのもの」ではない。
わたしたちが生きている「現実」はきわめて多面的であり、ただ醜悪かつ露悪的に描けばそれが「隠蔽されている現実を正面から描いた」ことにならないことは当然だ。
もちろん、映画の制作陣もそのようなことはわかっているに違いない。
ただ、わかっていてなお、かれらは「障害者の生」を肯定し切れなかった。
いい換えるなら、「重度障害者は気持ち悪い。死んだほうが良い存在である」という「さとくん」の主張を、映画そのものが否定し切れていないといっても良い。
もっとも、ただ形だけ主人公が「さとくん」を論破する内容にすることはできたはずだ。
この映画はそれを選ばなかった。その態度はひとつの誠実さではある。
それは上記の批判記事にあるように、「ひとりひとりに考えてほしい」という意見の表われなのかもしれない。
繊細な議論を要するテーマである。その方法論は理解できる。
しかし、一方で「考えた結果、やっぱり生産性のない障害者は死んだほうが良いと思いました」というアンサーが出てもおかしくないような作りになってしまっていることは否めない。
もし、映画がそのような主張もまた許容されるべきであると訴えているならそれはそれで良い。批判は浴びることだろうが、ひとつのやりかたである。
しかし、そうではないだろう。やはりこの映画は「障害者の生と尊厳」を肯定しようとしているはずだ。
「むずかしい問題だけれど、障害者を殺しても良いという意見もあって良いよね。それが現実に対するみんなの本音だよね」といったレベルに終始するようでは、映画のテーマを貫徹できていないといわれてもしかたない。
印象的なのは、作中で「さとくん」には聴覚障害者の恋人がいる設定になっているにもかかわらず、「さとくん」の重度知的障害者に対する偏見になんら影響は見られないことだ。
「さとくん」は聴覚障害者とかれが「心がない」と考える知的障害者に「線を引いて」殺害対象を選んでいる。
だが、その恣意的な「線引き」はその実、かれ自身が無意味な存在として否定される恐怖から来ているものだ。
映画は本来、この恐怖を否定し、「すべての生きている人間には生きる意味がある」ことを高らかに歌い上げるべきなのだろう。
それなのに、じっさいにはそれはできていない。結果として、この作品にはどこか「すべてはむなしい」という虚無感がただよう。
とはいえ、作中で繰り返し描かれる「過酷な現実」がどこまでほんとうに「現実」なのかはさだかではないのである。
その「現実」とはほんとうは「幻想」なのではないか、という疑いはいかにも残る。前提そのものがまちがえているように思えるのだ。
くり返すが、映画そのものはじつに丹念に制作された傑作である。その価値をわたしは疑わない。
しかし、だからこそ、その問題点がきわめてつよく印象に残る。結局のところ、
わたしもまた、こういうしかないようだ。ぜひ、見に行ってあなたの目でたしかめてほしい、と。
映画『月』、現在も上映中である。
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