非モテのことを色々と考えて、「恋愛工学」(ナンパ工学とかセックス工学といったほうが正しいかも)に行き着きました。じっさい、調べれば調べるほど面白い。
ぼくが考えるに、恋愛工学の最大の特徴は、人と人の「コミュニケーション」を否定するところにあります。
ふつう、コミュニケーションとは相手に何らかの「内面」が存在していることを想定し、その「内面」に向けて行うものなのですが、恋愛工学においてはそれは「非効率的」と却下されます。
たとえば恋愛工学を指導する藤沢数希さんは恋愛工学の教典『ぼくは愛を証明しようと思う。』の刊行にあたって、既存の恋愛物語を否定しています。
「文学もそうですし、ドラマや映画などを含めても、これまでの恋愛に関する作品は本当の恋愛を描いていなかったのではないでしょうか。恋愛がメインテーマでない作品にも、ほとんど必ずと言っていいほどサイドストーリーに恋愛が入りますが、そこでは『非モテコミット』があたかも素晴らしいことのように描かれる。普通の恋愛を効率よく行う、実用的な役立つ恋愛小説がなかったんです」(藤沢数希さん)
つまり、『ぼくは愛を証明しようと思う。』はいままでの小説と「効率」と「実用性」の点で違っている、という主張です。藤沢さんはさらに語ります。
「恋愛ドラマやJ-POPの歌詞、女の恋愛コラムニストがご丁寧にも『これが“正しい”恋愛ですよ』『こうしたら女の子にモテるんですよ』と暗に明に指南してくれる、恋愛に関する常識は根本的に間違っているんですよ。恋愛工学という科学的なアプローチとメルマガに集まったビッグデータを使って、世の中に蔓延している恋愛観を全部ひっくり返したかったんです」(藤沢さん)
「科学的なアプローチ」ってそれはあなたのいう「聖帝十字撃」とか「トモダチンコ」のことですか、といいたくなりますが、そんな皮肉をいっていても始まらないので先へ進めます。
ちなみに恋愛工学生によるとこれらのネーミングには「文学的なおかしみ」があるそうです。うーん、まあなあ、世の中にはいろいろなセンスの人がいるからね……。
それはともかく、ようするに藤沢さんは恋愛において「効率」を重視しているわけです。藤沢さんにとって恋愛の目的はセックスであり、したがってそのゴールにより早くたどり着けるやり方が「効率的」であると考える。
その意味で一般的な文学作品はどうでもいい途中経過ばかりを描いている「非効率的」なしろものということになる。
しかし、一般的な文学作品において重要なのは、セックスだけではなくセックスを含めた恋人たちのやり取り、つまりコミュニケーションなのです。「こうすればうまくセックスできるよ」という小説は単なるナンパマニュアルであり、文学ではない。
こう書くと藤沢さんはおそらく「それなら文学でなくてかまわない」というと思います。ぼくもべつに文学がナンパマニュアルより優れていると考えているわけでもない。
ぼくがいいたいのは、文学作品の恋愛表現が迂遠になるのはそれだけの理由があるのだということです。端的にいって、藤沢さんが掲げるような「普通の恋愛を効率よく行う、実用的な役立つ恋愛小説」はつまらないからです。
そもそも小説は「効率」とか「実用性」を問われるべきものではなく、面白いか面白くないかのほうが重要なのです。そして、そういう意味では藤沢さんの小説は面白くない。
もちろん、この本は本質的にナンパマニュアルなのですから、小説としての面白さを問うのは間違えているのかもしれません。しかし、この本が小説として非常に優れているなどと主張する人を見ると、さすがに「ご冗談でしょう」といいたくなります。
この本は徹頭徹尾、男のナルシシズムについて書かれているとしか思われません。ここにはセックスを含むコミュニケーションの官能性が徹底的に欠けているのです。
あるいは、コミュニケーションを欠いていても藤沢さんがいうところの「科学的なアプローチ」を続ければ、一定の成果を挙げられるのかもしれません。
ぼくは自分が試したわけではないのでわかりませんが、そういうふうに主張する人もいます。しかし、それでは相手の「内面」に、「心」に触れることはできないわけです。そもそも相手を心をもった人間として見ていないのだからあたりまえです。
そういう意味では恋愛工学はどこまでいってもひとり相撲です。それは「相手側の事情」を見ない。相手にも相手の事情があり、問題があり、相手の心を捉えたいならそれによって対応を変えなければならないということを考えない。
恋愛工学的には、それは「非効率的」なことなのでしょう。相手に対するアプローチがうまくいかなかったら次へ行けばいい。相手の内面の問題になど関わっている暇はない。ただ効率を重視するならそういうことになります。
ある意味では一理あるのかもしれません。しかし、ぼくはどうしてもそれは孤独ではないか、むなしくはないのか、と思ってしまいます。だれとも触れ合わず、だれとも心を通わせず、ただ金を稼いだり、「いい女」とセックスできる自分を誇る。それで寂しくはないのか、と。
おそらく藤沢さんは寂しくないのでしょう。かれは実にきれいに自己完結していて「他者」を必要としていないように見える。まあ、ほんとうにそうなのかどうかはわかりませんが、少なくともネットに上がっている情報を見る限りそんな雰囲気です。
問題は、大半の男性はそうではないし、女性はもっとそうではないということです。藤沢さんはどうなのかしりませんが、一般に人間には「共感」という能力が備わっていて、これがあるからこそ小説や映画が面白いわけですが、とにかく相対した人の「心」を想像し、共振するわけです。
特に好きな相手となると、こんなことを考えているのではないか、あんなことを悩んでいるのではないかと散々に想像を巡らし、ああでもないこうでもないと考え込むことが普通です。
そして相手の歓びを自分の歓びのように思い、また相手の痛みを自分の痛みのように感じるようになります。
この共感の能力はある意味でたしかに非効率的です。相手の内面なんていくら考えてもわかるわけはないのだから考えるだけ無駄だという割り切り方もあるでしょう。それくらいならトライアル&エラーの試行回数を増やした方が効率がいい、と。
ですが、この共感こそが人を人にしているものなのです。完全に他者に対する共感を欠いた人間は、このいい方が正しいのかどうかわかりませんが、「サイコパス」とか「モンスター」と呼ばれる存在です。
こういう存在は他人の痛みをまったく感じ取りません。だから「効率的に」他者を利用し搾取し、自分の利益をどこまでも第一に考えることができます。あるいはそれはビジネスにおいては有利な特徴なのかもしれませんが、人間的とはいいがたいでしょう。
そして、大抵の男女はサイコパスでもなければモンスターでもない。だから、最大の効率のみを考えて恋愛やセックスをしようとしても無理があります。
女性を性的に搾取しつづけたら、搾取された女性はもちろん、搾取した男性だって傷ついてしまうのです。それが共感の能力をもつ、モンスターならざる「心ある人間」というものです。
いくら面倒でも、迂遠でも、コミュニケーションを通して出逢い、話し合い、傷つけあい、変化しあうしかない。それが恋愛に限らず、人間関係のだいご味だろうとぼくは思います。
だからこそ、ぼくは文学や映画が好きなのです。それはぼくにとってはたとえようもなくエロティックなメディアです。
藤沢さんはことあるごとに相手を極端に好きになってしまう「非モテコミット」を批判しています。『少年マガジン』のインタビューからそれについて語っている箇所を抜き出してみましょう。
――“非モテコミット”とは何ですか?
藤沢:モテない男性、つまり非モテ男性は、そもそも出会いが少ない。だから、数少ない出会えた女性がすこし優しくしてくれるだけで、簡単に好きになってしまいます。そうすると、もう、この女性しかいない、と思い込み、ひとりの女性に執着するようになります。女性から見ると、こういう男性はとても気持ち悪いのです。
――しかし、それは一途に愛している、ということではないのですか?
藤沢:女性が、自分のことに夢中になっている男性を嫌うのは、生物学的な理由があります。動物のメスは、優秀なモテるオスの子を生み、その子がさらにモテることによって、自分の子孫が繁栄することを本能的に求めます。だから、非モテコミットに陥っている男性は、他の女性に相手にされない非モテ遺伝子を持った劣等オスにしか見えないのです。劣等オスの子を産んだら、子も非モテになって、子孫が繁栄しなくなるかもしれません。それは、メスにとって、なんとしても避けたいことなのです。
そうでしょうか。なるほど、非モテコミットはたしかに「気持ち悪い」。ぼくもそう思います。しかし、それはべつに何十万年前から続くメスの遺伝子が神秘な作用を行ったから「ではない」。
もっと単純に、自分の恋心のことしか考えていない男性は(女性も)気持ち悪いという、それだけのことなのです。
「好きだ」という自分の気持ちに夢中になって、相手のことを考えていない状態は、相手から見ると迷惑に思えるものです。その恋心が相手にとってどんな意味をもつかということを考えていないわけですから。
ひとりよがりなんですよ。つまり、恋愛工学がナルシシズムなら、非モテコミットもまたナルシシズムなのです。非モテコミットの気持ち悪さとは、ナルシシズムの気持ち悪さです。
いい換えるなら、恋愛工学はナルシシズムを否定する一方で、別種のナルシシズムを推奨しているということになります。
恋愛工学を駆使すれば、あるいは効率的に多数の女性を「落とす」ことはできるかもしれません。しかし、それは特定の女性との間に建設的な関係を築くためには何の役にも立たないことでしょう。相手の内面を無視しているのだから当然です。
特定の女性と豊かな関係を続けるためには、あの迂遠で面倒な「コミュニケーション」が必要とされるわけです。それはいわゆる「純愛」ではありません。
「純愛」という言葉が「決して変わらない愛」を指すとするなら、「コミュニケーション」とは「相手との関係のなかで変わっていくこと」を意味しているからです。
愛は「恋愛工学」か「純愛」か、という二択で語れるものではありません。もっと複雑な、もっと深淵なものなのです。
ぼくは基本的にはセックスを含めたコミュニケーションが好きだし、その意味で自分は「スケベ」な人間だと思っています。しかし、その一方でコミュニケーションが怖い、恐ろしいという気持ちもよくわかる。
いったん相手が内面をもつ存在であることを認めてしまったら、相手がその決して推し量り切れない心で何を考えているのか、気になってしかたなくなります。
ひょっとしたら自分のことを嫌いなのかもしれない、軽蔑しているのかもしれない、ただの財布代わりにしか思っていないのかもしれない――煩悶はどこまでも続くでしょう。
そうやって相手の気持ちをおもんばかりすぎたために身動きが取れなくなっているのが、いわゆる非モテだと思います。
そういう非モテに対して、「相手の気持ちなんて考えなくてもいいんだよ」とささやきかけることは、たしかにある種の効果を及ぼすでしょう。
けれど、それは恋愛の最も芳醇な果実を捨て、「自分ひとりだけの宇宙」へひきこもれ、といっているに等しいことです。
恋愛とかセックスは、コミュニケーションにこそ面白みがあるわけです。自分が決して支配し切れない、コントロールし切れない、何を考えているのかも理解し切れない「他者」と出逢って、自分自身変化していくこと。それがコミュニケーションです。
それはたしかに簡単なことではありません。しかし、「ひとりぼっちの世界」にひきこもってナルシシスティックに生きるよりはるかに豊かなことでしょう。ぼくはそう思います。
ぼくはやはり「関係性のエロス」が好きなのです。もちろん、関係をこじらせて「共依存」に陥ってしまうこともあるでしょう。
しかし、それでもぼくは「他者がいる世界」をこそ選びたい。そうでなくては、この世界に生まれて来た甲斐がないではないか。そう思うのです。
恋愛工学的なアプローチを徹底して続けると、どのくらい恋愛が退屈なしろものに堕してしまうのかを描き出した小説に、『読むだけで彼女ができるモテる小説』という作品があります。
この小説の主人公は恋愛工学とよく似たアプローチで女性に声をかけつづけることを続け、最終的により多くの女性と関係を結ぶことを目指すようになります。
わたしは日課として、オンライン、オフラインを問わず一日一人ずつ、新しいターゲットに声をかけていくことにした。ネットでコメントをつけたとしても応答がない場合があり、突然知らない人にコメントされて戸惑っていたり、あるいは嫌がっていたりするのかもしれないが、そう思われるということは単に縁がなかったということであり、とくに気にせず次へと進んだ。
(中略)
しかし晴菜のハートを射止めたわたしは、それでも満足しなかった。X子からAA子、AB子……と晴菜とまったく同じ手法でアプローチし、AL子を口説き落とした。
そのあとに取った行動は、この数ページの繰り返しに過ぎない。実際の恋愛は小説や歌のそれとは異なり、とても単調なものである。「恋愛は起伏があるのが面白いのだ」と言う人もいるが、それは単に強がりを言っているにすぎない。
わたしは恋愛に飽きるまでこのループを続けるだろう。ループするのは恋愛だけでなく、生活すべてである。朝起きて、歯を磨いて出社してメールを見て返事をして上司に怒られて反省して仕事して上司に褒められてやる気を出し恋人と会って相槌を打ってセックスをして寝る。人生というものはこの繰り返しだが、その繰り返しに心の底からうんざりするまで、わたしは生き続けて恋をし続けるだろう。
なぜあっというまにうんざりしてしまわないのか不思議ですが、ここには「人生なんてこんなものだ」というニヒリズムがあります。恋愛工学的な恋愛観とは、こういうニヒリズムに人を至らせてしまうのです。
結局のところ、ひとが単純なアプローチに対して単純なリアクションを返すだけの単調な存在であるとするなら、生きることなど何が面白いでしょうか?
「他者」が自分の想像を超える反応を返してくるからこそ、生きることは、そしてコミュニケーションは面白い。ぼくはそういうふうに考えます。
『モテる小説』でも、恋愛工学と同じく恋愛小説やポップソングを否定していますが、少なくとも大半の恋愛小説は『モテる小説』より(そして『ぼくは愛を証明しようと思う。』より)面白いでしょう。
ひたすらに「効率」を突き詰めていくなら、だれより自分自身を追いつめることになるのです。ぼくはそう信じています。
あえていうなら、それが、ぼくの宗教です。
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