アニメ『負けヒロインが多すぎる!』が人気だ。
ぼくはまだ序盤しか観ていないが、たしかに面白い。いったい何なんでしょうね、この演出の切れ。技術的な事柄に関してなど、くわしいことは監督のインタビューをご覧ください。
なぜか、原作の本も本棚に並んでいるので、アニメを観終わったら読んでみよう。
ここのところ、ラブコメライトノベルからヒット作が出ていなかった印象があるので、ひさびさのスマッシュヒットかもしれない。
しかも延々と続くラブコメの文脈を前提にした作品なので、見ていてひじょうに考えさせられる。「負けヒロイン」という概念ってどこらへんで出てきたんだろうね?
もちろん、その存在そのものは大昔からいるわけだけれど、具体的に名前が付いたのはいつなのだろうか。決定的なのはそれこそこのアニメのヒットかもしれないが……。
それにしても、この頃のラブコメライトノベルからなかなか爆発的なヒット作が出てこないのは理由がある、と思わざるを得ない。なんというか、きわめて極端なシチュエーションに特化した作品が多いように感じられるのだ。
あえてこういうふうにあいまいな書き方をするのはひとつひとつの作品を読んでいないからなのだが、読まなくてもわかるくらいのタイトルなのである。
たとえば『クラスの優等生を『妹』にする約束をした。どうやらいっぱい甘えたいらしい。』あたりはまだ「おおぅ……」という感じだが、『北欧美少女のクラスメイトが、婚約者になったらデレデレの甘々になってしまった件について』などは「ぐぬぬぅ……」と思うし、『幼馴染たちが人気アイドルになった~甘々な彼女たちは俺に貢いでくれている~ 』に至るともうただ「いやいやいや……」としか思えない。
さらに『手に入れた催眠アプリで夢のハーレム生活を送りたい』に至ってはもうそれライトノベルで出して良いの?といったシロモノに感じられる(じっさいはそんなことはないのかもしれないが)。
いや、まったく一冊も読んでいないので偉そうなことはいえないのだけれど、これらのタイトルの時点で「ちょっとそれどうなの?」と思わざるを得ない。読まずに語るべきではないことは重々承知しているので、べつだん批判の意図はない。ただ「なんかすげえなあ」と思ってしまうのである。
ぼくはこの手の極端なシチュエーションのラブコメライトノベルを「エクストリームラブコメ」と呼んでいる。なんというか、「萌え」とか「願望充足」の極限にまでたどり着いてしまっているようで、ちょっとすさまじい感覚を覚える。そこまでエクストリームを極めないでも、と思ってしまうわけだ。
ちなみにいまのところ、ぼくのなかでのエクストリーム・オブ・エクストリームともいうべきこの手のタイトルの優勝作品は『隣の席の元アイドルは、俺のプロデュースがないと生きていけない』である。
いや、生きていけないって。そこまで依存を求めますか。それ、ラブコメしている場合じゃないんじゃないのという感じだが、いつかこれをも超えるスーパーエクストリームな作品が出て来るかもしれない。空恐ろしい限りだ。
ラブコメに限らず、ジャンル小説はそのまえの作品を前提として、さらにそこから先へ進もうとするから、結果的にこういうことになる。
ぼくがむかし好きだったなつかしの新本格ミステリで引用と進化の果てに『どんどん橋、落ちた』や『翼ある闇』が生まれてしまったのと同じことである。
こういった異形の作品はいわば進化の果ての果てのカンブリア紀爆発の産物であり、あとから考えてみると「なんだったんだろう、あれ……」としか思えないシロモノでもある。ウソだと思ったら読んでみてね。いろいろとすごいから。
で、何がいいたいのかといえば、『負けヒロインが多すぎる』はそういったエクストリーム系のラブコメではないということだ。
たしかに、この作品に登場するヒロインたちは、長々と続いているラブコメ作品における文脈を前提にしている。
幼馴染みヒロイン、陸上部ヒロイン、文芸部ヒロイン……いずれも、それなりに人気はあるが一位にはなれないポジションであり、ある程度ラブコメ作品を見てきている人なら過去の特定のヒロインがオーバーラップするであろうキャラクターたちだ。
そういった「負けヒロイン」たちの「その後」を描くところにこの作品の面白さはあるわけだが、気になるのはそれではこれらの「負けヒロイン」たちはこの物語では「メインヒロイン」を張ることができるのだろうか?ということだ。
もし、主人公がだれかと結ばれることになるのなら、そのヒロインから「負けヒロイン」から転じて「勝ちヒロイン」になるわけであり、それ以外のキャラクターは「負けヒロイン・オブ・負けヒロイン」になってしまうことになる。
つまりは、べつの物語における「負けヒロイン」ばかりを集めたふつうのラブコメが展開されるわけだ。しかし、そうなると「負けヒロイン・オブ・負けヒロイン」たちにも「その後」があることになるわけで、彼女たちはまたべつの物語でだれかと出逢うのかもしれないと予感させるものがある……。それは、不快なことだろうか?
結局のところ、負けヒロインを負けヒロインのままにしているものは、負けヒロインがその後、他の男性と出逢う可能性すら認めようとしない「目に入る女の子は全員おれのものじゃないと気が済まない症候群」の結果であり、それこそがまさにエクストリームラブコメタイトルを生み出しているものでもある。
そこで描かれているものは、もはや、恋愛というよりはひたすらな自己愛であり、ヒロインたちは読者が自己投影する主人公を肯定するための「装置」にしか過ぎないのかもしれない、と思う。
くりかえすが、何といっても読んでいないので、批判することはできない。ただ、ぼくはこの「目に入る女の子は全員おれのものじゃないと気が済まない症候群」にひとつの限界を感じており、端的にいえばつまらないと感じるのである。
もちろん、ひとつの人間心理として、せっかくの可愛いヒロインが他の男にかっさらわれたらたまらない、というものはあるには違いない。しかし、そういうことが現実にありえるのが恋愛なのであって、その可能性を否定するなら、最終的にはエクストリームラブコメ的なものにたどり着いてしまうのではないだろうか。
ぼくは『無職転生』とか『異世界迷宮でハーレムを』みたいなハーレムものも嫌いではない。でも、一方でやはりそこにはある種のいびつさがともなうとも感じる。一概にいびつだから悪いというわけでもないが、他の可能性も見てみたいのである。
そういう作品は結局ヒットしないのかもしれない。だが、いつまで経っても「目に入る女の子は全員おれのものじゃないと気が済まない症候群」がくり返されるところを見ていると退屈に感じる。ひっきょう、他の多くの人もそう感じているからこそエクストリームラブコメからはヒット作が生まれないのではないだろうか。
だから、エクストリームとは少し違う方向に舵を切ったかと見える『負けヒロインは多すぎる』の大ウケにぼくは少し可能性を見る。何か違うものを見せてもらえないだろうか、と。少なくともいまの時点ではそう考えているのだが、いかがでしょうか。この話、いつか続きます。