小説家になろうにおける異世界は「異」世界ではなく異「世界」である。

 もうすでに一時的な流行は去ってしまった感もあるが、ソーシャルメディアではいまも「異世界転生」が話題である。その是非を巡ってきょうも不毛とも思える論戦がくりひろげられている。

 で、なぜ「異世界転生」なのかというクエスチョンに対しては、いろいろなアンサーが考えられるだろう。「氷河期世代」や「失われた30年」といった現実社会の事情に対応しているというのもそのひとつだし、あらゆる願いが奔放に叶う場所として「異世界」が要請されているという考えかたもあるはずだ。

 ぼくは、そういったひとつひとつのアンサーを否定するつもりはとくにない。ただ、時々、それらとはちょっと違う考えかたを思い浮かべることがある。つまり、もう「異世界」くらいしか冒険の舞台がないのだよな、と。

 かつて、神話の時代、世界は十分に広く、冒険の舞台にあふれていた。なぜなら、個々の人間の視野はあまりにも狭く、その外に何が広がっているのかだれも知らなかったからである。

 自分たちの視野の外にあるものは、ただ想像するしかない。したがって、その狭すぎる視野の外の全世界は冒険と物語の舞台になりえた。そうやって、ありとあらゆるヒーローたちの空想物語が紡がれたわけである。

 それはどこか遠い国を舞台にしていることもあったし、そもそも人里から遠く離れた場所で展開することもあっただろう。いずれにしろ、冒険することができる場所はいくらでもあったわけだ。

 それは都市文明が発達し、国家の版図がより広くなった後もそれほど変わらなかっただろう。たしかに、国内の事情はそれなりに知れたかもしれない。だが、どこか遠いところにはまだ恐ろしい怪物がおり、人跡未踏の魔境が広がっていると想像することはさほどむずかしいことではなかったはずだ。

 たとえば『西遊記』などはそういう時代の物語と見るべきではないか。つまり、一歩国境を越えれば、そこはまさに神秘の世界、なぞめいた国々が広がり、信じられないようなアドベンチャーの余地が十分にあると想像することが可能だったといえる。

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 しかし、それからさらに幾百年の時が経ち、近代に入ると、事情は変わってくる。どこか遠いところにある国々もしょせんはこの世の範疇にあり、怪物だの魔物だのはどこにもいないのだとしだいにわかってきたからだ。

 この時代にはたとえばヴェルヌの『八十日間世界一周』や『十五少年漂流記』といった物語が紡がれたが、それらはある意味では「世界が狭くなった」ことを前提とした作品だったといって良いだろう。

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 たった80日間で一周できてしまう世界! それはかつての神話時代の世界と比べてなんと狭苦しくなってしまったことだろうか。

 そこら辺りの事情は20世紀に入るとさらに加速し、世界各地に人間の目が行き届くようになる。もはや人の目がとどかない無人島やら大陸などもなかなか信じづらくなっていく。

 パルプフィクション雑誌にクラシックな異世界ファンタジーが多数あらわれてくるのは、このような時代である。もっとも、初期のヒロイック・ファンタジー小説は、超未来やら超過去が舞台であることも少なくなかったようだ。

 たとえば、ロバート・E・ハワードの有名な『コナン』シリーズや、クラーク・アシュトン・スミスの諸々のダークファンタジーは太古のアトランティス大陸が海に沈んだあとの時代やら、はるか未来の暗黒時代を舞台としている。

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 また、エドガー・ライス・バローズの『火星シリーズ』や、C・L・ムーアの『ノースウェスト・スミス』のように火星や水星が舞台となっている作品もある。この時代、まだそういった遠い惑星は、ある程度はどのようなふしぎな光景がひろがっているのかわからないものと考えることが可能であったのだ。

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 こういった遠い過去未来の世界や、火星水星といったところは、古典的な意味での「異世界」だといっても良いだろう。また、同じバローズの『ターザン』や『ペルシダー』シリーズのように、アフリカのジャングルやら、地球の内なる空洞世界を舞台とするパターンもある。

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 これらも、ようするに「異世界」のようなものだ。この時代はまだどうにか地球のどこかに「異世界」が存在することを想定できたのである。

 この流れはおそらく昭和の日本で小栗虫太郎の秘境ものへとつながり、栗本薫がそれらのオマージュとして『魔境遊撃隊』を書いたりするのだが、つまりは「いまではない時、ここではない場所」をこの地球というか宇宙のどこかに求めることが可能な時代だったということになるだろう。

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 しかし、さらにさらに科学が進み、遥かな過去や太陽系の他の星々についてまで知見が溜まって来ると、もうほんとうに「異世界」しか冒険の場所がなくなってしまったのだと思える。

 20世紀の後半にはトールキンのミドルアースやらルイスのナルニアやら、ル・グィンのアースシーやらが爆発的に読者を集める。そして、『ドラゴンランス』やら『氷と炎の歌(ゲーム・オブ・スローンズ)』やらを経ていまの「異世界もの」のブームに至っているわけである(『氷と炎の歌』の舞台はどこか遠い惑星なのかもしれないけれど)。

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 いまではあたりまえのものとなった異世界転生ファンタジーは、「世界が狭くなり、冒険するべきところがなくなった」結果として生まれてきたものだと思うのだ。

 もちろん、いまでも現実世界を舞台とした冒険ものがまったくなくなったわけではない。アーバン・ファンタジーなどというジャンルもあるようだ。

 だが、やはりほんとうに自由奔放な冒険を望むなら、どうしても現実世界は狭苦しくなってしまっていることもたしか。そういうわけで、どのような条件を好き勝手にさだめることも自由な「異世界」が望まれることは必然であったのだろう。

 このような「異世界もの」は、山本弘や野尻抱介といったSF作家たちからオリジナリティが欠如しているということできわめてしんらつな評価を受けたりしている。だが、その一方で鏡明や水鏡子といったSF界の重要人物がとても肯定的に受け止めたりもしているようでもある。

 つまりは、ネット小説的な文脈での「異世界」に真の意味での「異質な世界」を求めるかどうかで評価が異なってくるのだろう。

 ネット小説における「異世界」は、ひっきょう、「ほんとうに異質な世界」ではなく、そういったものをめざしてもいないというのがぼくの認識である。いわば、大切なのは「異(質さ)」ではなく「(冒険の舞台となる)世界」なのだ(この点、伝わっていないようだったので書き換えました)。

 「異世界」はあくまで異質でなければならぬ、オリジナルでなければならぬと考える人たちにとって、いわゆる「ナーロッパ」的な世界はいかにも物足りなく感じられるだろう(このあいだ騒動になった『大転生時代』の作家もあきらかにこの種の人物だ)。

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 だが、ネット小説における「異世界」は、もっと手軽に、カジュアルに冒険や日常を楽しめる「現実と地続きの世界」と捉えるべきなのだろう。

 それにもかかわらず、いちど死んで「転生」することがある種の作法として求められるあたりが趣き深いが、とにかくこれらの「異世界」はトールキンのミドルアースはもちろん、『ドラゴンクエスト』のアレフガルドとすら違う世界と見なければならない。

 それが良いことなのか悪いことなのかぼくには判断がつかないが、とにかくネット小説における「異世界」は、クラシックファンタジー小説における「異世界」ともまた異質なのだ。

 そこら辺の事情を無視して、「異世界転生もの」にクラシックファンタジーの魅力を求めるとおかしいことになる。ぼくはそう考える。

 神話の時代から幾星霜、世界は冒険の場所としてはあまりに狭くなり、ぼくたちは「異世界」へ引っ越すしかなくなった。そして、その「異世界」すらも初期のファンタジー小説の頃とは変質した。

 ネオフォビア的に「古くてなじみのあるもの」を是とするならネット小説など他愛ないごまかしの産物としか思えなくなるだろう。だが、そこにはやはりそういった表現を生み出すに至る必然があると考えるべきなのである。

 初めに書いたようにその必然性を社会情勢に求めるか、あるいは願望充足に求めるかは人それぞれではあるだろう。だが、ともかく、ネットの異世界小説は何らかの理由があって生み出されてきた「あたらしい表現」なのであり、古いロジックでそれを一刀両断にすることはできない。

 ここが、たぶん古いSFやファンタジーのファンにいちばん通じにくいところなのだろう。異世界ものは、クラシックファンタジーがそうであるような意味では、ファンタジー「ではない」のである。

 ぼくはそれはそれで良いと考える。いつかは、こういった「異世界」の魅力も完全に色褪せ、みな、どこかべつのところでの冒険を希求するようになるだろう。

 それはそういうものなのだ。いままでも続いてきたことが、さらに続くだけのこと。世界は狭くなり、異世界すらもいずれ手狭になる。そうして、ぼくたちはさらに見知らぬ場所をめざす。それで良いではないか。ぼくは、そう信じる。

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