正義の味方は男性の味方でも女性の味方でもありえない。

 このポスト、X(Twitter)を見ていてめずらしく「ほんとうにその通りだな」と思ってしまった。

 そう――「普通」という概念は、ときとしてまさに暴力である。何か、あるいはだれかを「普通」と捉えることは、必然に「普通じゃない」モノやヒトを生み出し、それらを「異常」な存在として見下し差別することに繋がるわけだ。

 たとえば、異性愛者が多数を占める社会では同性愛は「普通じゃない」セクシュアリティのかたちとして非難や嫌忌の対象となる。あるいは、学校出身者が多数である世の中では学校に通わない人間は批判される。

 いくらでも例が挙げられるだろうが、ぼくたちが生きている社会では少数派はたいてい肩身の狭い思いをするものなのである。

 もちろん、じっさいには「マジョリティ」と「マイノリティ」の区分はシンプルに数によって決まるわけではなく、権力の有無などが微妙に関わって来ることだろう。

 中世ヨーロッパの社会において王侯貴族はあきらかに少数派だったが、だからといってかれらが社会的弱者だったとはいえない。何らかの強大な力を持っていれば、たとえ少数派であっても大きな顔ができるわけだ。

 それでは、ここで例に挙げられている「オタク」はどうだろう? その表現でより立場の弱い他者を抑圧するマジョリティだろうか? それとも社会の「普通」にしいたげられるマイノリティだろうか?

 これはじっさい、微妙なところではあるだろう。たとえばこれが30年前だったら、あきらかに弱者としかいいようがなかったわけだが(まあ、これも認めない人もいるだろうとは思うけれど)、現在、オタクとオタク文化は一般化し、勢力を増し、「その場面によっては」多数派とかマジョリティといっても良い立場に立つことも少なくないだろうと思われる。

 しかし、急いで付け加えておくと、だからといって「いつも」強者として振る舞えるわけではない。時と場合によっては、やはり弱者とか少数派としかいいようがないことになるに違いない。

 何かの本で読んだのだが、人間のふるまいにはシミュレーションゲームでいうところの「地形効果」が働く。つまり、その場所が自分にとって適したところであるかどうかによって発揮できる能力が変わってくるのだ。

 したがって、常時明確な「マジョリティ」とか「マイノリティ」というものはいない。いい換えるなら、ある「属性」が「強者」か「弱者」か、「普通」か「普通じゃない」かもいちがいに決められないということになる。

 ぼくは現代の社会問題を考えるとき、最もクリティカルなポイントはここだと思う。

 たとえば、「女性」がいつでも明確に弱者であるのなら、女性の権利を回復することは当然の正義といえる。しかし、現代社会においては「つねに」男性が強者で女性が弱者だとはいえないだろう。

 おおまかに見たらまだ女性が弱者である場合のほうが多いかもしれないが、だからといって女性はいついかなるときも弱者であるとはいい切れない。

 もちろん、逆に男性がそういう意味での弱者だということもできそうにない。強弱はその時々の状況によっていくらでも変わりうる、したがって何が正義であるのかも無限に変わるのである。

 ネットで正義と正義がいつまでも果てることを知らない戦いをくりひろげる最大の理由もこのあたりにあるだろう。

 ある人は女性こそが弱者だといい、女性の権利を回復することが大切だという。またある人は男性こそが弱者なのであり、男性にとってより良い社会を実現することが必要だという。

 そのいずれもそれなりに説得力がある意見であるわけで、しかもどちらも自分の意見「だけ」が明確な正義であると考えている。これでは、折衝も和解もなしえるわけがない。

 だれもが自分(たち)は被害者のつもりで、不当な目に遭っていると認識し、正義と公正を求めているにもかかわらず、その認識そのものが対立しているのである。

 ロールズの『正義論』を読んだ人なら、有名な「無知のヴェール」という概念を知っているだろう。

著:ジョン・ロールズ, 翻訳:川本隆史, 翻訳:福間聡, 翻訳:神島裕子
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 ぼくもいちおう知っているのだが(むずかしくてよくわからなかったけどね!)、現実世界ではまったく無知のままで善悪や強弱を判断できることはまずありえない。どうしても「既知のバイアス」を通して人を見るしかない。

 だから、ロールズが考えたような意味での正義はいつまで経ってもなかなか実現しないようにも見える。ただただ、それぞれの人がそれぞれの「地形」における正義を主張し、対立と相克が深まっていくばかりなのである。

 オタクもそうだ。オタクはたいていの場合、自分たちを「普通じゃない」とみなされる「弱者」にして「マイノリティ」であり、「普通」な人たちから抑圧されているものと捉えるだろう。

 仮にこれは「その通り」だとしよう。だが、その憐れむべき身の上のオタクたちにしても、オタク性以外の属性をたくさん持っているわけであり、その属性においては加害者であったり、抑圧者であったりするかもしれない。

 あるいはもちろん、より現実的にはオタクという属性のまま、より弱い立場の人間を抑圧していることも十分にありえる。

 たとえば、こどもをもつ女性などがなにげなく「性的に思える内容の作品を子供に見せるのは不安だ」などとポストしたとして、尋常じゃない数のオタクが押し寄せて「表現の自由をわかっていない!」とか「子供の権利を抑え込もうとするクズみたいな毒親乙」などとリプライを寄せることは現実にありえることだと思うが、この場合、いずれが抑圧者でいずれが抵抗者なのか判断することはむずかしい。

 ぼくは「いつも」オタクが正しくて「フェミ」やら「社会学者」とみなされた側が悪であるというふうには考えないからだ。

 正義は時と場合によっていくらでも変化する。だれがより正義にあたいするとか、しないとかと固定的に考えることはできない。固定的に考えると、必ず党派性に行き着き、正義の実現から遠ざかっていく。

 しかし、現実には「男はみな暴力的な生きものだ」とか「女はだれもが卑劣で醜悪だ」といった固定的かつ党派的にわかりやすい言説を唱えることのほうがよほど安全だろう。すくなくともある属性の人たちはつねに味方でいてくれることになるのだから。

 だが、それはどうしてもそのつど変わる正義を無視することになる。正義の味方とは「その場合における正義」の味方なのであって、ある固定的な立場、たとえば男性の味方でも女性の味方でもあるはずがない、あってはならないのだ。

 ある男性が不当な目に遭っているときはその男性の味方になり、べつの女性がひどい目に遭わされているときはその女性の味方になるのが真の正義の味方なのであって、常時、特定の属性の味方になることはほんとうは正義に反する。

 もっとも、このような意味での正義を貫き通すことは生身の人間にとってひじょうに困難なことで、正直、ぼくも実践できるかどうかわからない。というか、たぶんできない。

 人間はどうしても自分に近しい属性に親しみを感じ、遠い属性には不信を覚える。パーフェクトに中立な立場を維持することはそうかんたんなことではないのだ。

 アニメやゲームで『Fate/stay night』を体験した人は、あの物語のなかで「正義の味方」を実現しようとした若者がどのような目に遭ったのか、記憶していることだろう。正義の果てに待つものは孤高である。

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 「正義の味方」は正義「だけ」の味方なのであって、「だれかの味方」ではありえない。だから、その傷つき、苦しんでいる「だれか」にとっては完全に信頼できる相手ではないのである。

 そう、結局のところ、「正義の味方」は孤独だし、孤独でなければならない。それこそ、自分を「普通」とみなし、「普通じゃない」ものを見下すことが許されないのが正義を貫くことなのだから、いつまで経っても「普通であることのしあわせ」は手に入らないわけである。

 さて、ぼくたちはあくまで「正義」に味方するべきか、「特定の属性」の味方であるべきか。現実的には後者であるべきだろう。どう考えても、前者の道はあまりにもけわしい。

 それでも、あくまで「正義だけ」を貫くべきだと考えるなら――ぼくもいちおうはそうなのだが――どこまでも個々でやり抜くしかない。

 群れて、党派性のとりことなった瞬間に正義は死ぬ。ほんとうに正義を実現したいなら、右からも左からも石が飛んでくるいばらの道を覚悟しなければならない。正義とは、とにかくそういうものなのだ。

 ぼくは、それでもやっぱり自分が信じていることを実現したいけれどね。

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