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好きなことを好きなだけ好きなように続けられるやりかた教えます。

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 また、

 それでは、記事へどうぞ。

【本文】

 先ほど、坂口恭平さんの新刊『生きのびるための事務』を読み終えた。面白かった。

 いや、これはじっさい、すごい本だと思う。すごすぎて、一読しただけでは全容が把握し切れない。

 というか、何かすごいことが書かれていることはわかるんだけれど、ほんとうにすごいのか? それともただのハッタリなのか? それすらもはっきりわからないままこの文章を書いている。

 坂口さんの本はいずれも独創的で鋭い発想に満ちているのだが、そのなかでもこの本はきわめつけだ。若き日の坂口恭平が架空の友人「ジム」に導かれて「事務の方法論」を学び取っていくさまがマンガのかたちで描かれている(マンガを描いているのはべつの方)。

 「事務」とはなにか? この本では「事務」の具体的な内容がふたつ挙げられている。「スケジュール管理」と「お金の管理」だ。

 つまり、この本は「適切にスケジュールとお金を管理するやりかた」を解説している話であるといえる。そして、「適切にスケジュールとお金を管理できればあなたは望むように生きられますよ」といっている。

 あたりまえといえば、あたりまえのこと。この本のことを 「一般社会人の当たり前を噛み砕いて説明している」とわりあい否定的に捉えているAmazonレビューがあるが、気持ちはわかる。じっさい、ここで書かれていることは、見方を変えればあまりにも「ふつう」で「あたりまえ」のことではある。

 ジムが早稲田大学を卒業したばかりの坂口恭平に教えることはとてもシンプルだ。自分が望む人生を生きるためにはお金とスケジュールの管理が大切ですよ。芸術家だろうが何だろうがそこのところをおろそかにしては成功できませんよ。これだけ。

 それでは、そんな本のどこが面白いのだろうか。まず、「成功」の中身が違う。一般的なビジネス書などでは、「成功」とは、たくさんお金を稼ぎ出すことだったり、高い地位に登ったりすることだったりするわけだが、この本ではあくまで「自分が望んだとおりに生きること」である。

 より具体的には「なるべく好きじゃないことをする時間を取らないこと」。

 この本のなかで、ジムは「好きではないけれど生存と生活のためにしなければならない行動」を「労働」、「自分がほんとうに心からしたい作業」を「仕事」と呼んでいる。で、「労働」をなるべく減らし、「仕事」に時間を使いたいと望むのならということで「事務」を奨めるわけだ。

 まず、スケジュール。坂口に「事務」を教えるジムは、「10年後にそうなっているべき現実」をノートに書いて、じっさいにそうなるように行動すれば良い、という。これ自体はいかにも自己啓発的というか、よくある発想であるように思えるだろう。

 しかし。ジムの場合は、あくまでその目的は「自分がほんとうにしたいことをして生きられるようになること」になる。世間(というまったくわけがわからないような存在)からの「評価」は問題ではない。あるいは少なくとも二次的な問題でしかない。

 したがって、ジムは「事務の世界には失敗がない」と語る。

 この言葉をどう受け止めたら良いのかは少しむずかしいところだ。たとえば、「10年後に1000万円稼げているようになりたい」と望んで、そうなれなかったら、それは「失敗」ではないのだろうか。

 どうもそうではないらしいのである。そもそも、目的が「自分がほんとうにしたいことをして生きられるようになること」なのだから、「ほんとうにしたいこと」をしているかぎり、それは失敗ではないということになる。

 収入が1000万円にならなかったのはたしかに残念なことであるかもしれないが、本来の目的を考えるのならべつだん失敗ではない、と。

 つまり、ほんとうに問題なのはあくまで「好きなこと」ができなくなっているときなのである。そして、「事務」を実行しているかぎり、つまり「好きなこと」をしようと行動しているかぎり、そのような状況に追い込まれることはありえない。だから「事務」に失敗はない。そういうことなのだろう。

 ここで確認しておこう「事務」とは「好きなこと」をやりつづけるための方法論である。そして、ここは重要なところだが、「好きなこと」で「評価」を得て「金銭」につなげるための方法論「ではない」。

 「評価」や「金銭」はあくまで「労働」の問題、つまり「生存と生活のために必要な行動」の話であって、「事務」の目的である「仕事」とは本質的に関係ないのである。

 「事務」はあくまで好きなことを続けてやれていればそれで成功なのだ。

 だれかから認めてもらえたとか、あくまでその目的をより良く達成するための過程である程度は必要になることもある事項なのであり、いってしまえば些末な余事に過ぎない。

 だから、「事務」を行うなら、だれでも、坂口恭平のような才人でなくても、「好きなことをして生きていく」ことができる。理屈で考えるならそうなる。

 しかし、そうはいっても、こういう本が出ると、必ず「あいつは才能があるからできたんだ」という批判というか意見が出てくる。「これは坂口恭平というとくべつな才能もち主だからできることなんであって、凡人はマネしちゃいけないんだよね」と。

 たとえば、Amazonの「全く別の視点」というレビューではこういうことが書かれている。

まあ、こんなうまくいくわけないよなーと思ってしまうから、私はダメなんだろうなと思いながら読了。でも今のシステムの中でどうしようもなくキュウキュウしている時、この視点は、魅力的かも。まずは好きな事を見つける事からだね。

 そうだろうか? たしかにそう考えたくなることはわかる。この本のなかの坂口恭平はあまりにもトントン拍子に成功していて、まるで子供向けのお伽噺か何かの主人公のよう。「ふつうはこんなふうには行かないのではないか」という疑問が湧いて出て来るのは、むしろ自然なことだといえるかもしれない。

 でも、ぼくはそういうことじゃないんじゃないかと思うのだ。先述したようにぼく自身、まだこの本を完全に理解できているとはいい切れないのだけれど、そもそもこの本はよくある自己啓発書のように「これが成功するための正しいやりかただ!」といっているわけ「ではない」と思う。

 そういう読み方はこの本を読み違えている。つまり、ここで描かれている具体的な成功のプロセスは単に「坂口恭平の場合はこうだった」というある種のサンプルケースであるに過ぎず、「事務」の本質ではないのだ。

 たとえばぼくの場合はぼくなりの「事務」があるわけで、「事務」の内容は個々の具体例においては千差万別であると捉えるべきなんじゃないか。

 それでは、個々の具体的なケースを超越した「事務」の本質とはなんなのか。かなり頭をひねって考えてみたのだけれど、「具体的に考え、行動する」ということなんじゃないか。いや、違うな。むしろ「現実的に考えて、行動する」といったほうがわかりやすいかもしれない。

 ただし、この表現も誤解をまねくところがある。この「現実的」とは「妥協して目標設定を下げること」ではない。あくまで「思い込みに左右されず明確なファクトを基準にしていること」を意味している。

 そもそも、ひとは大方、現実を正確に認識することができない生きものである。その判断は「感情」に左右され、「偏見」や「思い込み」や「固定観念」に曇らされる。

 換言するなら、多くの場合、ひとはいわば「思い込みという名の仮想現実」のなかに生きているわけである。この「仮想現実」から出て、ほんとうの意味で「現実的」に生きる、それが「事務」なのだと思う。

 ぼくたちは何か「好きなこと」をしようとすると、自分からのものも含めたさまざまな「評価」にさらされる。そういった「評価」はしばしばきわめてあいまいなものではあるが、人の「思い込み」を強化する方向に作用する。

 つまり、人間の「現実認識」を歪めるのである。自分や他者のネガティヴな「評価」を受けると、人は思わず立ち止まる。行動をやめてしまう。

 じっさいには、それらの「評価」は固定的なものではないのだが、それでもやはりだれかに低く「評価」されるとつらい。だから、ほんとうなら続けるべき「好きなこと」を中断してしまう。これは「事務」そのものの中断だ。

 ぼくたちはだれかの「評価」とはあくまであいまいで、不確定なものなのだとわきまえるべきだ。ネガティヴな評価を受けたとしても、そのことで「好きなこと」をやめてしまう必要などないのである。理屈の上では。

 ただ、否定的な「評価」をもらうと、人の心にはどうしても「不安」が生まれる。で、「不安」になると人間は「不確定」な現実を「確定」させたがる。いい換えるなら「安定」を求める。そしてその「安定」のためにわざわざ「好きでもないこと」を選んでしまう。

 そうして「好きでもないこと」ばかりやりながら、「これが大人になるってことなんだよ」などとうそぶいたりするようになってしまうのだ。

 これはやはり「事務」からの逸脱である。「事務」には失敗はないわけだが、この場合は「事務」そのものを放棄してしまっていることになる。

 べつのいい方をするなら、「事務」とは「不確定」なままでも「不安」に陥らずに行動しつづけるための「具体的な実践」のことなのだ。

 「不安」は「他者からの評価」がそもそも不確定であるところにきざす。いつまでも才能を認められずに一生を終えたらどうしよう?とか。これはいちど成功してもいつまでもつきまといつづける。「評価」はいつ変わるとも知れないからだ。

 しかし、「事務」を続けるかぎり、あくまで「好きなこと」の継続そのものが目的なのだから、そういった「評価」は関係ないことになる。したがって「不安」になる必要はなくなる。そういうことなんじゃないかなあ。

 たしかに、本書の後半で、坂口は立て続けに他者の「評価」を獲得し、「成功」しているように見える。これはだれにでもマネできるということではないのはたしかだろう。

 だが、ここが勘違いしやすいところなのではないかと思うのだけれど、それは「労働」が成功したということに過ぎないのである。坂口にとってより本質的な「仕事」、つまり「好きなこと」は、他者からの「評価」をあおぐまでもなく初めから成功しているのだ。

 もちろん、その「労働」の成功も、偶然だとか、たまたま才能があったからうまくいったとかではなく、「不安」というファジィな感情から解放された状態で、「合理的な選択肢」を具体的に、現実的に実行したから成立したという側面はある。

 「事務」とは「不安からの解放をめざして具体的に考える」ための方法論なのだから……。

 世の中には、たとえば小説家になりたいのにまったく小説を書いたことがないという人がいる。

 なぜそうなるのかというと、書いた瞬間に自分の実力を思い知らされ、「不都合な自己評価」や「否定的な他者からの評価」と向き合わざるを得なくなるからである。何もしなければ、失敗もせずに済む。

 しかし、こういう状態は「事務」から最も遠いものであるといえるだろう。「事務」はどこまで行っても「具体的な実践の方法論」なのだ。だれにでもできるし、失敗することはないが、だれもがやらないのはそういう理由がある。

 小説家になるためには、小説を書くこと。というか、「事務」においては「小説を書くこと」そのものが目的なのだから、書きつづけさえすれば成功である。

 「その小説作品の評価」が必要になる場合はたしかにあるが、それは「労働」の問題に過ぎず、「事務」において真に重要な「仕事」とは関係ないことなのだ。

 ただ、「継続は力なり」だから、「仕事」を真剣に続けるなら、「評価」も高くなる可能性が高い。少なくとも、「不安」に足を取られて歩みを止めてしまうよりは。まとめるなら、そういうことになるだろう。うん、どうにか整理できた。伝わっただろうか?

 このようなことを書くのは、ぼくが長年、「事務」とは真逆のことをやってきたからだ。現状で「好きなこと」をやりつづけられているのに、「普通」になりたいと望み、「安定」をめざした。

 その結果、右往左往してあちこちへ出向き、そのすべてで「失敗」した。せめてもの幸いは、「好きなこと」、つまり自分の「ほんとうの意味での仕事」をやめなかったことだろうか。

 そのくらい、ぼくは「書くこと」や「読むこと」が好きだったのだろうが、それにしても「事務」からほど遠い生き方をしてきたものだと自省する。これからは、ぼくも「事務」を実践し、「好きなこと」に集中しよう。

 「普通」はもう、あきらめるしかない。どのみち、心から「普通」になりたいわけではなく、ただ「不安のない生き方」をしたかっただけなのだから。

 「不安」は「いま、自分が正しい生き方をしていない」と感じるところに根差す。「事務」を実践しつづけるのなら、「不安」から解き放たれることが(だれでも!)できるはずだ。

 これが、ぼくがこの本から学んだ「好きなことを好きなように続けられるやりかた」である。素晴らしいと思う。いってしまえば「好きなことを続けたいなら、続ければいいじゃん」といっているわけで、実も蓋もないものの、真実であり正論なのではないか。

 問題は、なぜぼくたちはしばしば「好きなことを続けるなんてできない」と思い込んでしまうのかということだが――つまりはそうやってひとを「洗脳」する悪魔のような圧力がこの世界には存在するということなのだろうなあ。あるいはその悪魔とは自分自身のことなのかもしれないが。

 じつに考えさせられるテーマである。あなたは、どう思われるだろうか。

目次

【さいごに】

 最後までお読みいただきありがとうございます。

 オタク文化の宗教性について考える電子書籍『ヲタスピ(上)(下)』を発売しました。その他、以下すべての電子書籍はKindle Unlimitedだと無料で読めるのでもし良ければそちらでもご一読いただければと思います。

 それでは、またべつの記事でお逢いしましょう。

 

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