本日公開ながらすでに話題の大作映画『ゴジラ-1.0』を見てきました。
色々と思うところのある作品ですが、まあ、結論からいってしまうと、ふつーに傑作ですね。
予告編の段階でもう印象的な仕上がりを垣間見せていたVFXは凄まじく、強烈な殺意を持って襲ってくるゴジラはまさに恐怖そのもの。
基本的には第一作のオマージュらしき描写が頻出するもの、そこまで『ゴジラ』にくわしくないぼくでも十分に楽しめる間口の広さは山崎貴監督作品ならではでしょう。
庵野秀明監督によるシリーズの前作『シン・ゴジラ』が尖りに尖りまくったエッジの利いた大傑作だったあとなので、常識的に考えて相当の作品を撮らないといけないプレッシャーがかかる環境だったわけですが、山崎監督はみごと仕事を成し遂げたと思う。
いまの日本でこの条件でこれだけの作品を生み出せるのはこの人だけなのでは。
いわゆる口うるさいシネフィルからは揶揄されたりあなどられたりされがちなエンタメ畑の人なのですが、ぼくはめちゃくちゃリスペクトしています。本物のプロってこういうことでしょ。
というか、この人、一年か二年に一本という驚異的なペースで精緻なコンピューター・グラフィックスを駆使したアクション映画を撮りまくっているんだけれど、仕事量はどうなっているのだろう。
そもそもこの映画の特撮部分は10億とか20億で撮れる映像にはまったく見えないのだけれど、どうして日本市場でペイする予算でこれだけの映画を撮れてしまうのか。
映画館で座席に座って文句をいうだけならぼくのようなアマチュアにもできるけれど、プロフェッショナルは限られた条件のなかで最善の作品を生み出さなければならないわけで、ほんとうに大変だと思います。
いうは易し。行うは難し。
まあ、最近、毒舌ドSキャラの本領を存分に発揮している庵野さんにいわせれば「まだぬるい」らしいのですが、それは業界を代表するトッププロ同士の、いわば雲の上の会話。
ただのシロウトのぼくから見ればもう凄いとしか思えません。
ていうか庵野さん、後進のクリエイターの活躍のためにツッコミどころがどうこうとかいわないでください(笑)。
わかるけれど。いいたいことはわかるけれどね! 公開前なんだからさ!
「やかましいわ!」とツッコミを入れつつ鷹揚に笑って済ませる山崎監督、できた人だわ。好き。
そういうわけで非常に面白い映画で、4DXで見れば良かったかもしれないと後悔しているくらいなのですが、『シン・ゴジラ』とはまた違う意味で賛否が分かれるかも。
まあ、山崎監督の映画は、庵野監督の映画とはまた違う意味でいつも賛否両論なのだけれど、今回もやっぱりそう。
さすがにこのレベルの映画を撮って『ゴジラ』ファンから文句をつけられる筋合いはないと思いますが、でも、人の好みはそれぞれだからなあ。
ただ、相当の時代性をともなった作品でもあり、山崎監督にとっては『ALLWAYS』や『永遠の0』にもつながるいままでの集大成的なフィルムだといって良いと思います。
迷っている人は観に行きましょう。ぼくがリスペクトする映画評論家のノラネコさんもめったに出ない満点をつけています。
ちなみに、あした、おそらく午後8時か9時ごろからYouTubeでこの映画について語り倒す予定なので、すでに観賞された方はそちらもチェックなさっていただければ。面白くなると思いますよ。
そういうわけで、以下はネタバレです!
最初から最後まで完全に語り通すので、未見の方はまちがえても読んではいけません。よろしくお願いします。
……わかった? それでは、ここからネタバレします。
さて、この映画、CGなどの描写は文句なしによくできているというか、予算を考えると驚異的なクオリティに達しているので、批判が集まるとすればドラマパートのほうでしょう。
神木隆之介演じる本作の主人公は乗機の故障と偽り特攻から逃げてひとりだけ生き残った男。
いわば死んでいった仲間たちの亡霊を背負って戦後を生きているという人物です。
戦後にありながらまだ戦争は終わっていないと感じているかれは、家に居ついてしまった女性と子供に愛情を感じながらも結婚に踏み切ることができません。
いってしまえば特攻という狂った軍事ロマンティシズムの結晶ともいうべきストーリーに乗れなかったことをそのあと長く悔やんでいるのがこの敷島だということもできるでしょう。
かれにとって南方の島で偶然に遭遇したゴジラは「戦争そのもの」の象徴です。
敷島は今度こそ戦争を終わらせるべく、とうてい勝ち目がないとも見えるゴジラに対し自己犠牲的な姿勢で立ち向かっていくことになります。
ここまではいわば王道のストーリーなのですが、この作品で賛否が分かれそうなのは、その敷島が最後に特攻を決めて散ることなく飛行機から脱出して生き残ってしまうことでしょう。
映画のテーマを考えるとある程度は予想ができる展開ではあるのだけれど、どう考えても脱出する時間があったとは思われないわけで、ご都合主義といえばいえなくもない。
最後にヒロインまでがなぜか生き残っている点も含めて、批判する人はいるかも。
ただ、同時にこれは必然の展開でもあると思うんですよね。
この映画はあきらかに戦争における「散華」を美化して描く軍事ロマンティシズムと一線を引いている。
主人公がゴジラへの特攻で死なないこともそうだし、「わだつみ作戦」において「ひとりも死なせない」ことが目標に置かれることもそうです。
ここら辺は、だったら対ゴジラ戦で「今度こそ仕事ができる」ことに喜びを見いだす人たちを肯定的に描いたり、「わだつみ作戦」のプロジェクトそのものを盛り上げたりするな、思想的に中途半端じゃないかという人もおそらく出て来るだろうけれど、「だれかが貧乏くじを引かなくちゃならない」状況で、自分がそのくじを引くことを選択する自己犠牲の心理そのものはやっぱり気高い精神ではあるんですよ。
これは『鬼滅の刃』あたりの描写に相通じるところがあるので、時代的な背景があるといって良いでしょう。
おそらく「右傾化」という表現で語る人もいるんじゃないかな。
そして、それはある程度はまちがえていない。
何もできない国から見捨てられた主人公たちは自分たちだけでゴジラを斃そうと試みるわけで、ここには国家への信頼が徹底して欠損していると見ることもできますが、かれらが何のために命をかけてゴジラと戦うかといえばそれはやっぱり家族や恋人、友人など自分の愛する人たちを救うためであるわけで、それはやはり「国家」というマクロへとストレートにつながっていく一面を持っていると見るべきなのではないかと思います。
その意味ではたしかに「右翼的」。
この展開には、百田尚樹原作による山崎監督の過去作『永遠の0』のクライマックスが「戦争賛美」だとして批判されたことを思い出さずにはいられません。
ところが、何度も書いたように今回、主人公は死にません。大量の爆弾を積んでゴジラへ特攻する飛行機から現実的にはいささか無理がありそうな方法で離脱し、生き残ってハッピーエンドを迎えるのです。
これは何を意味するのか。
ぼくにはあきらかに「自分の命を犠牲にしても国を守らなければならない」という右翼的な理想と、「国家など信用ならない。人の命は何よりも尊い」という左翼的な理想がギリギリの線でせめぎ合った結果として生まれた結末であるように思える。
そもそも、太平洋戦争で散々行われた軍事ロマンティシズムの賛美の背景には、「男らしさ」、それもフェミニストなら「有害な男らしさ」と呼ぶかもしれない暴力的ともいえるジェンダーのストーリーがあります。
ぼくはそれを「男の子の物語」と呼んでいるのですが、そういった「男の子の物語」には「女子供を守り抜いてかっこよく死ぬこと」を美化する一面がふくまれている。
戦後のエンターテインメントでもそういう展開は枚挙にいとまがないほどあると思いますが、ぼくが思い浮かべるのはたとえば永野護『ファイブスター物語』で、ふだんはふざけている星団最強の剣聖ダグラス・カイエンが忠誠を誓う姫君であるムグミカを守り、彼女とともに、その胸に抱かれて死んでいく場面です。
これはある意味、「男の子」の理想の死に方といっても良いんじゃないか。
ぼくもひとりの男性として、こういう死に方はかっこいいなあと思うところが多分にある。
司馬遼太郎や田中芳樹の小説を読むときもよく感じるのですが、男の子の物語の背景にはこういったある種のタナトスのテーマが確実にあり、それはおそらくどこかで石原慎太郎的なニヒリズムへと連続している。
それはフェミニストから見れば「有害」と見られることもありえるものなのでしょう。そのことはわかる。べつだん、そこまでまちがえているとも思わない。
ただ、そういった死を美化する「有害な男らしさ」の物語は一方でいわば「有益な男らしさ」にもつながっているわけです。
「男らしさ」がすべて有害なだけのものだったらそれを捨ててしまうだけで良いけれど、「男らしさ」がなければ困る場面もまた色々とありえる。
たとえば『バガボンド』あたりもそこら辺で苦悩した結果、進行が止まっているように思うのですが、その「男らしさ」が求められる場面の極北が戦争であり国防です。
あるいは戦争はすべて愚かな行為なのかもしれませんが、現実的には他国から侵略されたら軍事的に国を守らなければなりません。
他国からの脅威が単に想像上のものだった過去には一切の「右翼的な男らしさの物語」を否定し拒絶すればそれで済んだかもしれませんが、いまとなってはもう済まないことはあきらかです。
少なくとも社会のそうした「右傾化」を単純に悪とみなして攻撃するだけの言説にはもう説得力がないと感じる。
まあ、一部のダメ左翼(一部じゃないかもしれない)は、いまでもそうした状況の変化を認めず、あいかわらず「人が死ぬ戦争はとにかく絶対悪」、「国を守るための軍事技術や組織も悪」という態度を墨守しつづけているわけですが。
たとえばウクライナ戦争に対する左派の親ロシア的とも受け取られかねない発言の数々は、そうした矛盾を表わしたものだといって良いでしょう。
とにかく左派としては、国防やナショナリズムを肯定するわけにはいかないので、国を守るため必死になって戦っている人たちを「権力者にだまされているバカ」のように見るしかないわけです。
しかし、一方で国が亡んだら人権も生命もあったものではないことも認めるべき事実。
これはまともな思考力を持って現実を直視できる人間ならだれもが認めることのはず。
まあ、左派的な平和主義と個人の人権を絶対視するストーリーはもうほとんど通用しないといい切って良いのではないかと思うのです。
ですが――ここでも「ですが」と続けるわけですが、だからといって戦前の愛国主義に戻るわけにはいかないことも当然です。
なんといってもわたしたち日本人には太平洋戦争の反省がある。あの戦争のような惨劇をもう一度起こしてしまうようでは愚劣としかいいようがありません。
つまり、従来の左翼的なイデオロギーでも、右翼的なイデオロギーでも簡単には割り切れない困難な時代をぼくたちは生きている。
そこでは単純に「こうすれば良い」という単純な解は見いだしようがありません。
シンプル・イズ・ザ・ワースト。
そしてまた、いま、「女子供を守るために自分を犠牲にする」というタナトスに染まった「男の子の物語」も変わらざるを得ない。
そもそも、神話の時代から英雄(ヒーロー)とは共同体を守る存在でした。
そこら辺は「ヒーローズ・ジャーニー」などと呼ばれ、『スター・ウォーズ』などの映画を通して現代まで続いている展開であるわけですが、ある共同体を守ることは即ち外敵に対して非情でなければならないことを意味します。
ある意味では世界を「敵」と「味方」に分け、「味方」だけを守るのがヒーローだといっても良いかもしれません。
海からやって来るゴジラは海洋国である日本人にとってまさに「外敵の象徴」なのだと思いますが、ふつうに考えればゴジラシリーズのような映画では、主人公はゴジラを斃すことによって共同体を守らなければなりません。
国を守るため、命がけで、戦う。
そこにはどうしようもなく「右翼的な男の子の物語」のにおい(匂い? 臭い?)がただよい、その結果、『シン・ゴジラ』ほどの傑作であっても左翼的な思想の評論家からは批判されました。
国家や国防を美化している、というのです。
ぼくはその説には乗りませんが、そういう話が出て来ることはわかる。
そして、『ゴジラ-1.0』です。
そういう視点を通して見ると、この映画一作を通して描かれているのは、いわば右派と左派の、タナトスとエロスの、大義に殉じる美しさといのちを守り抜く尊さの、その苛烈なせめぎ合いであることがわかってくる。
その衝突を「中途半端」と見ることもできるでしょう。ですが、あえて極端によらずしてギリギリのバランスを取ろうとしたことはやはり素晴らしいと思う。
これこそ現代的なゴジラ映画というもの。それを徹底したエンターテインメントの形で描き抜いてしまった山崎監督は(たとえシネフィルからは嫌われても)やっぱりすごい。そうとしかいいようがない。
庵野さんのような天才肌の作家とは違うかもしれませんが、現代日本のトップクリエイターと見てまちがいないのでは。
そういうわけで、『ゴジラ-1.0』、ぼく的には今年指折りの傑作なのですが、まあ、気に喰わないという人もいるでしょう。
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