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歴史とは何か、答えはここにある! 『T・Pぼん』を見て『すずめの戸締まり』を思うとき。

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【ある日とつぜんタイム・パトロールに!】

 Netflixでアニメ『T・Pぼん』を観ている。天才漫画家・藤子不二雄の「隠れた傑作」、ひさびさの映像化だ。

 「隠れた」とはいっても、そこは藤子作品なので知っている人は知っているわけだが、『ドラえもん』や『パーマン』のようなスーパーメジャー作品に比べれば相対的に知名度は低いだろう。

 第一シーズンは1話約30分×12話で、なかなかボリュームがある。内容も想像していた以上にシリアスかつヘヴィで、見ごたえ十分といって良いだろう。まだ観終わっていないけれど、Netflixを視聴可能な環境にある人にはオススメの一作である。

 物語は、ある何もかも平凡な少年「凡(ぼん)」がささやかな偶然から時間を管理するT・P(タイムパトロール)の一員となるところから始まる。

 『ドラえもん』にもしばしば登場するT・Pだが、この作品の場合は 長い歴史の陰で不幸にも命を落とした人々を救い出すことを主な目的としているようだ。

 かれらは沖縄戦の日本やら古代のエジプトやら、人類史における色々な場所へ赴いて目的の人物を助ける。

 ただし、同時にT・Pの活動時は「航時法」によって厳密に管理されている。その命を救うことで歴史に大きな影響を与えるような人は救出できないし、直接、ターゲットへ物理的に干渉することも不可能。くりかえし同じ時間に飛ぶことも禁止されているらしい。

 つまり、ぼんたちは目的の人物にどうにか間接的な影響をほどこしてその運命を変えなければならないわけで、毎回、どうやってその人を救えば良いのか、知恵を絞ることになる。

 いくらT・Pの一員になったとはいえ、基本的には凡庸な少年であるに過ぎないぼんや、ヒロインのリームなどがひとりの人間の命をかけて展開するその作戦の数々が面白い。

 まあ、幾千年の歴史のなかで、そこで死んだはずの人々の生命に干渉しているのだから、色々とめんどうなタイム・パラドックスなどが起こりそうなものだが、そこら辺はあまり深く考えずに見たほうが良さそうだ。

 その一点の疑問を除けば、ハラハラドキドキ、サスペンスフルな話が続く出色の傑作エンターテインメントである。いや素晴らしい。

 ちなみに元ネタはたぶんポール・アンダースンの古典SF小説『タイム・パトロール』。こちらも歴史を管理する時間警察の活躍を描く、楽しい作品だ。

 まあ、いまから読もうという人はほとんどいないだろうと思うけれど、ちょい役でシャーロック・ホームズが出て来たり、ついに歴史が根本的に改変されてしまったりと、なかなか面白い展開が読ませる。ちょっとオススメ。

【なぜ歴史を変えてはいけないのか?】

 それにしても、『T・Pぼん』を見ていると、そもそもなぜ歴史を変えてはいけないのだろう?という、いわば究極の疑問に突きあたる。

 歴史上の悲惨な最期を遂げた人間をひとりひとり救っていくくらいなら、そもそもその「悲劇的なできごと」をなくしてしまえば良いではないか。

 もちろん、ある個人の欲望に従って恣意的に歴史を変えることは問題かもしれないが、たとえば戦争や虐殺、災害といった諸々の問題を解決し、「より良い歴史」を生み出すことは悪くないようにも思われる。

 いったいどうして歴史を管理するタイム・パトロールが必要なのだろう? この問いに答えることは、案外むずかしそうだ。

 いってしまえば、「歴史」とは何なのかということである。どこまでがマクロな「歴史」で、どこからがミクロな「人生」なのか。個々人の人生を変えても良いのに、巨大な「歴史」の流れを変更することが許されない理由は何かあるのか?

 単なる物語のご都合主義といってしまえばそれまでだが、ライトなコメディが多い藤子作品とも思えないダークでシリアスなストーリーだけに、考え込んでしまう。

 ただ、どう考えてもひとつひとつの人生は歴史のグランドストーリーと密接にかかわっているわけで、そこに完全に整合した説明が可能だとは思えない。

 問題なのは、「なぜ過去を大きく改変することが許されないのか」ということだろう。これに関しては、『魔法先生ネギま!』が詳細に検討を試みていて面白かった。

 この物語のなかで、主人公のネギは未来からやって来て歴史を変えようとするひとりの少女と対決する。しかし、彼女は決して私利私欲で過去を変えたいわけではなく、その背景には何十億もの人の命がかかわるある壮絶なできごとがあるのだ。

 ネギはその事実を知り苦悩しながらも、あくまで自分たちの世界を守るために、彼女に抗う。はたして、かれの判断は正しかったのだろうか?

 それはわからないが、ぼくには「歴史を守ること」に与したかれの気持ちが良くわかる。ある歴史をメタ視点から「良いほうに」変えようとすることは、それ自体がひとりひとりの人間がどうしようもなく無力でありながら試みたひとつひとつの決断に対する侮辱である。

 その上、それ以前に、「良い歴史」とは何なのか? そのようなものが存在しえるのだろうか? そんなことも思う。

 そう、人間の歴史とは「良いこと」と「ひどいこと」が連綿と繋がりながら織りなされるひとつの巨大なタペストリである。その「ひどいこと」を修正したなら、「良いこと」もまた生まれなくなるかもしれない。

 たとえば、東日本大震災は日本近代の歴史でも最大級の惨禍ではあるが、それなしでは出会わなかった人々がおり、生まれなかったいのちがあることもたしかなのだ。

 そのことを思うとき、「良い歴史」、「正しい歴史」というものがありえるのかは限りなく疑問だ。

【「正しい歴史」は存在しない】

 仮に何らかの大虐殺や大震災を「修正」して、「より良い歴史」、「より正しい歴史」を生み出したとして、そこでは生まれないいのちがあり、紡がれない運命がある。

 そう考えれば、何が正しく何がまちがえているのかを高みから決めつけて世界の歴史を変えてしまうことはいかにも傲慢に思われる。

 つまりは、歴史とはその部分部分を取り上げて「良い」とか「悪い」といい切ることができない総体としての何かなのだ。

 人の世で起こること、そのすべては正しく、またすべては誤っているということもできるだろう。歴史のある箇所で起こった事件の是非を問うことはできても、歴史そのものの善悪をジャッジすることはできない。ぼくはそう考える。

 新海誠監督が『君の名は。』でまさに歴史の修正を描きながら、そこからさらに思索を続けて、ついに『すずめの戸締まり』に至ったのはそういうことなのではないだろうか。

 人の世界を彩る苛烈な運命、不条理な人生、理不尽なできごと――しかし、ひとりの人間にとって害悪にして災厄としか思われないそれらもまた、あるいはどこかで歓びや幸せに通じているかもしれないということ。

 そういうふうに思うと、ほんとうに何が正しく、何がまちがえているのかわからなくなる。

 きっと、世界はそういったひとまとまりになった混沌なのだ。人はそのひとかけらだけを見て善と思い、悪と感じるけれども、ほんとうは個々人の認識能力を超えたところで、何もかもすべては連なっている。

 その認識は、おそらくこの壊れた世界と和解するキッカケになりえるのではないだろうか。ぼくはいま、そういうふうに考えているものなのである。違うだろうか?

「この、くそったれな世界に、精一杯の愛をこめて。」

【さいごに】

 最後までお読みいただきありがとうございます。

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