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「表現の自由」問題はポイント・オブ・ノーリターンを迎えている。

 しばらく前にあるテレビアニメで放映された「レイプシーン」を批判するツイートを読んだ。

 もっと長く続くのだが、引用はこれくらいにしておこう。

 内容に全面的な賛同はしないが、議論の起点として面白いと思うので、以下、同意できるポイントと反論したいポイントをそれぞれ記していく。

 まず、第一点として、このツリーでは「現実には絶対にアウトな行為(殺戮・レイプ・暴力・差別等)が表現として許容される」理由を「その行為が作品全体のメッセージ性や現実への批判的視点に還元されるから」だとみなしている。

 わたしはこの意見に賛成しない。人が創作や表現を追及するのは政治主張や道徳教育のためだけではないと考えるからだ。

 そもそも「メッセージや社会批判のための違法行為の表現であれば許されるが、そうでないのなら許されない」とするなら、推理小説などは全部まとめて許されないことになるだろう。

 そこではあきらかに殺人という犯罪行為が娯楽目的で描かれている。いわゆる社会派もあるが、そうでないものも多い。

 また、ホラーなどはもっと直接に「享楽」のための殺人や暴力を描いている。

 だからホラーもしばしばやり玉に挙がられるのだが、ミステリもホラーも許されない、「道徳的に高尚な」作品だけが許されるような社会はやがてそういった芸術作品をも排除し始めるように思う。わたしはその社会に賛成しない。

 

 

 そもそも「公序良俗性」だけをアートやエンターテインメントの基準に据えることは問題だろう。

 世の中にはどう考えても公序良俗に反しているが優れた作品もある。

 手塚治虫や永井豪の一部の作品はしばしば過激な性的、暴力的表現に充ち「公序良俗性」を嘲笑いさえするが、傑作も少なくない。

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 また、世界一の人気作家スティーヴン・キングはしばしばレイモンやケッチャムといったマイナーな作家の「ナスティ(お下劣)ホラー」を絶賛する。

 これらのホラーはどう考えても「公序良俗性」はないが、人の心に訴えかける何か強烈なインパクトはある。キングはそこを評価しているのだと思う。

 「何か崇高なテーマのために描かれていればOKだが、そうでなければNG」というのは一見正しいようだが、世の中にはテーマだけ偉そうな駄作もあれば、反社会的な欲望に満ちた傑作もある。

 芸術や文学や表現はあらゆる政治的思想的制約から自由な想像力の実験場であるべきだとわたしは考える。

 ただし、テレビというメディアのレーティングにおいて該当作品がふさわしいかどうかという批判、また議論はあって良いだろう。

 これは純粋な意味での「表現の自由」の問題とはべつである。社会的に許容されるべきであっても、テレビには載せられない表現はやはりある。アダルトビデオとか。

 また、ミステリやホラーや少年マンガなどを含めた「暴力を享楽目的で描いた」作品に対する批判もあっても良い。むしろあるほうが自然だ。

 問題なのは「ある特定の価値観にもとづく表現の規制」であって、「あらゆる批判意見」はそれこそ表現の自由の範疇である。あたりまえすぎることだが。

 仮にそれらの意見が明白に間違えているように思えるとしても、間違えた意見を述べる自由もあるのである。

 「これらの意見はあきらかに間違えているのだから黙らせなければ」と考えてそのように行動するなら、それこそ表現の自由の明白な侵害だ。

 その意味で、今回、該当作品を批判した女性に寄せられたという性的な侮辱や暴力的な脅迫はその自由を委縮させるきわめて悪質なもので、一切の容赦の余地がない。

 というかふつうにただの犯罪行為なのですぐにやめるべき。DMなどは直接に内容を確認したわけではないので、その点の保留はつくが。

 もちろん、そういった暴言の数々が反表現規制派全体を代表するものとはいえないだろう。大半の人は「そこまではしない」に違いない。

 しかし、反表現規制の言動のなかからこういった言動が出てきたしまった事実はきわめて深刻に受け止めるべきものであり、笑って済ませることはとてもできない。

 わたしはオタクによる「表現の自由」を求める活動はいま、まさにひとつの「ポイント・オブ・ノーリターン」を迎えていると考えている。

 一部の突出したクズが論外の行動に出てしまっただけで、反表現規制派そのものは悪く ない、と言い逃れることは可能だろう。

 しかし、そのためにはこういった非道で醜悪な言動に対し、反表現規制派こそが徹底的に批判しなければならないだろう。

 それが「集団の自浄能力」というもので、これを失い、「自分たちは正義なのだから少々の攻撃的言動は大目に見られるべきだ」と考えると、かつてのフェミニストのようになる。

 また、「そもそも個人がいるだけで集団など存在しないのだ」と主張することも可能ではあるが、それでは表現規制派フェミニストの集団もまた存在しないことになってしまう。

 ここはダブルスタンダードを避けるため、自浄能力を発揮し、集団としての責任を明確に引き受けるべきではないだろうか。

 自分の態度を選択するのはそれぞれの個人である。わたしは個人の権利と自由を尊重する立場から、表現の自由と暴力/暴言を受けない尊厳を主張する。

 そこには、男だの女だの、オタクだのフェミだのは関係ない。それはこの社会においてだれもが有しているとされる権利、即ち「人権」だからである。

 さらにいうと、引用したツリーは「加害者としての男性」と「被害者としての女性」を明確に分けているが、じっさいにはすべての女性が同じように考えているわけではない。

 性暴力的な描写を(自身の安全が保障されている前提で)好む女性だっているのである。この点は批判的に語れるだろう。

 また、「犯罪が増えたエビデンスはない」と書いている人もいるが、べつに犯罪が増えなくても「表現が人に悪影響を与える」ことはありえる。

 個人的には、たとえば人種差別的な主張をした作品や、反医療系のトンデモ本などはそういった「悪影響を及ぼしうる表現」の代表だと考える。

 ただ、むずかしいのは、「良い表現」は良い影響を与え、「悪い表現」は悪い影響を与えるなどと単純にいえないことだ。

 たとえば『鬼滅の刃』は傑作だと思うが、しばしば指摘されるように全体主義的な感性がないとはいえない。それが「悪影響」を与える可能性はゼロではないだろう。

 しかし、わたしはべつだん、だから『鬼滅の刃』やその他の作品を規制するべきだとは思わない。

 それはこの作品が「公序良俗性」や「高い志」を備えているからではなく、表現に対する批判もまた表現で行うべきなのであって、「臭いものに蓋」をするのは好ましくないと考えるからだ。

 ようは、たがいに礼節と敬意をもって、好きなだけ対話し議論すれば良いというあたりまえの結論になる。

 結局のところ、それができず、暴力的言動や行動に走るなら、表現の自由など画餅も良いところであるに過ぎない。

 わたしたちは自由を使いこなせる人間であるかどうかをまさにいま問われている。

 

 

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