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ストリートをさまよう「親のいる孤児たち」に居場所をつくるにはどうすれば良いか。

 

 

 ジャーナリストの佐々木俊尚さんの「「ホスぐるい」問題に見るポスト近代の普遍的悩み」という配信を聴きました。

 非常に面白いというか、納得度が高い話で、まさに「我が意を得たり」という気がします。

 「ホス狂い」にしろカルト宗教にしろ、その背景にはポスト近代(ポストモダン)特有の問題がある。

ホス狂い

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カルト宗教

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 そうはいってもべつにむずかしい話じゃなくて、いまから半世紀以上前の1970年前後くらいで社会が共有できる大きな価値観のようなものが見失われてしまったということだと思うのですね。

 佐々木さんがおっしゃられているように、それ以前の封建的な社会はきわめて重たい抑圧に満ちていて、たとえば男は仕事で女は家事といった、ある特定の価値観に支配されていた。

 だからこそ、近代的な社会はそういった抑圧からの「解放」をめざし「自由」を求めつづけてきたわけです。ウーマン・リブこと女性解放運動はその典型的なものです。

 そして、しばらくのあいだはそういう「近代的」な社会の実現は問題なく公共善として受け止められていました。

 ところが、時代がさらに移り変わってポスト近代となると状況が変わります。以前にも引用した文章ですが、小熊英二『1968』の一節を引いておきましょう。

 結論から言えば、高度成長を経て日本が先進国化しつつあったとき、現在の若者の問題とされている不登校、自傷行為、摂食障害、空虚感、閉塞感といった『現代的』な『生きづらさ』のいわば端緒が出現し、若者たちがその匂いをかぎとり、反応した現象であったと考えている。

 日本が高度成長によって発展途上国から先進国に変貌していく状況のなかで、当時の若者たちは、戦争・貧困・飢餓といった『近代的不幸』とは次元が異なる、いわば『現代的不幸』―アイデンティティの不安・未来への閉塞感・生の実感の欠落・リアリティの希薄さなど―に直面していた。

 つまり、小熊は1968年のこの頃、「日本が高度成長によって発展途上国から先進国に変貌していく状況」のなかで、すでに「アイデンティティの不安・未来への閉塞感・生の実感の欠落・リアリティの希薄さ」といった現代的不幸(現代的な「生きづらさ」)があらわれ始めていたといっているわけです。

 その「現代的不幸」とはつまり佐々木さんが「ポスト近代の普遍的な悩み」というものでもあり、「ホス狂い」や「カルト宗教」はそういった問題のいわば「症状」であるといって良いと思います。

 もっとも、日本全体が「先進国」から転がり落ちようとしているかに見える現代においては、いったんは乗り越えられたはずの「戦争・貧困・飢餓」といった「近代的不幸」もまた復活してきており、現在の若者の「不幸」はいわば「現代的不幸」と「近代的不幸」のミックスの様相を呈してきているといえそうです。

 

 

 が、ともかく「現代的不幸」の問題は現代、即ちポスト近代に共通の問題として世界各国で確認することができる。とくに日本特有の問題ではないわけです。

 とはいえ、たとえそういった不安定な時代であっても、あたたかい家庭に生まれていたり、何でも話せる親友がいたり、無条件で受け入れてくれる恋人に恵まれていたりという人はある程度は安定した人格を育めることでしょう。

 そういった広い意味での「愛の次元」で「承認」された人が飢餓的な「承認欲求」を抱え込むことは、ないではないにしても少ないに違いありません。

 原田和広は「愛」や「法」などさまざまなレベルで「承認」を欠いた「孤絶」の状態を「ポストモダン社会における新しい貧困」とみなし、「実存的貧困」と名づけています。

 この意味での貧困状態にある人は襲い来る「実存的不安」を解消するためにひたすらに「承認」や「包摂」を求めることになります。

 もちろん、その際、家族なり友人なり仲間なり同胞なり恋人なりがその欲求を叶えてくれれば問題ないことになりますが、それは現実的に期待できない。

 だから、そういう人はしばしばホストクラブに通い詰めて「ホス狂い」になったり、新興宗教にハマって財産を貢いだりすることになるわけです。

 しかし、そうやって大金を費やしても、それがしょせん「ビジネス」である限り、かれらがほんとうに欲しいものは決して得られません。

 「実存的貧困」の人たちが希求しているのは「無条件の承認」であるわけで、そこに金銭契約という「条件」がついている時点で論外なのです。

 だからこういった「ポスト近代という病の症状」は、対症療法的にホストクラブをつぶしたりすることでは解決できない。それは佐々木さんが引用した記事で語られているとおりです。

「勘違いしてほしくないのは、女性たちに自己責任を求めているわけではないんです。問題の根源は、彼女たちが歌舞伎町の外へ足を踏み出し、一般の社会に戻ったとき、そこに彼女たちの求める幸せがない、ということが根本にあると思うんです。

 ホストクラブに行かないと寂しさを埋められない、ここではないと楽しいことがない。居場所がない。そうした状況にしてしまった、今の日本の社会にも問題があるのではないでしょうか。

 今、ホストクラブに行くことでしか不安を解消できないという人たちが無数にいて、その背景や根っこの部分にはどんな問題を抱えているのか、そこを探る必要があると思います。

 一辺倒にホストを責める前に、まずはそこにも目を向けてみて頂きたい。むしろ、一緒に考えていきませんか? といいたい。外の世界に居場所や目的が見つかったら、彼女たちはホストクラブを棲家にしなくなるかもしれません。

 もし、日本の教育に男女間のエスコートや美意識向上の項目が組み込まれ、社会全体の幸福度が上がったとします。

 それが故に『ホスト』って仕事がなくなってしまうのなら、僕自身それは仕方のないことだと思っているんです。そんな社会になればいい、と。

 でも、現実は僕たちの仕事を必要としてくれている人が多数いる。だから、ホストクラブはあるんだと思うんですよ」

 わたしはずっとこの「ポスト近代の普遍的悩み」を解消するためにはどうすれば良いかと考えてきました。

 ただ、そこで出て来るアンサーはシンプルなもので、やはり歌舞伎町で迷子になっているような「親のいる孤児たち」の問題を解決するには、何らかの「共同体」を生み出してそこで包摂するしかないだろう、ということになります。社会のほうに受け皿をつくるということですね。

 ただ、それも場所だけつくれば良いということにはならない。

 乙武さんがそういった「現代の迷子たち」の居場所となる「ユースセンター」の企画を紹介していますが、しょうじき、単に「場」を設けるだけではうまくいかないと思います。

 わたしがこのブログなどで「推し活」を推進してきたのはそういうことで、どこぞの怪しげな宗教やスピリチュアル・ビジネスにハマるくらいなら、もっと健全な「推し」を作ったほうが良いのでは?と考えたわけです。

 しかし、佐々木さんが上記配信で述べられているように「推しビジネス」もまた場合によっては極度に過激化します。

 問題はそれが宗教であるかアイドルであるかアニメであるかということではなく、その媒体なり集団に対する過剰な依存を誘引しないかということだと見るべきなのでしょう。

 そのためには、どうすれば良いか。

 佐々木さんは「共同体を開いていく必要がある」と語っていますね。

 なるほど、と思いますが、ただ「開かれた共同体」とひと言にいってみても、具体的にどのような形であれば良いのかは必ずしも判然としません。

 ある共同体が「開いている」とはどういうことなのか?

 わたしが思いつくのは、まず、「共同体内外の出入りが自由である」ということです。

 だれでも入っていけるし、また、いつでも出ていくことができる。「開かれた共同体」にはそのような条件が必要なのではないでしょうか。

 また、「情報」が閉ざされていないことも重要です。つねに外部の評価や批判にさらされていて、情報的な意味での風通しが良い状況にある。それもまた必要なことかと。

 そして、また、独裁的なシステムになっておらず、いつも十分に民主的な対話が可能な状況が保たれていれば理想的です。

 こういった条件を維持できている集団であれば、それは開かれているといっても良いのではないでしょうか。

 逆に出入りや情報の行き来を制限し、さらに主要なメンバーへの異論反論が許されない集団は「閉じた共同体」といえます。それを「カルト」といい換えても良いでしょう。

 つまり、「開かれた共同体」とは「非カルト的な共同体」といい換えることができることになります。

 わたしたちはいままで「カルト化」した組織や集団がいかに非道な行為をしでかすか、さまざまな例を見て来ました。

 その端的な一例はオウム真理教でしょうが、わたしはカルトという概念を特定宗教と結びつけるべきではないと考えています。

 よく「ネトウヨはカルト化している」などという人もいますが、特定のイデオロギーにもとづく現象でもない。

 むしろ、右派であろうが左派であろうが、宗教組織であろうが学問団体であろうが、あるいはアイドルのファンクラブであろうがアニメ観賞サークルだろうが、あらゆる集団はそのすべてが「カルト化」の可能性を胚胎している、そういい切ってしまって良いのではないかと思うのです。

 もし「自分たちはいたって正常だからカルト化などしているはずがない」という集団があるとすれば(あるでしょう)、それこそまさにカルト化の端緒なのではないでしょうか。

 いかにも逆説的な話ですが、ある集団がカルト化を避けるためには「自分たちはカルト化しているかもしれない。あるいはいまそうなっていなくてもいつかそうなるかもしれない」という危機感を抱きつづけている必要があるわけです。

 ただ、これは非常にむずかしいことです。

 そもそも共同体とはある程度「閉じている」からこそ共同体として機能するともいえるわけです。まったく「内」と「外」の区別がつかない共同体は共同体とはいえないでしょう。

 だからこそ、その「境界線」を行き来できることが重要であるわけですが、「境界線」そのものがない共同体は原理的に存在しえない。

 また、メンバーから大金や労働力を搾取したりするためには、どうしたってカルト化が有効だともいえる。いってしまえば、非カルト的な集団はあまり儲からない。

 その代わり健全なサスティナビリティがあって長期的に継続できるかもしれませんが、短期的にがっぽりもうけるつもりならその集団をカルト化してしまったほうが都合が良いわけです。

 また、人は集まるとどうしても独善的になりがちなもので、その意味でもあらゆる集団はカルト化の萌芽を秘めている。

 それでは、そういった展開を防ぐためにはどうすれば良いのか。そういったことがわたしがこれから追い求めたいテーマです。

 寂しい人たちが集まって来る「居場所」を、過度に依存的な場にしないためにはどうすれば良いか? そもそも「依存」とはどのような状態なのか?

 ひと筋縄ではいきそうにない問題ですが、ぼくは答えを見つけるのは不可能ではないのではないかと思っています。

 ポスト近代の社会で、ストリートやインターネットをさまよう孤独な人々の「希望」のともし火を絶やさないために、できることは何か? これからも考えつづけていきたいところです。

 あなたには自然に自分自身であることができる「居場所」はありますか?

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