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ひろゆき対ナウシカ。空漠のニヒリズムと血まみれの理想主義はどのように対立するか。

 「あの」ひろゆきが、相模原障害者殺傷事件をモデルにした映画『月』の感想を述べていた。

 まあ、いつものひろゆきというか、「ひろゆきならそう言うだろうなあ」という印象なので驚きはなく、むしろ得感がある。

 そう、ひろゆきはいつも、この映画で描かれているような「偽善」と「綺麗ごと」を批判する。

 ときに「論破王」といわれることがあるひろゆきは、多くの人が目を背ける社会の「矛盾」に目をつけ、それを指弾することでまわりからの注目を集めるのだ。

 かれの明晰さが輝くのはいつも他者の「欺瞞」を高みから指摘するときである。

 かれにはあきらかに「社会の常識」を自明視する凡愚にはない聡明な視点がある、ように見える。

 しかし。そう、しかし、かれはべつだん、明確に「だからこうしろ」というわけではない。

 かれは既存のある価値の問題点を発見し、それを指摘することに長けているが、だからといって本質的な解決策を示したりはしないのである。

 なぜなら、そういった「解決策」はしばしばそれ自体が偏っていたり、問題含みであったり、またどこかに「矛盾」を孕んでいたりするものだからだ。

 頭の良いひろゆきは決してそのような「偏見」をあらわにはしない。かれはひたすらに他者の問題点を糾弾する一方で、自分自身の「偏り」は決して見えない。

 それはひろゆきがきわめてバランスの取れた「偏り」のない人間であることを意味しているのだろうか。

 そうなのかもしれないし、そうではないのかもしれない。真実はわからないが、私見をいうなら、かれはおそらく意図して「意見の偏り」を作らないよう発言し行動している。

 ひろゆきは「アンチXX」という形ではいくらでも発言するが、自分自身から「XX」や「YY」を示すことはめったにない。

 また、金銭にも名声にも特段の執着を見せる様子はない。

 その冷静で余裕のある姿勢はかれが一時期とても仲良くしていた「ホリエモン」あたりの「成金ムーヴ」と比べてもとてもスタイリッシュだといえるかもしれない。

 以下の記事でこのように語られているとおりである。

彼は人生のよりどころを決して見せない
彼は美学を作らない
彼は強いこだわりを作らない

彼は一般人的な欲を見せない
彼は「偏っていない」ことをバレないようにこっそりと自負にしている
彼の明晰さは、何かにのめり込まないことからきている
のめり込まないから、冷静にどの立場にでもなれるし、
どの立場からも語れるし、どちらの立場を頭において演算できる

 そうなのだ。ひろゆきの本質はその徹底した「相対主義」にある。

 かれは低成長の「神なき時代」の寵児である。さまざまな「欺瞞」と「偽善」に満ちたフェイクニュースだらけのご時世において、かれの姿勢は傑出したものに見える。

 ほかの人たちが何らかの「欺瞞」を信じ込んでいるのに対し、ひろゆきはまったくそれらを信じていないからである。

 かれは著書『1%の努力』において、「人生に意味はない」と語っている。「それなら面白いことだけを追求していけば良いのだ」と。

1%の努力

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99%はバイアス

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 よく理解できる姿勢ではある。問題は、そこでかれが見いだした「面白さ」というものが「他人のくだらなさを指摘しあざ笑って遊ぶこと」でしかないということだろう。

 作家の石田衣良は以下の動画でひろゆきを取り上げ、その特質を「絶対的な相対主義」に見ている。

 慧眼だろう。まさにひろゆきはあらゆる価値を相対化する。

 かれにとっては、この社会で信じられている「モラル」や「イデオロギー」もまたひとつの「欺瞞」であるに過ぎない。

 ひろゆきには一時期、インターネットで流行語と化した「それってあなたの感想ですよね?」という言葉があるが、かれはまさにこの社会で広範に信じられている「思想」をも単なる「個人の感想」として棄却してしまうのである。

 その意味で、障害者問題に対する態度はまさにひろゆきの面目躍如といえなくもない。

 かれはどんなことからも一定の距離を保ってクールに切り捨てる。村上春樹ふうにいうならかれの態度は「デタッチメント」というべきだ。

 だが、村上春樹が「デタッチメント」を口にしながらじっさいにはさまざまな問題に「コミットメント」していたのと対照的に、ひろゆきはどんな事象にも積極的に関与することをしない。

 石田衣良は「何をいうときにも「どうでもいいけど」が頭につく感じ」とかれの個性を表しているが、的確な洞察だと思う。

 そこには「真摯さ」とか「誠実さ」といった美徳こそ欠落しているが、一方で「王さまは裸だ」と平気で口にする子供のような爽快感がある。

 それこそがいまの時代にひろゆきが支持される理由だろう。

 だが、まさにそうだからこそ、絶対的相対主義者たるかれにはできないことがひとつある。あらゆる価値を相対化するかれには「価値の重石づけ」ができないのである。

 具体的にこのような価値が重要である、と提示することはひろゆきにはできない。

 なぜなら、それをした瞬間に、かれもまたかれが何よりバカにし見下す「欺瞞」や「矛盾」を抱え込むことになってしまうからである。

 だからといって、かれは重度障害者を否定することもしない。

 かつて、メンタリストDaigoはホームレスの生存権を否定し、最終的に平謝りすることになってしまった。その態度はとてもとてもかっこ悪かった。

 ひろゆきはそのようなミステイクはしないだろう。そもそもひろゆきはホームレスや、障害者や、貧乏人「だけ」を下に見て笑うようなタイプの差別主義者ではないように見える。

 そういった態度もまたひとつの価値観を表しているからである。

 ひろゆきは貧乏な人を見下すことがひとつの「成金根性」のあらわれであるに過ぎないことをわかっているのだ。

 かれはホームレスもニートもひきこもりも特別にバカにしたりはしないだろう。それは居住や就労や外出を特権資する価値観の裏返しだからである。

 ただ、だからといってかれがそういった人たちの尊厳を尊重しているかというと、それも違う。

 ひろゆきはただひたすらにすべてが「どうでもいい」のだ。あるいはそう見えるように装っているわけである。

 ここにおいて、ひろゆきの抱えるニヒリズム(虚無主義)がむき出しになる。

 そう、ひろゆきは現代によみがえったニヒリストである。

 作家の佐藤優はひろゆきを指して「ニヒリズムを身体化した思想家」と呼んでいる。

 ありとあらゆる価値をあざ笑い、その「矛盾に満ちた苦闘」を見ない態度は、必然として「虚無」に陥らざるを得ないのだ。

 現代日本最強最凶の虚無主義者。それがひろゆきなのだといえるかもしれない。

 ニヒリズムというとすぐに思い出される作家が宮崎駿であり、作品が『風の谷のナウシカ』だ。

 風の谷で暮らす少女ナウシカはその全七巻の物語のなかで「虚無」と戦いつづけ、最後には自分自身が新時代の可能性を殺戮して「虚無」と呼ばれることになる。

 しかし、ナウシカは決してニヒリストではない。なぜなら、彼女は明確にその生きている時代の価値にコミットして発言しているからである。

 ナウシカは何があろうと「すべての価値から等距離であろう」などとは考えない。何がいちばん価値があり、逆に何に価値がないか、自らの目で見定め、判断する。

 その苦闘は必然として見苦しく、泥くさいものになる。だが、ナウシカのあり方はひろゆき的な「虚無」を突き抜ける。

 『風の谷のナウシカ』のクライマックスにおける「墓所の住人たち」とナウシカの対決は日本マンガ史上空前の迫力の議論だが、そこで彼女が繰りひろげる論説の凄まじさはひろゆき的な軽薄さとは対極にあるものと見て良いだろう。

 とはいえ、彼女が「世界の可能性を葬り去った」ことも事実である。それはやはりニヒリズムそのものではないとしても「虚無」と接している思想でもあるのだ。

 宮崎駿は初期のインタビュー集『風の帰る場所』のなかでニヒリズムについて語り、「安直なニヒリズム」は嫌いだが、「突き抜けたニヒリズム」は悪くないと思っていると語っている。

 もしひろゆきの言動を『ナウシカ』作中の皇兄ナムリスに似た「安直なニヒリズム」と定義するのなら、ナウシカのどこか寂寞たる思想は「突き抜けたニヒリズム」であるのかもしれない。

 ナウシカが「墓所のヒドラ」に向けた思想もまた、ひとつの「感想」ではある。しかし、まさに彼女のその「感想」は赤々と血に染まっている。

 その絶望を突き抜けた血の色の叫びこそが人が空虚に立ち向かう唯一のすべだ。

 絶望を直視し、しかもそこに留まらないこと。迷妄を避け、しかもそれを相対化する自分に悦に入ったりもしないこと。

 一切の「欺瞞」を攻撃してやまないひろゆきからも絶望の底の底でなお理想のともし火を掲げるナウシカからも学ぶべきものは多い。しかし、その思想と姿勢はそれぞれ鋭く対立する。

 わたしたちは「時代の虚無」に対しどのような選択を行うべきだろう。

 空漠の相対主義を選ぶか、それとも血まみれの理想主義を唱えるか。答えを出すのは、わたしたちひとりひとり以外に、だれもいない。

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