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京極夏彦『鵼の碑』刊行を控えて「大人向けキャラクター小説」の再評価を希望する。

 京極夏彦の『鵼の碑』がいよいよ出るとか。

 一方、ぼくは「小説家になろう」などいろいろ読んでいるのだが、あらためて大人向けのキャラクター小説を読みたいなあ、と思う近頃である。

 ここでいう大人向けというのは、子どもに読ませるのはちょっと……と思われるくらいダークだったり、シリアスだったりする傾向のことだ。

 具体的な作品例としては、例は古いが『Fate/Zero』とか『マルドゥック』シリーズをイメージしている。京極堂のシリーズもまさにそうですね。

 かたや「同人」から出てきた異色作、かたや数々のライトノベル出版社から出版を断られた問題作、というわけで、このような作品はいまの出版事情ではイレギュラーなようなのだ。

 しかし、ぼくはもっとこの手のアダルトなキャラクターエンターテインメントを読みたいのである。ライトノベル的なものは好きだけれど、いまのライトノベルではいかにも物足りない一面がある。キャラ萌えはいいのだが、ライトノベルの物語も人物もいかにも子供っぽい。

 それでも、以前はぼくの嗜好を満足させるような作品もないことはなかったのだ。古橋秀之の『ブラックロッド』だとか、ベニー松山の『BASTARD!! 黒い虹』だとか。しかし、ライトノベル界隈の「洗練」につれて、この種の作品は駆逐されていったように思う。

 いまのライトノベルがどのような世界を描いているかは御存知の通りである。それが悪いというのではない。しかし、一部の大人の読者はそれに満たされないものを感じているのではないか。少なくともぼくはそうだ。

 もっとヘヴィな、ダークな、アダルトな、シリアスな、エロティックな、黒々したセンス・オブ・ワンダーに満ちた作品を読みたい!

 最近の作品だと『異修羅』とか『TS衛生兵さんの戦場日記』あたりは良いですね。

 そういう作品に需要があるかどうかはわからない。

 ただ、アニメでは『Fate/Zero』や『魔法少女まどか☆マギカ』のような作品がヒットしているのだから、皆が皆、萌え萌えなばかりの作品を望んでいるわけではないと思う(両方とも虚淵玄だけれど)。

 大人向けライトノベルというと、メディアワークス文庫や講談社BOX、星海社文庫などが思い浮かぶ。

 しかし、メディアワークス文庫はより一般文芸的な方向性を志向しているようだし、(西尾維新という怪物的作家の活躍を抜きにすると)講談社BOXや星海社文庫にももうひとつ物足りないものを感じる。

 ひと頃は、この種の欲望は、俗にいうエロゲによって充足していた気がする。

 しかし、もうしばらく前から、エロゲには物語的に満足できるものが少なくなってきているように思う(これは批判しているわけではない)。

 そういうわけで、ぼくの飢えは募る一方なのである。

 だからといって、萌え文化普及以前の古色蒼然としたライトノベルに戻ることを望んでいるのではない。

 おもしろく、しかも斬新なキャラクターノベルを読みたい! これはぼくひとりが思っていることではないだろうと思うのだが、どうだろう?

 ここでいうキャラクター小説というものは、従来の「ジャンル」を越境した概念である。

 キャラクター小説はSFであったり、ミステリであったり、ホラーであったりするが、同時にそのいずれであるとも限らない。それは「印象的なキャラクターが登場する小説」というほどの意味なのだ。

 それでは、印象的なキャラクターとはどのようなものか。

 SF作家アーシェラ・K・ル・グィンは、物語のなかで生きている人物の条件として、読者が読後一ヶ月を過ぎても名前を憶えていることを挙げた。

 これこそまさに印象的なキャラクターの条件だろう。

 読み終えてから長い時間が経っても読者の心のなかにくっくりした像がのこるような人格であること。それがここでいうところの「キャラクター」である。

 キャラクター性の強弱は、その作品の小説としてのクオリティと比例しない。名作であっても、小松左京や筒井康隆の作品の主人公の名前を憶えているひとは稀だろう(七瀬シリーズのような例外はあるが)。

 しかし、田中芳樹『銀河英雄伝説』の主人公の名前は、大半のひとが憶えているはずだ。いうまでもなく、ラインハルト・フォン・ローエングラムとヤン・ウェンリーである。

 あるいは主役だけでなく、脇役、端役まで憶えているかもしれない。この差がすわなち「一般小説」と「キャラクター小説」の違いだ。

 田中の『銀河英雄伝説』や『アルスラーン戦記』は、SF小説である以上に、そして擬似歴史小説である以上に、キャラクター小説なのだ。

 繰り返すが、キャラクター小説であるかどうかは、小説としてのクオリティとはまた別の事項である。

 「高尚」とされる名作文学にも「キャラクター」は登場する。ドン・キホーテ、ハムレット、ジャン・バルジャン、そしてアリョーシャやスタヴローギン。これらは一読、忘れがたい印象をのこすキャラクターたちだ。

 一方、たとえば三島由紀夫の『金閣寺』や太宰治の『斜陽』の主人公の名前を憶えているだろうか? 少なくともぼくは憶えていない。名作だからキャラクター性が強いとか、弱いということはいえないのだ。

斜陽

斜陽

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 しかし、印象的なキャラクターが登場する作品はそれ自体印象に残りやすいことはたしかである。

 複雑な展開や錯綜する伏線をすべて憶えていることは困難だが、くっきりした輪郭をもつキャラクターはいつまでも憶えていることができる。

 エンターテインメントの世界においては、昔からキャラクターは重要だった。

 否――神話の時代には既に数多くのキャラクターが存在したことを考えれば、キャラクターを重視しないタイプの作品こそ近代の所産なのだといえるかもしれない(ここらへんはさらに考察が必要なようだ)。

 ぼくたちは一千年も前の『源氏物語』のキャラクターたちに心から共感することができるし、かれらの名前をはっきりと憶える(光源氏の名前を知らないひとがいるだろうか)。

 『源氏物語』はかなりキャラクター性の強い小説だといえる。

 しかし、だからといって『源氏物語』と現代のキャラクター小説、たとえばライトノベルを同一視することができないことはもちろんだ。いったい、両者の間にどのような差があるのだろう?

 ぼくは、それこそ「萌え」なのではないか、と思っている。ここでいう「萌え」とは、キャラクターに強烈な愛着をもつこと、という程度に考えてほしい。

 一千年前の『源氏物語』の読者も、現代の読者とまったく同じように、光源氏や紫の上の運命に胸を高鳴らせたことだろう。

 しかし、おそらく一千年前には、紫の上を主人公にして二次創作を書こうとする人間はいなかったのではないか(二次創作そのものはあるようだが、おそらくそれはキャラクターを重視したものではなかったのではないかと思う)。

 あるキャラクターに熱烈な親しみを覚え、そして(時として性的に)執着すること、これが「キャラ萌え」である。

 そして、さらにいえば、あらかじめ読者のキャラクターに対する執着を念頭にいれて書かれた作品を「キャラ萌え作品」と呼ぶことができるだろう。

 つまり、厳密にいえば「キャラクター性の強い小説」と「キャラ萌え小説」は違うことになる。

 シェイクスピアの『ハムレット』は、小説でこそないが、きわめてキャラクター性の強い作品である。しかし、間違えてもキャラ萌え作品ではない。

 『ハムレット』を見た人は、きわめて優れた作品だと感動することこそあっても、もっと若い日のハムレットの人生を見てみたいとか、さらにはハムレットを生き返らせてほしいなどとは考えないだろうからである。

 従来、「キャラ萌え」はときにネガティヴな意味で使われる言葉だった。「安易なキャラ萌えに頼っている」というような表現は、その作品の全否定に等しい意味をもっていたと思う。

 しかし、もちろん、「キャラ萌え」を重視して作品を作ることは悪いことではない。それは近代文学的ではないかもしれないが、神話、伝説、民話的ではある。

 ヘラクレスやロビン・フットや宮本武蔵は、きわめて「キャラが立って」いる上に、あきらかに「もっとかれらの冒険を知りたい」と思わせているではないか?

 良質の「キャラ萌え」は読者に満足を与える。たとえば、エドガー・アラン・ポオの作品と、コナン・ドイルの作品、推理小説として見た時、どちらが優れているかといえば、これはなかなか答えが出ない問題だろう。

 だが、オーギュスト・デュパンと、シャーロック・ホームズ、いずれがキャラクターとして魅力的か、といえば、答えは歴然としている。

 ホームズこそ、推理小説史上でも最高最大のキャラクターなのだ。対して、デュパンの名前は、いまではポオの読者か、ミステリファンくらいしか知らないのではないかと思う。

 推理小説は、ホームズ以降、無数のキャラクターを生み出し、そして読者の「キャラ萌え」の声に押されて、数々のシリーズを生み出してきた。

 ルパン、ブラウン神父、ファイロ・ヴァンス、ポワロ、クイーン、ハンニバル・レクター、法水麟太郎、金田一耕助、御手洗潔、火村英生、犀川創平――際限がなく続くリスト。

 こう書くと異論が出るかもしれないが、推理小説の歴史は「キャラ萌え」の歴史でもあったのだ。推理小説に名探偵が必要かどうかということは時々、議論になる。

 しかし、「キャラ萌え」の視点から見れば答えは判然としている。リアリズムの観点では名探偵は必要ないかもしれないが、キャラクタリズムの観点からは絶対に必要なのである。

 人気漫画家小池一夫のキャラクター理論によると、魅力的なキャラクターを作り上げるには、以下のふたつのものが必要だという。すなわち、何かしらの弱点と、かれをひき立てるべつのキャラクターである。

 シャーロック・ホームズを例に挙げて考えてみるとこのことはよくわかる。ホームズが魅力的なのは、その天才だけではない。

 単なる天才的頭脳ならほかの名探偵も備えている。ホームズの魅力は、麻薬中毒と、偏った知識にこそある。そして、ワトスン博士抜きにホームズの魅力を語ることはできない。

 したがって、キャラ萌え小説とは、何らかの共感しやすい弱点をもち、互いにひき立てあう複数のキャラクターから成立する、ということがいえるだろう。

 このような観点から『銀英伝』を見ると、きわめてこの原則に忠実であることがわかる。

 たとえば、ヤン・ウェンリーの弱点はとても魅力的だし、漁色家のロイエンタールと生真面目なミッターマイヤーはたがいにひき立てあっている。『銀英伝』は「キャラ萌え小説」として珠玉ともいうべき作品なのだ。

 ぼくが読みたいというのはこのような小説である。ライトノベルはいま、たしかに「キャラ萌え」に特化している。

 しかし、その「萌え」はあまりに子どもっぽい。これは対象年齢層が十代前半なのだから当然のことで、決してライトノベルの欠陥ではないが、しかし大人の読者を満足させないことは当然である。

 本来、キャラ萌えは子どもだけのものでもなければ、オタクだけのものでもないのだ(むしろあるキャラクターに「性的に」惹かれることこそ、オタクの特徴だというべきだろう)。

 したがって、大人向けのキャラ萌え小説というものもありえるし、じっさいあった。

 栗本薫の『グイン・サーガ』や『魔界水滸伝』、菊地秀行の『魔界都市ブルース』、『吸血鬼ハンター』は、このような視点から再評価されるべきである。

 これらの作品はジャンル小説のくくりには入り切らないために、ベストセラーであるにもかかわらず、エンターテインメントの世界でも異端扱いされてきたように思う(これらの作品を専門に扱った評論を読んだことがあるだろうか)。

 しかし、キャラクター小説、あるいはキャラ萌え小説としては、これらは、傑作としかいいようがない。イシュトヴァーンやマリウス、秋せつらやドクター・メフィストを生み出しているからである。

 そして内容のほうも、大人が読むのにふさわしく、ダークだったりシリアスだったりする。

 ぼくはこういう小説をこそ、もっと読みたいのだ。これらの作品を従来のジャンル小説の枠組みで見て、SFであるとか、ミステリであるとか、伝奇小説、ヒロイック・ファンタジーである、と語るだけでは、これらの作品の真価を見逃すことになるだろう。

 先に挙げた『銀英伝』などは、じっさい、だれもが読んでいるにもかかわらず、正当な評価を受けていない作品だと思う。

 『銀英伝』にしろ『グイン・サーガ』にしろ、読めばだれもがおもしろいと思うにもかかわらず、評論、批評の対象にならないのは、SFやミステリという「ジャンル」でそれを分類してしまうからなのだと、ぼくはずっと思っていた。

 『銀英伝』はSF(スペースオペラ)だし、『グイン・サーガ』はヒロイック・ファンタジーだが、あきらかに両作品には共通するものがある。それが、ぼくがいう「キャラ萌え性」である。

 「萌え」といういい方は既に手垢がつきすぎているので、何か別の言葉を見つけたほうがいいかもしれないが、それは後の課題としておこう。

 ぼくがいいたいことはだいたい述べ終えた。ようするにぼくは『銀英伝』や『グイン・サーガ』や、最近でいえば『Fate/Zero』や『マルドゥック・スクランブル』のような作品を、もっと読みたいのである。

 これらの作品は、いままでは、その絶大な人気にもかかわらず、エンターテインメントの正統派とはみなされて来なかった(『マルドゥック・スクランブル』はSFとして高い評価を受けているが、ぼくが重視する「キャラ萌え性」は軽視されているように思う)。

 ぼくが望む未来は、これらの「大人向けキャラ萌え小説」が一ジャンルを成し、しかも正当な(キャラクター小説として正当な)リスペクトを受ける時代である。そういう時代が来ることを願って、とりあえずこの記事は終わりとしたい。

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