現代社会のひそやかな流行語に、「承認欲求」があるかもしれない。この言葉についてたくさんの本が書かれてもいる。
そもそも古来、多くの人は他人から「承認」されることを求め、そのために努力してきた。
いまとなっては、むしろ恋愛や仕事で成功し、まわりの他者から褒めてもらえること、認めてもらえることを望まない人のほうが少ないかもしれない。
しかし、その一方で承認欲求に捕らわれることは泥沼でもある。その欲望には際限がない。どんなに承認されても「もっと!」と望みつづけるかぎり、人は満たされることはないのだ。
ときに世界的な大スターでも過度の承認欲求に苦しむことを思えば、問題の深刻さがわかる。
何年か前の『嫌われる勇気』の大ヒットで広く知られるようになったアドラー心理学では、承認欲求を否定しているという。
だれかに褒めてもらうため、認めてもらうために行動することでは人はしあわせになれない。心から自分がやりたいと思うことを行うべきだ。
簡単な言葉にすれば、そのような意味だろう。
人は承認欲求を満たすために生きているわけではない。もっと自由な存在だ。なるほど、その通りではある。
だが、承認欲求から自由になるためには、人生の初めにおいて十分に承認されていることが必要なのではないだろうか。
幼い頃、両親や周囲から十分に「存在」を肯定されていない人は、しばしば長じて「存在の不安」を抱え込むことになる。
それをアダルトチルドレンと呼んでも良いし、愛着障害といっても良いかもしれないが、とにかく幼少期に「ただ生きてしあわせにあるだけで十分なこと」を認められなかった人物は、ときに過剰な努力や威嚇、あるいは媚態によって他者から「承認」をひき出そうとする。
そういうことは良くあることだろう。ただ、そのようにして「無償の愛」を求めても、現実にそれを得られることは稀有としかいいようがない。
たとえ、さまざまな領域で「成功」してひとからちやほやされるようになったとしても、それはつまりは「能力」、あるいはもっと元も子もなくいってしまえば「機能」の承認に過ぎないのであって、「存在」の承認ではないからである。
たとえ傑出した成功を成し遂げて、その領域で多大な承認を得たとしても、どうしても「その能力がなくなったら見限られてしまうのではないか」という見捨てられ不安が残る。
人が幸福になるためには、自分の「存在」を「無条件」で肯定できることが前提となるのである。
どんなにお金を持っていても、高い能力を発揮しても、「一切の条件なし」で自分自身を肯定できる人ほどにはしあわせではないということ。
先日の『徹子の部屋』で、俳優の「神木くん」こと神木隆之介さんが出演して感動的なエピソードを語っていた。
いま、30歳のかれが25歳の頃、ヒット作に出演しつづけるかれは人知れず悩んでいたという。
はた目に見れば順風満帆としかいいようがない「成功人生」ではあるが、本人は「役者以外に何もやってきておらず、役者として失敗したらそこでおしまい」という認識でおり、そのこととヒット作を出しつづけなければならない重圧に苦しんでいたのだとか。
そんなかれを救ったのはだれよりも早くその苦悩に気づいた母の言葉だった。
神木さんの母親はかれに「役者として成功したのだから愛しているのではない。息子として愛している」と語ったというのだ。
この言葉によって神木は「役者をやめたら何も残らない」という呪縛から解放され、救われたのだとか。
すばらしいではないか。まさにこれこそ、多くの人が求めてやまない、そしてしばしばどうしても得ることができない「無償の愛」であり「存在の全面的な承認」だと思う。
母が息子を愛することはあたりまえともいえるかもしれないが、じっさいにはそのような親ばかりではない。
華やかな芸能界で成功した子供に対し、このような至純の言葉をかけられる親はまれなのではないか。神木さんはその意味で幸運だったのかもしれない。
だが、そのように自分を全面的に愛し、認めてくれる人がいた場合は良い。そうでない場合はどうすれば良いのだろう。
ひっきょう、最終的な問題は自分で自分を愛し、ケアし、慰撫することができるかどうなのではないだろうか。
突きつめれば「承認欲求」は「存在の不安」から来ている。それは仕事で大成功すれば、きれいな恋人ができれば消えてなくなるものと思うかもしれないが、現実にはどうやらそうではない。
その種の成功は、人の自己肯定感を根本的に保証しないのだ。
人が心の底から「何があってもだいじょうぶ」と思えるためには、だれよりも自分自身が自分の存在を肯定できている必要がある。
そうでなければ人生のふしぶしで襲いかかって来る「自我を否定するかのような事件」にはとても対抗できないだろう。
とはいえ、そのような「健全な自己肯定感」を育てることはいうほど容易ではない。だから、わたしたちはなかなか承認欲求から自由になることができない。
飲めば飲むほどのどが渇く塩水を飲みつづけているように、もっと、もっとと望みつづける。
結局のところ、わたしたちの多くは「無条件の生」を認めることができず、さまざまな条件をつけてようやく自分が生きていることを許しているのだ。
まずは、そのリミットを外してみることが必要である。
自分自身に対する思いやり、「セルフ・コンパッション」を持つことが大切であることはだれにでもわかる。
だが、案外、自分に優しくすることはむずかしい。だから、まずはだれかまわりの人に対して「ケア」を実践してみるのはどうだろう。
ひたすらに「だれかに認めてもらえること」、「優しくしてもらえること」を期待するのではなく、自分のほうからあいての周波数にチューニングしてみる。
そこから、ケアに満ちた関係性は立ち上がって来るかもしれない。
それはひたすらに他者から承認されようともがくこととは少し違う結果を生むだろう。
もちろん、それもまた、たやすいことではない。ただ、神木隆之介の母のように「あいての存在を全面的に認め、承認できる」人は他者から見てきわめて魅力的である。
だれもが「存在を承認されたい」と思う社会において、「あいての存在を承認する側の人」は不足しているのだ。
愛されることを一方的に求める「飢え」や「渇き」の状態から一歩だけ退き、だれかに少しだけ優しくしてみること。
いつもあたたかな笑顔の神木隆之介青年のように、あるいはかれの母がかれにそうしてくれたように、だれかの存在をいちいちジャッジして評価するのではなく、認め、許し、愛するのである。
求めるならば、与えよ。
わたしはそう考える。そこからきっと、まったく新しい物語が始まっていくことだろう。
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