どこか「気持ち悪い」ことこそが「気持ち良い」のはなぜなのだろう? 『進撃の巨人』や『推しの子』を題材に考えてみた。
- 【ハイパーポルノの時代】
- 【いつか動画は「個人用」になる】
- 【だれもが王さまになれるときが来る?】
- 【AIは「決定的な意外性」を演出することができるか?】
- 【「傷つけてほしい」という需要】
- 【万能のAIが描くことを許されないもの】
- 【AIもまた「他者性」を感じさせなければならない】
- 【『進撃の巨人』のグロテスク】
- 【『推しの子』はなぜ「気持ち悪い」のか】
- 【配信サイトリスト】
- 【お願い】
- 【電子書籍などの情報】
- 【おまけ】
【ハイパーポルノの時代】
「ハイパーポルノ」という言葉をご存知でしょうか? ネットの記事によると以下のように説明されるコンテンツです。
非常に高度なレベルで文章を生成できる対話型AIのChatGPTや、画像生成モデルのDALL・Eなどを始めとした画像生成AIの発達により、誰でもクオリティの高い文章やイラスト、画像を作成できるようになりました。これらの生成AIを用いることで、存在しない女性のセクシーな自撮りやセリフの吹き込みがある官能的なストーリーなどを全てAIで作成した「ハイパーポルノ」に注目が集まっています。
つまり、そのストーリーから映像に至るまですべて人工知能によってデザインされたポルノの時代が来ようとしている、というかすでに来ているわけです。
いまのところ、この種の「ハイパーポルノ」を自在に、かつ無限に生み出せるというところまでは行っていないようですが、近い将来、必ずそうなるに違いありません。
そうなったとき、果たして現実の人間が演じる「リアルポルノ」に需要は残るのか? 興味深いところですが、この記事のテーマとはずれるのでここでは追求しません。
【いつか動画は「個人用」になる】
ぼくがこういった話をしていて思うのは、こういったポルノはいつか必然的に「個人向け」にアジャストされていくことだろうということです。
ちょっと下品な話ですが、たとえば「朴訥な感じの胸の大きい看護婦が夜中に誘惑して来る話を頼む」などと入力すると、一分も経たずにそれに対応したポルノが出て来るということになるに違いありません。
何ともSF的な話であるものの、もちろん、これは決してあしたのことではなく、すでに今日の話題であるに過ぎないのです。
じっさい、ChatGPTあたりでその種の小説を作り出して喜んでいる人は大勢いるはずです。それがもうすぐ映像でもできるようになる。確実に。
そういったハイパーポルノは、いわば「王様のポルノ」です。わたしたちは無限の権力をもつ王様になって、AIという召使いにこのような物語を用意せよに命じるわけです。
召使いはたちどころにその望みをかなえてくれることでしょう。これこそ人類が望んだ夢、圧倒的な楽園、どんな美女も望み放題、めでたしめでたし。……そうでしょうか?
【だれもが王さまになれるときが来る?】
この話、いまはシンプルなポルノにかぎられていますが、いずれは「エンターテインメント一般」に拡大していくものと考えられます。
いつかはきっと、召使いはぼくたちひとりひとりのために一分で一本の映画を作り出してくれるようになるでしょう。
そのとき、たとえば「アンジェリーナ・ジェリー主演の『ローマの休日』風アクションラブコメディを頼む」といったわがままな願いすらあっというまに叶えられることになるかもしれません。
そうしてぼくたちは真の意味で架空の王国の君主になります。
その国はすみからすみまでぼくたちひとりひとりの好みに合わせてデザインされていることでしょう。
いま、ぼくたちはいわば百万人向けにデザインされた「汎用の物語」を個別に楽しんでいるわけですが、その時代においては「個別の物語」が用意されることになるわけです。
これでオタクがよく嘆く「解釈違い」といったことも一切なくなります。だれもが完全に満足できる自分用の作品とだけ向き合うことになるわけです。やっぱり、めでたしめでたし。科学万能の時代、バンザイ!
……いいえ、そうは思いません。その「ハイパーエンターテインメント」のヴィジョンには、何かいい知れず不気味なものがあります。
そう、そこには致命的に「他者」がいない。その世界はどこまでいっても閉ざされたナルシシズムの世界なのです。
【AIは「決定的な意外性」を演出することができるか?】
あるいは願望充足のポルノはそれで良いかもしれませんが、エンターテインメントにはどうしても「意外性」を望みたいところがあります。生成AIはその要件を満たすことができないのではないでしょうか。
いえ、もちろん、「ある程度の意外性」は用意されることでしょう。あるいは大半の人間が考えるよりずっと巧みなサプライズを生み出してくるかもしれません。
しかし、それでも、原理的に考えてそこに「決定的な他者」は存在しえないはず。あらゆる望みを叶える召使いも、「そもそも王さまが望まないもの」は生み出せないのです。
したがって、召使いの生み出す作品はどうしても王さまの想像力の範疇に留まることになります。それは、とても気持ちが良いかもしれませんが、どこか退屈ではないでしょうか?
将来、どのような方向にAIが発展するとしても、そこでは「決定的に人を傷つける」ことだけは禁止されるに違いありません。
じっさいにはそれが容易であるとしても、倫理的に許されないと考えられるからです。
【「傷つけてほしい」という需要】
ですが、文学や芸術とは、あるいはポルノですらも、しばしば「決定的に人を傷つける」性質のものです。それはときに人を自殺に追い込みすらします。
ゲーテの『若きウェルテルの悩み』に端を発する「ウェルテル効果」という言葉をご存知の方も多いことでしょう。
ウェルテル効果(ウェルテルこうか、英: Werther effect, 独: Werther-Effekt)とは、マスメディアの報道に影響されて自殺が増える事象を指す。これを実証した社会学者ディヴィッド・フィリップス(David P. Phillips)により命名された。特に若年層が影響を受けやすいとされる。「ウェルテル」は、ゲーテ著の『若きウェルテルの悩み』(1774年)に由来する。本作の主人公、ウェルテルは最終的に自殺をするが、これに影響された若者達が、彼と同じ方法で自殺した事象を起源とする。なお、これが原因となり、いくつかの国家でこの本は発禁処分となった。ただし、実在の人物のみならず、小説などによるフィクションの自殺も「ウェルテル効果」を起こすか否かについては諸説分かれている。
AIはおそらく簡単に「ウェルテル効果」を再現できるようになる。じっさい、すでにAIとの「対話」で自殺に追い込まれた人が出ているくらい。
そして、まさにそうだからこそ、AIのその力は封印されなければならないことになるはずです。
【万能のAIが描くことを許されないもの】
これは、どれほど優れたヴァーチャル・リアリティも「本物の危険」、「本物の冒険」だけは示せないのと同じことです。
それはどこまでいっても「かぎりなくよくできたニセモノ」を超えることができないし、超えてはいけないわけです。
『ソードアート・オンライン』ではあるまいし、ゲームはゲームを逸脱してはならない。その気になれば逸脱できるからこそ、そこには規制の必要性がある。
つまり、AIの「表現の自由」は一定のレベルで制約されることになるのではないかと思うのです。
しかし、人間の表現者はときにその限界を超え、「ウェルテル的」ともいいたいような物語を生み出してしまうことがありえる。
そして、むしろそのような「ウェルテル的」な、ひとりの人間の人生を致命的に狂わせてしまうような作品こそが、エンターテインメントが持つ最大の魅力でもあるでしょう。
そのような作品と巡り合ったとき、ぼくたちはそこに万能の召使いではなく、まったく自分の思い通りにならない「他者」を見いだすからです。
そのような意味での「他者性」こそは、芸術の魅力の根源。ただし、とほうもなく危険なものでもあるわけで、いまなお、「表現の自由」をめぐる議論が続いているのも当然といえば当然なのかもしれません。
【AIもまた「他者性」を感じさせなければならない】
そういえば、上記の記事の最後には、AIが生み出した「ヴァーチャル・ガール」ミンディについて、このような意見が記されていました。
また、ミンディに対し「AI生成では避けられない事項として、ミンディは明らかに『This girl next door(隣人の女の子)』と理解できるような容姿ではなく、モデルのような完璧に近いスタイルを持つ『My dream girl next door(夢のような女の子)』となっています。実際に『隣人の女の子』を生成できるようになったら市場価値があると確信していますが、現時点ではそうではありません」という意見も寄せられています。
これはとても面白い話だと思います。AIが描き出す「隣の家の少女」はあまりにも完璧であり過ぎ、それ故に商業的な意味での魅力を欠いているということなのです。
つまり、ミンディがより魅力的になるためには、それなりの「欠点」がなければならないということでしょう。
それはひとつの「他者性の表れ」と見ることもできるかもしれない。何もかも望み通り、パーフェクトなボディの女性は意外に退屈に感じられるという話でもあるに違いないのですから。
ただし、もちろんそれは「大きすぎる欠点」であってはいけないこともたしかです。だれだって完全に不細工な女性のヴァーチャル・ポルノを見たいとは思わないでしょう。
つまり、ここでは絶妙に調整された「適度な他者性」が必要とされるということです。AIはいずれ、この「適度な他者性」がどこなのかをめざして進化していくことになるでしょう。
この他者性のテーマは、トマス・モア以来、さまざまなユートピア/ディストピアSFでくり返しくり返し描かれてきたものでもあります。
自分にとって都合の良いものしか存在しない世界は、果たして天国(ユートピア)なのか? それとも地獄(ディストピア)なのか? じつにたくさんの作品がこの問題を考えています。
たとえば『ドラえもん』の「どくさいスイッチ」の回もそうですし、『新世紀エヴァンゲリオン』の「人類補完計画」もそうでしょう。
最近では、『攻殻機動隊』の最新作もちょっとあたらしい形でこのテーマを扱っていました。そして、このSF的なテーマはまさに近未来において現実になるはずです。
いずれ、ぼくたちは本質的に人間を傷つけることがないように調整され、しかも一定の個性を感じさせる程度には「他者性」がある人工知能を友人として暮らしていくようになるかもしれないということ。
その世界は、はたしてユートピアといえるでしょうか?
【『進撃の巨人』のグロテスク】
ここでぼくが思い出すのは、たとえば、きわめてグロテスクなヴィジョンを描くファンタジーである『進撃の巨人』が大ヒットを遂げたことです。
一見すると、カルト的とも、マニアックとも見えるこの作品がメジャーヒットしたのは、いまの時代がそのような「気持ち悪いもの」、つまり「他者なるもの」を求めているからではないでしょうか。
かつて、『エヴァ』の劇場版で、惣流・アスカ・ラングレーは「気持ち悪い」と呟いて幾多のオタクを「決定的に傷つけた」わけですが、その種の「魅力的な加害性」が『進撃の巨人』にもあるでしょう。
ただし、それは『エヴァ』よりももっと完成されている印象です。それでも『進撃の巨人』の場合はまだわかりやすいですが、たとえば『推しの子』あたりはもっと巧みに「気持ち悪さ」と向き合っているように思います。
【『推しの子』はなぜ「気持ち悪い」のか】
『推しの子』という作品は、キラキラしたアイドルの世界を描きながらも、何とも近親相姦的な「性のにおい」をただよわせることで、「とても綺麗なのに、なんとなく気持ち悪い」世界を創りだしています。
その気になれば、この「気持ち悪さ」を消し去ってただキラキラしているだけの作品を生み出すこともできたでしょう。しかし、そのような『推しの子』はやはりあまり魅力的でないような気がします。
『推しの子』は、やはり「気持ち悪い」からこそ、絶妙な「他者性」が感じ取れて面白いわけです。そして、その「気持ち悪さ」の質は『エヴァ』あたりと比べてとても現代的に感じるのですね。
そう、いわば、「気持ち悪さ」が洗練されている。ぼくは、晶文社のnoteに掲載された以下の記事でこのように書きました。
そして、そうやって堅実に操作しようとすればするほど、人生は退屈な予定調和の連続となる。それは本来、どこまでもワクワクする大冒険であるはずなのに。
たしかに、まったく無知なまま無作為な選択を続けて生きていくことはできない。それが食べログか、Amazonレビューかはわからないが、何らかの道しるべが必要になることはたしかだろう。
だから、大切なのは一切の道標をあてにしないことではなく、「そうやって情報を調べ尽くせば最善の選択が可能である」という考え方をやめてしまうことだ。
めざすべきは常に「いま」のチョイスを楽しむことであって、ただただ安全に、大きな失敗を犯すことなく無難に生き抜くことではないのである。
『推しの子』は、この「試行錯誤の冒険」をひとつの作品内に内包しているともいえます。次に何が出て来るかわからない、こちら側の予想を外してくることによる「他者性」、あるいは「冒険性」。
いい換えるなら、『推しの子』という作品は、読者とのあいだの「絶妙な距離感」で成り立っているように思うのです。何となく気持ち悪い、でも、決して完全に突き放しているわけではない、そんな印象。
求められる「他者性」のラインのギリギリのところをダンスしている感じ。
それは、あるいは将来、AIがたどりつく理想のフィクションの形に近いものであるのかもしれませんし、それすら超えて来るのかもしれません。
ここにあるものは、ただ「気持ち良い」だけのエンターテインメントはじつは「気持ち良くない」、「気持ち悪い」要素を孕んだものこそが「気持ち良い」という逆説です。
『進撃の巨人』や『推しの子』の「気持ち悪さ」は確実に「ウェルテル的」に他者の一面を孕みながら、しかし慎重に計算されてもいる。
ただ「気持ち良い」だけではなく、そうかといって「気持ち悪い」だけでもなく、しかも、いつその「通常許容される他者性の限界」の線を乗り越えて来るかわからないような、ゾクゾクするような物語。
これが、現代のエンターテインメントの最前線です。
いつの日か、ChatGPTは「どくさいスイッチ」や「人類補完計画」の夢を見るかもしれません。しかし、その世界は退屈しか生まないことでしょう。そうかといって、完全に突き放されてしまったら辛い。
エンターテインメントは、というかあらゆる表現は常にその境界線でダンスを踊る。そして、その舞踏はいま、とても洗練されてきている。ぼくは、そう考えています。
あなたはどう思いますか?
【配信サイトリスト】
お試しに「取り上げた作品の配信を一覧にしたリスト」を作ってみました。今回、取り上げた作品『推しの子』は最新第11話まで以下のサイトで見ることができます。ご参考になさっていただければ。
なお、更新日以降、情報は変更されることがありえます。完全に正確なところはご自身で判断をお願いします。
【お願い】
この記事をお読みいただきありがとうございます。
少しでも面白かったと思われましたら、やTwitterでシェア
をしていただければ幸いです。ひとりでも多くの方に読んでいただきたいと思っています。
また、現在、記事を書くことができる媒体を求めています。
この記事や他の記事を読んでぼくに何か書かせたいと思われた方はお仕事の依頼をお願いします。いまならまだ時間があるのでお引き受けできます。
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簡易なポートフォリオも作ってみました。こちらも参考になさっていただければ。
【電子書籍などの情報】
この記事とはあまり関係がありませんが、いま、宮崎駿監督の新作映画について解説した記事をまとめた電子書籍が発売中です。Kindle Unlimitedだと無料で読めるのでもし良ければご一読いただければ。
また、オタク文化の宗教性について考える『ヲタスピ(上)(下)』も発売しました。第一章部分はここで無料で読めますので、面白かったら買ってみてください。
その他の電子書籍もKindle Unlimitedで無料で読めるのでもし良ければご一読いただければ。
『ファンタジーは女性をどう描いてきたか』はファンタジー小説や漫画において女性たちがどのように描写されてきたのかを巡る論考をはじめ、多数の記事を収録した一冊。
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【おまけ】
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でわでわ。