ボディポジティブという言葉があります。
ここ10年ほどで「美の基準」は大きく変化している。雑誌の表紙や広告で見かけるのは、さまざまな肌の色、体型、人種、ときに性別さえも問わないモデルたち。多様性を受け入れ、排他的にならず個を尊重するマインドは昨今あらゆる業界で重要視されている。
とりわけムーブメントとして顕著なのが「ボディ・ポジティブ」だ。ボディ・ポジティブとは、社会や他人が決めた「理想的な体型・外見」に左右されず、自分の身体をポジティブにとらえるという考え方。この価値観が広まったことで、スリムで痩せていることを良しとする、従来の美の定義は崩れつつある。
ひとまずは、このような「理念」であり「思想」だといって良いでしょう。
「自分の身体をポジティブにとらえる」。何かと外見で判断されがちなこの社会において、その理念はすばらしいと思います。
じっさい、ただそれだけなら文句なしに支持したいとは感じるところ。
しかし、一方でどうにも「綺麗ごと」という印象は拭えません。じっさい、Googleでこの言葉を入力すると、「甘え」とか「言い訳」とか「嫌い」といったネガティブな単語がサジェストされてきます。
そして、また「ボディポジティブ・ムーブメントの急速な商業化」という問題もあります。
ボディポジティブはその言葉の意味からして「自分たちのありのままの姿を受け入れよう」という、つまりは体にまつわる差別を無くそうという運動のはずだ。太っている、傷があるなど、「普通とは違う」自分の体を恥ずかしく思わされがちなこの世界で、これ以上ない力強いメッセージだ。
けれども、このムーブメントが広まるにつれてボディポジティブ自体を商品化するような傾向も顕著になってきた。誰でも参加可能であるがゆえに、さまざまなブランドやセレブリティたちが商業目的にこの言葉を乱用し、次第に政治的な意味を帯びるようになった。その結果として、一定のサイズ以上の人や特定の人種の人が議論から排除されるという、本末転倒な状況が生まれてしまった。
いったいわたしたちは「ボディポジティブ」をどのように受け止めていけば良いのでしょうか? もう少し考えてみましょう。
まず、一考するべきなのは「理念」と「現実」の乖離ではないでしょうか。
「どのような身体でも愛するべき」。その理念はなるほど、高潔であり高尚でしょう。
ですが、じっさいには現実の社会はあいかわらず「痩せていること」を称揚しています。芸能人や有名人がちょっとでも太ると「激太り」と攻撃、揶揄されることはご存知の通り。
社会は特に女性に対して「もっと痩せろ」というメッセージを発しているわけです。それは根底のところで拒食症などと呼ばれる「摂食障害」にも一脈通じていることは間違いないでしょう。
そう、たしかにわたしたちの社会はいかにも「病んでいる」。それをもう少し「健康」に近づけようとする運動こそがボディポジティブであるのだと思います。
しかし、そうやって急速に社会を変えていこうとする運動は、その必然として現実離れしてきます。
だれもが本心では「痩せているほうが美しい」と思っていても、表面的には「多様性は素晴らしい」とか「ありのままの身体が良い」と口にする社会は果たして健全といえるでしょうか?
ひとつボディポジティブに限らず、左派リベラル的なムーブメントに常につきまとう問題として、その現実のありようを無視した極度の急進性があります。
ある「理想」と「現実」とのあいだにギャップがある場合、それをすぐにでも「理想」のままに変更するべきであるというのが左派的な運動の基本姿勢といって良いでしょう。
なるほど、それはいかにも正しい姿勢であるように思える。ですが、どうしてもそこには現実とのあつれきが発生せずにはいられません。
そのひとつの表れとして、たとえば「スキニーシェイミング」があります。
「スキニーシェイミング」とは何か? ある他者の身体について批判したり、意見を述べたりすることを「ボディシェイミング」というのですが、特に痩せ型の人(「スキニー」)に対し攻撃的に言及することが「スキニーシェイミング」です。
そう、「ありのまま」を愛することを薦めているはずのボディポジティブは、なぜかいまやスキニーな体形の人物に対する敵意ある攻撃と化し、差別的な発言がくり返されているのです。
渦中の人物となっているのは @yelenalala (以下イェレナ)というアカウント名でTikTokを使用している女性で、旅先でのファッションやライフスタイルを発信するインフルエンサー。身長168㎝、体重46㎏を公表しているイェレナは、その体型についてコメントされることもしばしば。多くは「痩せすぎ」「もっと食べるべき」「身長に対して46kgは不健康の証」など、スキニーシェイミングにあたるものばかり。
グラマラスなボディで知られた歌姫・アデルがダイエットした時、一部の人から心ない非難が寄せられたのはその典型だろう。実に45キロという減量でスラリとしたアデルが登場した時「見損なった」「元のあなたのほうが好きだった」という声が少なからず寄せられた。それに対して、アデルは釈明せざるをえなくなる。いわく、睡眠障害を克服するためにエクササイズした。ダイエットはしていない。ボディの変化はすべて、自分のために行ったことなのだ、と。だが、アデルに対する外野からの無責任なバッシングに「痩せたいから痩せた、でもいいんじゃないの?」という声が高まったのは事実
まさに度しがたいとしかいいようがありませんが、このような事例は人間がいかに「標準的な身体」という幻想にこだわるものであるのかを物語っているでしょう。
「ありのまま」であるべきという理念は、そのままひとつの呪縛と化し、「ありのままでいようとしないなんてあなたはおかしい!」という罵声へと変化してしまったわけです。
しかし、人の体形は人それぞれ、一概に痩せていることが病んでいるとはいえません。
そして、もっというなら、「病んでいることは醜いこと」なのでしょうか? 人はどうしても「健康」であるべきなのでしょうか?
摂食障害の女性たちを肯定的に描いた『痩せ姫』という本がありますが、わたしたちはこのような主張の存在をどのように受け止めるべきなのでしょうか。
真にボディポジティブな立場に立つなら、「病んでいるわたしをも肯定する」べきでは? あるいはそのような立場に立てるなら、もうその人は病んでいないかもしれませんが……。
さて、こういった諸々の問題を受けて、「ボディポジティブ」をさらに進化させた「ボディニュートラル」という概念が出て来ます。
これは、自分の身体を無理に愛そうとしなくても良い、ただ自分がいまその体型であることを受け入れようという発想であるようです。
現在、欧米を中心に巻き起こっている「社会が何と言おうと、どのような体型でもその人はありのままで美しいのだ」というボディ・ポジティブの考えとは違い、「自分の体型が気に入らないときがあってもいい」と中立的に許容するような考えだ。
ボディ・ニュートラルでは「痩せたい」「セクシーさを強調したい」「ふくよかでいたい」と思うのは各人の自由で、無理にコンプレックスを乗り越えようとしたり、現在の自分の体型に対してポジティブになったりする必要はない。
ありのままの自分を愛せと言われても、自分の体型がまず好きじゃないからなぁ……と振り切れない人や、ポジティブな言説に少し疲れている人には自然と理解しやすい考えである
「ありのまま」であることの何とむずかしいことか。
そう、本来、ボディポジティブとかボディニュートラルといった概念は、単にプラスサイズを肯定することに留まらないはずです。
どのような体型であっても自分の身体であり、それを受け止めて可能ならば受け入れる、そのような姿勢が重要なのではないでしょうか。
ところが、じっさいにはどうしても「あるべき理想の身体」の幻想がわたしたちを縛る。
それは、わたしたちがじっさいに他人から身体をジャッジされつづけているからでもあります。
たとえ、その人がボディシェイミングを避け口にはしないとしても、「他人の目」は確実に存在する。故にわたしたちの多くはそのジャッジを内面化せずにはいられないわけです。
それが「ボディネガティブ」の根本的な理由です。
『133㎝の景色』というマンガがあります。非常に面白い作品で、Amazonレビューの評価も平均4.9と尋常でなく高いのでぜひ読んでもらいたのですが、これは身長わずか133㎝、子供のような外見で苦労している女性を主人公にした(ラブ?)ストーリーです。
彼女は内面的には成熟しているにもかかわらず、その外見からどうしても「一人前の大人」としては扱われません。
そしてしばしば外見について陰口を叩かれます。これはある種の「スモールシェイミング」といえるかもしれませんが、人はいたって無邪気に他者の外見をジャッジし、シェイミングするのです。
そのような状況下で「ありのままの自分自身であること」は容易ではありません。否、そもそも人が「ありのまま」であることなどそもそも可能でしょうか?
人は常に周囲の影響を受けて揺らいでいるものであり「アイデンティティ」とか「ありのままの自分」など幻想に過ぎないのでは?
もちろん、この社会においてダイバーシティ(多様性)やインクルージョン(包摂)といった理念はたしかに必要でしょう。
ですが、そういった言葉だけが氾濫し、現実に多様な身体や精神のありようが許容されないならば何の意味もありません。
ボディポジティブとかボディニュートラルという「標語」はなるほど、いかにも正しい。問題はその言葉をどれほど真摯に受け止め、実践していくかです。
「どのような自分であっても肯定する」。理屈はわかる一方で、その実践は何とむずかしいのでしょう。
太っていても、痩せていても、背が高くても低くても、傷があっても障害があっても、わたしはわたし。かけがえのない存在。そう思えるようになるための壁はあまりにも高い。
もう何年も「全身性円形脱毛症」の治療を受けつづけている患者のひとりとして、そのようなことを、思います。
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