このようなツイートを見かけた。
「強い女」概念、しばしば「わがまま」とか「男をいじめたりアゴでこき使う」になりがちで、まあある種の願望の発露なんだろうけど、「え~、君にとっての『強い』ってそういうことなんだ…」と思ってしまう。
それってサル山のボス的な強さであり、「有害な男らしさ」に属するものじゃないかなぁ。
— 新納 (@niinow_g) 2023年10月22日
ここから「強い女」を巡るやり取りが色々と広まっていったようだ。たとえばこういう話もある。
「強い女」、個人的には、正直なところ草薙素子とかエボシ様とかそこらへんの偉大なる前例が良すぎて、そこから発展させるのがすごく難しく感じる次第です(宮崎駿とか富野由悠季とか押井守とか庵野秀明とか幾原邦彦とかが描いてきた「強い女」の引力が強すぎるんだ! 助けてくれ!!!!)
— 籠原スナヲ (@suna_kago) 2023年10月23日
「あなたは死なないわ。私が守るもの」←これが強い女のセリフです。
あと「碇君が、もうエヴァに乗らなくてもいいようにする」も好きです。お前が綾波派なだけでは???? はい、そうです……
— 籠原スナヲ (@suna_kago) 2023年10月23日
で、基本的にはこのツイートの意見が正しいように思われる。
日本の漫画に強い女はいるかという話、こういうのはまあそもそもが「強いって一体なんですか?」という定義の問題というのがあって「強いとは〇〇だからこう」「いやいや××だからこう」と各々が各々で考える強さを元に話を始めるもんだから無理に議論を始めると例によってワヤクチャになりがちという。
— スパイクさん(CV:東海林勝秋) (@alice71345) 2023年10月23日
そもそも「強い」とは何か、という問題なのだ。
日本のマンガやアニメには、男性に伍して、あるいはそれ以上に実力を発揮する「強い女」がたくさん登場する。
『攻殻機動隊』の主人公・草薙素子や、宮崎駿の作品に登場する強烈な女性たち、あるいは、上で触れられている綾波レイやアスカ・ラングレーのような「戦闘美少女」たち。
彼女たちは身体能力的な意味で屈強な戦士ではある。しかし、だから、日本の(男性向けの)マンガはちゃんとそういう「強い女」を描いているのに、フェミニストどもが思い描く「強い女」はただわがままなだけだ……みたいな論調に話が持って行かれるのを見ると、いやいや、ちょっと立ち止まって考えてみよう、とは思う。
「強い」とはただそれだけの意味なのだろうか。もっと深い意味合いがありえるのではないか。
もちろん、草薙素子やナウシカはただ肉体的な強さだけではなく、非常なリーダーシップを備えた女性たちでもある。
素子はそれぞれの分野におけるスーパーエースぞろいの「公安九課」を束ねる天才だし、ナウシカはほとんどカリスマ的な指導者だ。
彼女たちはハリウッド映画では最近になるまでめったに描かれなかったようなキャラクターであり、日本のマンガの思想的な先進性を表象しているといっても良いかもしれない。
わたしはその点に関しては素直に認めても良いのではないかと思っている。
ただ、それでは素子やナウシカのようなキャラクターこそがほんとうの本来あるべき「強い女」であり、理想的な女性ヒーローなのだ、といえるかというと――どうだろう。
素子もナウシカもそれぞれ強烈に魅力的なキャラクターではあるが、「強い女」を代表するには少々理想化され過ぎている印象があることはたしかである。
少女が見て「こういう風になりたい!」と思うモデルとしては、あまりにも特殊過ぎる印象なのだ。
ナウシカの高度な完璧さについてはいうまでもないし、素子に至っては、そもそも出生時の性別が女性だったのかどうかすら実際のところ、定かではない。
いや、色々な「ユニバース」、あるいは「世界線」で最終的に人間を超えた超越者になってしまう彼女にとってはそれはほんとうにどうでも良いことなのかもしれないが……。
つまり、彼女たちを「強い」と認めるとしても、それはあまりに逸脱的な「強さ」であって、とてもマネできるようには思われないという問題があるように思われる。
あるいはマネをしようとしたらひどい目にあってしまうということもいえる。ナウシカに関してはさまざまな女性たちが共感と反発を語っている。
もちろん、こういったキャラクターは「男性向け」の作品の「強い女」なのだから、べつだん、女性に影響をあたえられなくてもかまわないはずだということはできる。
しかし、同性にとって共感とリアリティが感じられないキャラクターにはやはり問題があるように、わたしには思われる。
また、もうひとつ、これもいくつかのツイートで語られていることだが、そもそもこういった女性たちの「強さ」が、ほぼ男性的でマッチョな「強さ」そのものであり、そこに「女性らしさ」がともなっていないとする指摘もある。
つまりは「中身は男なんじゃないか」ということだ。
これはむずかしい問題ではある。じっさい、「男性向け」のマンガを読んでいると、まったく女性的な一面を感じさせない、それでいて外見は美女だったり美少女だったりする「強い女」を見かけることはある。
そういうキャラクターを見ていると、あまりにも男性的な内面ではないか、と感じる。
だが、そもそも「女性らしい」とはどういうことかと問うことはできるだろう。
男性的な内面と感じるのは、それはあなたが女性に対し偏見を抱いているからだ、現実には「男性的」と見る女性だっていくらでも存在する、と返すことは可能だとは思う。
それはそうだ。だが、その一方で、男性的価値観を相対化できていない「強い女」キャラクターには、やはり一定の限界を感じる。
「男性が決めた男性的な強さ」で勝負しているかぎり、多くの場合、男性が勝つことになるのは必然だし、そういう「勝負の土俵」そのものをぶち壊すようなキャラクターを見てみたいのである。
その意味で、たとえば『この世界の片隅に』は印象的な作品だった。
この作品の主人公である鈴さんは、一見するとまったく「強い女」には見えない。むしろ控えめで、ぼんやりとしていて、ときにはくよくよしたりすることもある、平凡で、どこにでもいるような「ありふれた弱い女」と見えすらする。
彼女は欧米フェミニズム的な意味での「強い女」像からすれば、まったく物足りないキャラクターには違いないだろう。
『この世界の片隅に』がアカデミー賞を受賞できなかったことも、そこら辺に理由があるかもしれない。
だが、その「弱い」鈴さんは、物語の最終盤、戦争が終わり、すべての男たちが戦いを投げ出したときになって、「まだ戦える!」と叫ぶのである。
「弱く、平凡」であったはずの彼女が抱えた燃えるたましいがあらわとなる、その、血の絶叫は凄まじい。
ここにおいて、鈴さんの「運命を受け入れる」ことの「強さ」があきらかになる。
いわゆるフェミニズム的な「強さ」が結果的に単なるマッチョイズム、「有害な男性性」と名指しされるものとどこかしか似通ってしまうことがあるのに対し、鈴さんの「強さ」は静かで受動的で、しかし決して揺らがない。強烈である。作者であるこうの史代の思想を感じる。
また、そういった彼女の「内に秘めた強さ」は彼女の義姉などのキャラクターと対比されることでいっそう際だつ。
その上、色々な作品を読んでいけばわかることだが、こうの史代はあきらかに「女の子」を描くことにフェティッシュなこだわりを持った作家である。
そこには「ほんとうに強いとはどういうことか」という問いに対する、ひとつのアンサーを見つけられると思う。
そして、また、こうの史代作品には色々なタイプの「強い」女性が登場する。そこにはあきらかに、百合とまではいかないにせよ(たまにいってしまっているが)、シスターフッド的な絆が確認できる。素晴らしい。
鈴さんの強さは『ONE PIECE』のルフィのような「強い強さ」ではまったくない。
それはむしろ「弱い強さ」なのであり、そのいい方が悪いなら「しなやかな強さ」とでもいうべきものである。
その「新しい(だがほんとうはかぎりなく古い)強さ」を備えた「強い女」をわたしは支持するものである。
もっとストレートな「男性向け」の作品に目を向けるなら、やはり『鬼滅の刃』あたりが思い浮かぶところだろう。
いわずと知れた『少年ジャンプ』の大ヒット作である。しばしばジェンダー観の古さを指摘される『ジャンプ』にあって、『鬼滅の刃』もそのような文脈で批判されることもあった。
ただ、じっさい『バクマン。』のようなどうしようもない性差別オヤジ的な視点が垣間見えるものもあるにはあったものの、一方で『ジャンプ』も変わりつつあることはたしかだ。
そして、『鬼滅の刃』はひとつの「新しい強さ」を提示しているとも思われる。そのことについては、以前、書いた。
さらに付記すると、『鬼滅の刃』の女性陣はそのクールでロジカルな「長期的な戦略」によって、単に前線で戦い死んでいく者たちとはまた一風異なる活躍を見せている。
その点については、以下の記事がくわしい。
そういう意味で、vs童磨戦の胡蝶しのぶの最後とか、vs鬼舞辻無惨のタマヨさんの最後とかは、ちょっと「男社会原理主義者」みたいな人から見てもぐうの音の出ない「柱っぷり(タマヨさんは柱じゃないけど)」というか、さっきも書いたけど「ジョジョ第二部のシーザーの最後」を超える責任感がある感じで。
ちょっと言っちゃなんですが「シーザーの最後」はひょっとすると単なる自己満足に終わる可能性だってある行為だったけど(単に自分がカッコいい死に方をしたい・・・というエゴだと言えなくもない・・・”そういう男のエゴ”を女の人が嫌う気持ちは確かに意味があるとも思う)、胡蝶しのぶ&タマヨさんは「戦略上の圧倒的合理性」を持って千年以上続く鬼と人間の戦いのターニングポイントを自らの手で作り出したぐらいの「凄み」がある。
童磨や鬼舞辻無惨が「遅効性の毒」が効いてきたのに衝撃を受けるそれぞれのシーンとか、「男社会の中だけの争い」では決して生み出されなかった展開だと思うわけです。
単なる「銃後の守り」とかそう言うんじゃなくて、女性だって「それぐらい話全体のコアとなるような重要な責任を果たせるのだ」というストーリーを、「男社会原理主義者」みたいなのですら文句のつけようもない説得性ある展開で描ききること・・・これ以上のガールズエンパワーメントはないんじゃないか
・・・と思ったりします。
一千年にわたってつづく鬼と人との闘争を終焉に導くべく、みずからの落命すら計算に入れて、したたかな戦略性をもって無敵の無惨を追い詰めていく、『鬼滅の刃』終盤における彼女たちのそのあまりに怜悧な攻撃は、まさに「かっこいい」としかいいようがない。
その描写は『ジョジョ』におけるシーザーやアバッキオといった男たちの「献身と自己犠牲」に比べても、よりクールである分、ゾクゾクするような鋭さを感じさせるのである。
こういった描写は、やはり「ガールズエンパワーメント」の一助となる側面を持っているのではないか。
いや、『少年ジャンプ』は「少年マンガ雑誌」なのだからそのような描写は不要である、ただ少年たちの心を揺らすものだけを描いていれば良い、そういう意見はありえるだろう。
しかし、ここでの「新しい意味での強い女」たちの活躍を見ていると、そのような意見は却下されてしかるべきなのではないかと思えてならない。
じっさいに『鬼滅の刃』には多数の少女をも含む女性読者がいるわけであり、女性を単に「弱く」描くことはビジネスとして見ても致命的な欠陥になりえる。
また、そもそも、現代において『ジャンプ』を初めとする「少年マンガ」がほんとうに「男性向け」のジャンルなのかということも問われて良いだろう。
長年、男性というか少年を中心にしたストーリーを描き出してきた『ジャンプ』のマンガだけがなしえるガールズエンパワーメント――そういうものもあるのかもしれない。
そして、ここで重要なの、ある肉体的な、性格的な、指導力的な「強さ」だけを特別に価値があるものとみなすのではなく、色々な「強さ」がありえることを自明の前提とする「強さの多様性」なのではないかと思うのである。
ひと口に「強い女」といっても、その「強さ」にも色々ある。
あたりまえといってしまえばこれ以上なくあたりまえのことだが、じっさい、いままで少年マンガなどの「男性向け」コンテンツにおいて、「女性の強さ」はそこまで多彩に描かれて来なかったのではないか。
その昔は、少年マンガではそもそも女性のキャラクターそのものが多様性を欠いていた。それが長い時間をかけてさまざまな女性像を描けるようになった。
同様に、「強い女」像も多様になっていったら面白いことだろう。ひとりのマンガファンとして、わたしはごく素朴にそのようなことを考えている。
色々な意味での「強い女」がときに協力しあい、ときに覇を競い合う。そういうマンガを読んでみたいと切望するわけなのである。
もっと色々な「強い女」を!
わたしは、叫ぶ。いつの日か、必ず、世界はこの絶叫に応えてくれることだろう。
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