男女のあいだで対等な関係は成り立つのか?

 惹かれ合う「男性」と「女性」は、どうすれば対等でありえるのか?

 先日、よしながふみさんの最新刊『環と周』を読み終えました。

 いわゆる「転生もの」で、環(たまき)と周(あまね)という名前の人物が幾たびとなく生まれ変わっては巡り会うところが描かれています。

 ちょっとなつかしの名作『久遠の絆』や、手塚治虫の『アポロの歌』を思い出しますが、ふたりの性別や年齢や関係性がそのつど異なるところが新しい。

アポロの歌 1

アポロの歌 1

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 環と周は生まれ変わるたびに男にもなり女にもなり、必然、ふたりの関係も男女だったり、女性どうしだっり、大人と子供だったり、じつにさまざまなのですね。

 カップリングオタクとしてはNLとかBLとかGLとかいう言葉が思い浮かぶところですが、ここで描かれている関係は必ずしも恋愛とは限らない。

 ここではもはや、ほんとうに問われているものはふたりの惹かれ合う「魂」のみであって、男性とか女性といった性差はほとんど問題になっていないといっても良いかもしれません。

 ぼくは決してよしながふみの良い読者とはいえませんが、それでも文句なしに傑作だと感じます。

 全一巻で完結していて読みやすいので、これからよしなが作品を読もうと思っておられる方もぜひどうぞ。

 さて、この作品を読むにあたり、よしながさんの対談集『あの人とここだけのおしゃべり』を読み返してみました。

 いままでも何度か折にふれて、くり返し、くり返し、読んできた本です。

 この本はよしながさんといろいろな作家さんの対談集であると同時に、彼女の「男女論」になっているところがあって、とても興味深い。

 あるいはよしながふみのマンガに興味がない人も、これだけは読んでいても良いかもしれない。そのくらい面白い。

 まあ、ほとんどBL(ボーイズ・ラブ)の話なので、そこら辺が苦手でなければ、という注釈は付きますが。

 でも、ほんとうに面白いので、オススメです。たとえば、こんな話が出て来る。

よしなが どうして女の子が男の子同士のものが好きなのかっていうとね、ひとつは、男の子は女の子に憧れないけれど、女の子は男の子に憧れるからだと思う。
こだか あー、なるほど。

 いま読むとちょっとどうなんだろうと思いますよね。この本は2007年の出版なので、それから2023年のいままで16年が経っているわけだけれど、その16年間でかなり状況は変わったのだと思います。

 もちろんいまでも女性ないし女性的なものにあこがれる男性は少ないかもしれないけれど、一部オタク男子はふつうに女性にあこがれを抱くのではないかな。

 あるいはとくに百合男子は女性にというより、女性どうしの関係の特性に惹かれる一面があるかもしれません。

 つまり、女性どうしの友人関係って非常に距離感が近いことがありえますよね。あれはひとりの孤独なおっさんから見てうらやましいです。

 それをネガティヴに捉えると「ベタベタしている」ということになるのだけれど、ポジティヴに受け止めると親密性が高いということになる。

 

 

 よしながさんが整理している論点を見ていてたぶん女性から見たときに想像しづらいかもしれないと思うのは、男同士の友人関係がいかに寂しいかということですね。

 ぼく自身はそうとうおっさん同士でベタベタしているほうだと思うけれど(笑)、それでも男性どうしの関係には近づける距離に限界がある。

 男性は平均的に見たとき、多くの女性よりずっと寂しい生きものなのだと思います。たぶん男性の自殺率の高さはそこと関係がある。

 もちろん、それが女性から見たとき、良い関係性に見えることもわかる。よしながさんがいう「やおい関係(たがいに対立しながらも認め合っている関係)」ですね。

 よしながさんはそういう、見た目には仲良くはないんだけれど、じつはつよい信頼があって、それであいてが困り果てたときにはちょっと助けてやるみたいな関係にものすごい興味があるようです。

 それを男どうしでも女どうしでも男女でも描こうとしているのだと思う。

 でも、男から見て思うのは、それはじつは寂しいんだよということですね。

 男同士はどうしてもある種のライバル意識があることもあって、あまり過度に仲良くしたりできない。

 男同士で仲が良いと、たがいに認め合うほどに距離が遠くなっていくようなところがあります。

 それはたしかに対等で認め合っていて信頼し合っている関係なのだけれど、一方で孤独とうらはらでもある。ベタベタできないから(笑)。

 だから、結局のところ、男性も女性も自分に欠けているものを異性どうしの関係のファンタジーに見いだそうとするのかもしれません。

 ちなみに、よしながさんは桜庭和樹さんとの対談のとき、『砂糖菓子の弾丸は打ち抜けない』のふたりは「やおい」である、といっています。

 これはよくわかる。一貫していますね。

 「やおい関係」とは、ある種、強烈にハードボイルドな人間関係だということができると思います。

 ここで思い出すのが少女マンガ史上の女性どうしのライバル関係に着目した藤本由香里さんの連載「ライバルとシスターフッド 少女マンガのアンチ☆ヒロイン」で、これはいい換えるならつまり女性間の「やおい」に注目した連載といえるのではないでしょうか。

 じっさい、よしながさんは『ガラスの仮面』のマヤと亜弓の関係に「やおい」を見ているらしい。なるほど、よくわかる。

 『魔法少女まどか☆マギカ』が一部女性に妙に人気があるのは、あの作品が少女のあいだで「やおい」をやっているからじゃないかなあ。そんな気がします。

ガラスの仮面 1

ガラスの仮面 1

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 で、問題はそのような「対立と信頼を孕んだ対等な関係」は男女間でも成り立つのかどうかです。

 そう、少年マンガには腐るほど男同士の「やおい関係」が出て来ますが、たしかに男女ではそれはあまり成立しないようにも見える。

 ぼくが『ONE PIECE FILM RED』に注目するのはそこですね。

 あれは『ONE PIECE』の一エピソードであるように見て、その実、『ONE PIECE』そのものを内側から突き崩しかねないアンチ『ONE PIECE』ともいうべき映画だと思っています。

 『FILM RED』はじっさいにはルフィの物語というよりはウタの物語で、しかもウタの物語は最後までルフィの物語に従属しない。ルフィとウタは対等なんですね。

 よしながさんのいう意味での「やおい関係」とはちょっと違うかもしれないけれど、非常に魅力的な関係だと思います。

 で、そういう関係に人はどうしても恋愛を投影したくなるもので、だからネットにはウタとルフィのカップリング妄想が山ほどある。

 カップリングはそのふたりのあいだにどこか対等性がないと面白くないんじゃないでしょうか。

 さらにぼくが思い出すのが、男性学論者の熊田一雄さんのやはり16年前の記事です。 

 そこで、かれは高橋留美子の『うる星やつら』、『めぞん一刻』、『らんま1/2』、『犬夜叉』といった作品を取り上げ、そこでの「ハンディ・ゲーム」について考えています。

 英文学の古典「ジェーン・エア」(1847)について、ジェーン・エアは、ロチェスター伯爵が火災で家屋敷(と元妻)を失い失明する一方で、自分の方は「叔父の遺産」を相続した時に、始めて伯爵のプロポーズを受け入れるが、そこに女性作者シャルロット・ブロンテ(1816-1855)の男女間の権力関係についての近代的な醒めた認識がある、と聞いたことがあります。近代社会では、男性に何らかのハンディをつけなければ、男女間の「対等な対」を説得的に描くことができなかったのでしょう。

  1980年代に入る頃から、高橋留美子は、ラヴ・コメ漫画において男性主人公にはのハンディを設定していきます。「うる星やつら」(1978-1987)では、鬼娘ラムには「飛行と電撃の能力」を与えました。「めぞん一刻」(1980-1987)では、管理人の響子さんには「アパート一棟の所有権」を与えました。その後、「らんま1/2」(1987-1996)で、男にも女にもなりうる「思春期の怪物的身体」(J・Napia)を実験的に書いた後、現在の高橋留美子は、「犬夜叉」(1996-続刊中)において、ついにほとんどノー・ハンディの恋愛に挑戦しています。

 いつもセーラー服を着ている犬夜叉のヒロイン・女子中学生の「かごめ」は、もはや超能力も不動産ももっていません。ただし、半妖(妖怪と人間のハーフ)のヒーロー・犬夜叉の頭にはわっかがはめられており、かごめが「おすわり」(英訳では“Sit!”)と「玉鎮めの言霊」をかけると、地面にたたきつけられて腰砕け状態になってしまいます。恋愛関係において、男性には、まだわずかにハンディが残されています。 

 つまり、男女のあいだで「やおい」的に対等な関係を描くためには「ハンディ」が必要だということです。じっさい、『犬夜叉』はやたら女性人気が高いですよね。

 これもよくわかる話で、よしながさんが『大奥』で描こうとしたのはこれだといって良いのではないでしょうか。

 彼女は同人作家時代、『ベルサイユのばら』の本を出していたそうですが、それもようは男女の「やおい関係」を描こうとしていたのでしょうね。

 また、ぼくは『Fate』の遠坂凛とアーチャーなんかにも似たような気配を感じます。

 アーチャーは男性である上に怖ろしい力をもつ屈強のサーヴァントで、本来、凛を圧倒するほどの力を持っているのだけれど、凛に「令呪」があることによってバランスがとれるわけです。

 もちろん、それでもなお、アーチャーはときに鎖を嚙みちぎって凛の支配を逃れてしまうわけですが。

 あるいは、男女にかぎらず、何らかの対等な関係を描くためには、こういった何らかの「ハンディ」をもちいた「バランス調整」が必要なのかもしれません。

 そのようにして初めて、一定の緊張感を感じさせる「対等な対(つい)」は成り立つ。ぼくはそんなことを思います。

 そもそも「対等」とはなんぞや、という問題もあるのだけれど、その話はまたいずれ。

 あなたは「対等な対」についてどんなふうに考えられますか。ぜひ、教えてください。お待ちしております。

 

 

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