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それでは、記事へどうぞ。
【毒を食む時代】
毒を食むことについて考えている。
この場合の「毒」とは、ひとつの比喩で、人間にとって害があるもの全般を指す。
害があるのならふれなければ良さそうなものだが、ご存知の通り、わたしたちはしばしばあきらかに有毒なものに耽溺してしまう生きものだ。
からだに悪いとわかっていても夜ごと深酒してしまったり、あるいはポテトチップスやラーメンを食べ過ぎてしまったりした経験が一度もないという人はむしろ少数派だろう。
「毒」という概念をもっと広く捉えるなら、危険だとわかっていても不倫に溺れてしまったり、搾取的なホストクラブに狂ったりすることもまた「毒を食む」ことに含まれると思われる。
なぜ、有毒で、害があるとわかり切っているものに浸ってしまうのか。その答えははっきりしている。快楽だからだ。
ドラッグ、アルコール、タバコ、セックス、スイーツ、ギャンブル、ダンス、ビデオゲーム、ロックやヒップホップといった刺激的な音楽など、ほとんどの快楽は行きすぎれば依存をひき起こし、人間に害を為す。
それでも、わたしたちは快楽を棄てて生きていくことはできない。
つまりはわたしたちにとって過剰にならない程度の「毒」は生きていくために不可欠なのである。
むしろ、「毒」を食むために生きているとすらいって良いかもしれない。
その意味で、「毒」はわたしたちにとって最も親しい存在だといえる。
もし仮にそういった「有毒の快楽(Toxic pleasure)」の一切を禁止してしまったら、そもそも何のために生きているのかわからなくなってしまうのではないだろうか。
だからこそ、わたしたちはそれが「有毒」であるとわかっていても、何とか折り合いをつけて快楽を味わいつづける。
「有毒快楽」は適正にコントロールし切れているかぎりは人生に豊饒な彩りをあたえてくれるのだ。とはいえ、いつ、そのコントロールは破綻するかわからないこともたしかなのだが……。
おそらく、だからなのだろう、この種の「毒」を孕んだ快楽の数々は、歴史的にしばしば不道徳なものとされ、禁止しようとする動きがあった。
【禁酒法という高貴な実験】
たとえば、いまからアメリカの有名な禁酒法などがわかりやすいだろう。
今日から見れば、その頃、「高貴な実験」と呼ばれた禁酒法は飲酒という「有毒の快楽」に対する不寛容運動のひとつであり、歴史的に重要な意味を持っているように思われる。
ただ、ご存知の通り、この法律はうまく働かなかった。供給が絶えても即座に需要がなくなることはないわけで、きびしい法律の陰で密輸や闇売買が横行し、結果としてアル・カポネなどのギャングばかりが栄えることとなってしまったのだ。
映画『アンタッチャブル』などで描かれた「ジャズ・エイジ(スコット・フィッツジェラルド)」なる狂乱と背徳の時代だ。
しかし、禁酒法の「実験失敗」は、わたしたちにひとつの重要な教訓をもたらしてくれたようでもある。
人がどれほどつよく「有毒快楽」を求めるものか、そして、単純に禁止すればその害を消し去ることができるというものではないということ。
つまりは、「有毒快楽」の害にばかり着目して、一律に法的な禁止を実施することはしばしば逆効果となってしまうのである。
同じようなことが薬物についてもいえる。世界各国で締結された条約による厳罰主義にもとづく薬物管理は、結果としてブラックマーケットを巨大化し、国際的な密売組織を潤わせることとなってしまった。
もはや麻薬密売組織は国家権力によってすら管理困難となっており、結果として薬物の被害者は何倍にもふくれあがった。
しかも、かれらはいとうべき「犯罪者」として、治療や回復などの道を絶たれることとなってしまったのである。
これもまた、ひとつの「高貴な実験の失敗例」というべきだろう。
【有毒快楽文化】
ことここに至ってわたしたちは悟るべきであるように思われる。ときに依存症につながるような「有毒快楽」がいかに危険に思えても、それらを法的に禁止して厳罰で縛り、社会から追放しようとすることはかえって害をもたらす可能性が高い、と。
それはたとえば売春の「北欧ルール」などについてもいえることだろう。
むしろ必要なのは、「有毒の快楽」の毒性を理解した上で、それを「ハームリダクション(被害低減)」してコントロールしようとすること、つまり「毒とともに生きていく覚悟を決める」ことなのではないだろうか。
麻薬摂取や買春といった行為は、それが快楽のビジネスであるの産物であるが故に、道徳的な非難を浴びやすく、「ダメ、ゼッタイ」といったゼロトレランス(不寛容)政策につながりやすい。
だが、じっさいにはその種の政策は社会をクリーンに磨き上げるどころか、いっそうダーティーに仕立て上げてしまうようでもある。結局のところ、人間は「毒」と縁を切れないのだ。
そして、また、見方を変えればわたしたちが好きでならないアニメやマンガ、アイドルといったポップカルチャーもまた、ある種の「有毒快楽」であることは論を俟たない。
それらは、ときに過剰にセクシャルで、グロテスクであり、極度にねじ曲がった精神の発露と思えることもある、きわだって「毒性」のつよい文化ではあるが、だからこそ「快」もまた大きい。
あえていうなら、地球そのものが壊れつつあり、湿潤な四季も失われようとしているいまの世界において、そういった「有毒文化(Toxic culture)」が流行することはひとつの必然であるようにも思える。
もはや、わたしたちの多くはそのようなグロテスクなまでに歪んだ文化にしか「快」を覚えることはできないのだということ、「健康」で「持続的」な文化では満ち足りないということだ。
もちろん、そういった「有毒文化」は「有毒」である以上、あるいは社会に悪影響を与えるかもしれない可能性を否定できない。
ダイレクトに犯罪を増加させるといった効果がないことはすでにさまざまな検証によって証明されているが、何らかの形で人の心に影響を及ぼさないとまではいい切れないだろう。
そこにたしかに「毒」が含まれていることは否定しがたいのである。
ただ、それでもなお、「有毒文化」からその「毒」を抜き取ろうとすることは、禁酒法や薬物禁止条約の失敗を見てもわかるとおり、うまくいかないだろう。
結局のところ、わたしたちは現代人もはや「毒」に慣れ、親しみ、「毒」への耐性すら身につけてしまっている、そういう段階にいるのだ。
生半可な「毒」では「快」を感じられないし、逆に深く傷ついたりもしない。あたかも宮崎駿『風の谷のナウシカ』の未来人類のように。
【毒と生きる】
もはやわたしたちの多くは「自然」や「健康」ではどうしたって満足できない。どこまでも毒々しく変質した快楽だけがわたしたちを満ち足りた気持ちにさせる。
とはいえ、その「毒性」は一時代に比べれば「リダクション」していることもまた事実である。
つまりは、わたしたちの社会はいままさに「有毒文化」のコントロールをどう試みるかというチャレンジに向き合っているところなのだ。
この「高貴ならざる実験」は、はたしてどのような結末に終わるだろうか。世界は狂い、腐り果てていく一方なのか、それとも……。
いずれにしろ、「毒」のない人生など退屈である。わたしはこれからも「有毒文化」とともに生きていく。やがて死の優しい指先がしずかにわたしの瞼をとざす、その、最後のひとときまで。
【参考資料】
【さいごに】
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それでは、またべつの記事でお逢いしましょう。