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「真のポケモン」?
「ポケモンのパクリ」とも「真のポケモン」とも呼ばれる日本発のインディーゲーム『パルワールド』が話題を集めている。
現状ではわずか3000円ちょっとで購入できるハードルの低さもあって、発売後わずか数日で600万本という凄まじい大ヒットを記録している。
国産インディーゲームでありながら世界に指さきがとどいたわけで、まさに歴史的快挙といって良いだろう。
しかし、その一方で露骨に『ポケモン』や『ARK』、『ゼルダの伝説 ブレス・オブ・ザ・ワイルド』といった先行作品を模倣したとされる倫理的な「お行儀の悪さ」も指摘され、人気と反発が相なかばする状況のようでもある。
ぼくはさほど『ポケモン』にくわしくはないが、じっさい、『ポケモン』と『パルワールド』を比較する画像などを見ると、「これはさすがにそっくり過ぎるな」とも感じる。
じっさいにゲームフリークや任天堂が法的な措置に至る可能性は低いと思うが、少なくとも創作倫理的な意味での「お行儀の悪さ」は否定し切れないようだ。
なお、多くの識者が指摘する『パルワールド』のヒットの理由をぼくなりに整理すると、以下のようになる。
①先行する名作のストロングポイントを積極的に模倣し、組み合わせたこと。
②なおかつ、それらの作品が踏み込まない倫理的に問題のある領域にまで踏み込んだこと。
③単純にゲームとしてクオリティが高いこと。
そして、また、
④模倣元である『ポケモン』が旧態依然としたゲームシステムを続けていたこと。
これも重要であるようだ。
たとえば、以下の記事ではこのように書かれている。
まず「ポケットモンスター」のいまについて語ろう。シリーズ最新作『ポケットモンスター スカーレット・バイオレット』はオープンワールドになっているし、『Pokémon LEGENDS アルセウス』では主人公を襲ってくるポケモンを避けるなどのアクション要素が追加されている。よってゲームとして進歩していなくはないのだが、その歩みはヤドンくらい遅い。オープンワールドを活かせているかというと微妙だし、バトルは結局のところコマンド選択式のレトロなRPGでありそれが根幹となっている。ゲームがあまり進化しない一因として、ポケモンがキャラクターコンテンツとして世界的に大人気であることが考えられる。つまり新しいゲームに挑戦する必要があまりなく、多くの人がクリアできるゲームとして出しておいて、キャラクターとしての人気が確保できればよいからではないか。https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/ar-BB1h9GJzwww.msn.com
いささか皮肉っぽいいい回しだが、いいたいことは理解できる。
いまやディズニーをも上回る世界最大級のキャラクターコンテンツである『ポケモン』は、一方で恐竜的に肥大化したビジネスになってしまった。
世界的に膨大な数のファンがいるため、必然的にそれらのファンを切り捨てるようなマネはできないのである。
つまり、ゲームの製作においても数多くの「制約」と「欺瞞」を抱える羽目になっているわけで、純粋な意味での「面白さ」を追求しづらくなっている一面はどうやらあるようだ。それを不満に感じる消費者層も多かったと思しい。
つまり、『ポケモン』に対してはより「進歩」したゲームシステムやグラフィックを希望する潜在的な需要があったわけである。『パルワールド』はその需要を掘り起こしたといえるだろう。
恐竜的に保守化したコンテンツをネズミのすばしこさで上回った、といえるかもしれない。
『ポケモン』の保守性。
とはいえ、話はそう単純ではない。
『ポケモン』のゲームシステムはたしかに保守的で、その物語世界は倫理的な欺瞞を抱え込んでいるかもしれないが、ぼくは必ずしもそれを「悪いこと」だとは思わない。
もし、『ポケモン』が保守的な態度をかなぐり捨てて「新しいゲーム」とやらに「挑戦」したら、それはそれで必ず大きな批判と反発が巻き起こるだろう。
そして、それは『ポケモン』ワールドそのものの落日の始まりとなるかもしれない。
もっと「進歩」させろというのは簡単だが、それは無責任なシロウトだからこそいえる言葉でもある。
『ポケモン』の経済規模は累計十数兆円にもなるという。そのストロングポイントを維持したままで正当に「進歩」させることはいうほど簡単なことではない。「進歩」が遅いのには遅いだけの理由があるのだ。
旧式のゲームシステムの象徴のように捉えられがちなコマンドバトル方式にしても、子供やアクションが苦手なユーザーでもじっくり考えてプレイできるという明確な利点がある。
『ポケモン』のゲームシステムをドラスティックにいま風なものへ「進歩」させれば、たしかにゲームマニアの評価は得られるかもしれないが、一方で振り捨てるものも出てくるわけだ。
ファンとはいいかげんで気まぐれなもので、「もっと最先端に合わせろ」と要求する一方で、じっさいにそうしたら「昔の××は良かった」と平然と口にする。
この種の一面的な批判をそのままに受け止めれば良いというものではないのである。
で、ここで思い出すのが、ハーバードビジネススクールのクレイトン・クリステンセン教授が提唱した「イノベーションのジレンマ」という考えかただ。
これはマーケットをリードする大企業が既存の顧客をあいてにビジネスを行うがゆえに、しばしば業界を一変させるような「破壊的イノベーション」に対応できず、新興企業に市場を奪われることを意味する。
この「イノベーションのジレンマ」が必ずしも『ポケモン』と『パルワールド』にあてはまるとはいえないかもしれないが、似たような「クリエイションのジレンマ」とでもいうべき問題はあるのではないか。
クリエイションのジレンマ、それはもちろんクリエイターのジレンマでもある。
昔からぼくはいろいろな創作の現場を見てきて、あたらしい表現のジャンル、メディア、プラットフォームなどが盛衰をくり返すところを目にしてきた。
創作表現の場合、何が「盛」で何が「衰」なのかは必ずしも明確ではないわけだが、個人的に非常に面白いと感じていた表現がいまひとつ魅力的に感じられなくなっていくことはしばしばあった。
しかも、それらの表現は必ずしもクオリティが低いわけではないのなく、むしろ勃興期と比べて「洗練」されてハイクオリティになっているのである。
それがジャンルであれ、メディアであれ、プラットフォームであれ、勃興期においては一般に表現は未熟で未完成なものである。
時間を経るにしたがってそれは成熟し、より消費者に受け入れられやすい完成度の高い表現に変化していく。
しかし、そのような「洗練」され「完成」された表現にしばしばぼくは魅力を感じなくなってしまうのだ。
面白くないわけではないが、何かが違う。そのように感じて困惑することは少なくなかった。いったいこの感覚は何なのだろうと。
ラーメンとロックとサイエンス・フィクション。
最近、わりと近いことをいっていると感じた作品にグルメマンガの傑作『ラーメン再遊記』がある。
この作品の前作『ラーメン才遊記』では、ラーメンを既存の食をてきとうに模倣した「ニセモノ」の食文化と定義し、「ラーメンとはフェイクから真実を生み出そうとする情熱そのもの」だと語っている。
「らーめん再遊記」は現在インスタントラーメンの章なのだけど「即席麺はニセモノだが、世界的に大衆人気を得るのはむしろニセモノの方なのだ」という面白い論をしている。そして即席麺と並んで「ロック」と「プロレス」を例に挙げてて爆笑。(いま無料公開中の72話)https://t.co/i2ZiEyDzoB pic.twitter.com/2Otdf531Kf
— Gryphon(INVISIBLE暫定的再起動 m-dojo) (@gryphonjapan) 2023年6月27日
しかし、『ラーメン再遊記』においては、「本物」にも「退屈な本物」があるという話が出てくる。
そこで例として挙げられるのが「ロックミュージック」と「プロレス」である。
そこでは、ぼくなりの言葉で表すならこういう論が展開される。
両者とも初めは黒人音楽やほかの格闘技を模倣した「ニセモノ」的な要素が多分にあったが、それがしだいに「本物」のカルチャーに変わっていった。
しかし、その「本物」となったロックやプロレスにはかつての「何か」、荒々しい「野蛮」な魅力ともいうべきものが欠けている、と。
これは非常によくわかる話なのだ。まったく同じことをぼくもいろいろな表現で感じてきた。
未熟だった表現がクオリティを上げ、より面白い、よりウケるものに変わる。それは良いことのはずだし、じっさい、マニアや批評家はそういったハイクオリティな作品をこそ高く評価する傾向がある。
それはより「本物」に近い表現なのだから当然といえば当然だ。
ぼく自身、そうやって生まれた「傑作」を高く評価する。すごいと思う。面白いと考える。美味しいと感じる。
しかし――それでいて、そういった「完成」された表現からそっと身を引いてしまうこともたしかなのである。
ようはぼくが求めているものは「ニセモノ/フェイク」が持つ混沌とした魅力なのであって、「洗練」された表現にはどこか退屈を感じてしまうということなのだと思う。
一例として、たとえばSF小説がある。現在の日本のサイエンス・フィクション文学は「冬の時代」と囁かれた20年前から一転、何度目かの黄金時代を迎えているといわれている。
あるいは多くの人はSFなんてもう滅びかけているものと思っているかもしれないが、業界内部では非常に盛り上がっているのである。
西部劇を宇宙に持ち込んだだけだと揶揄されたスペースオペラに始まったSFは長い時間をかけ「成熟」し、「洗練」され、素晴らしい達成を見るようになった。ひとまずはそういうことができるだろう。
しかし、この「洗練」とはあくまでSFファンに対する「洗練」なのであって、SF業界の外にまでその「黄金時代」がとどいているかというと、そうでもない。
ぼくはそこにもうひとつ不満を感じていたのだが、どうにもうまく言葉にできず、じっさい面白くてよくできているのだからこういうものなのかと思っていたのだが、最近、ある作品にふれて気が変わった。
野蛮さの魅力。
中国SFのスーパーベストセラーである『三体』である。
『三体』の翻訳者のひとりである大森望は、この小説の魅力をまさに「野蛮」と「洗練」という言葉を使っていい表わしている。
この圧倒的なスケール感と有無を言わさぬリーダビリティは、ひさしく忘れていたSFの原初的な興奮をたっぷり味わわせてくれる。たとえて言えば、山田正紀『神狩り』やジェイムムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』を初めて読んだときのようなわくわく感。おいおい、そんなのありかよ――と思うような終盤の展開は、バカSFの鬼才バリントン・ベイリーを彷彿とさせる。
インタビューなどで、往年の〝大きなSF〟に対する偏愛を隠さない劉慈欣だが、《三体》三部作には、クラークやアシモフに代表される黄金時代の英米SFや、コマツさきょに代表される創世記の日本SFのエッセンスがたっぷり詰め込まれている。こうした古めかしいタイプの本格SFは、とうの昔に時代遅れになり、二一世紀の読者には、もっと洗練された現代的なSFでなければ受け入れられない――と、ぼく個人は勝手に思い込んでいたのだが、『三体』の大ヒットがそんな固定観念を木っ端微塵に吹き飛ばしてくれた。黄金時代のSFが持つある意味で野蛮な力は、現代の読者にも強烈なインパクトを与えうる。それを証明したのが『三体』であり、『黒暗森林』、『死神永生』と続くこの三部作だろう。『三体』がSFの歴史を大きく動かしたことはまちがいない。
そう、『三体』の魅力はその「野蛮さ」にある。アイディアの壮大さ、構想の緻密さでこの小説に比肩する作品はないわけではないだろう。
しかし、『三体』の「原初的な」魅力はいくらかのハードSF的な意味での問題点を吹き飛ばしたうえで読者を圧倒する。
欧米や日本のSFは長い時間をかけて洗練され、ニューウェーヴやサイバーパンクといった派生ジャンルを生み出しながら「現代的」に成熟した。
しかし、その「大人になった」SFには、子供の誇大妄想めいた気宇壮大さ、「十二歳の文学」だけがもつ荒々しい魅力が薄いのだ。
そこに不足しているものを『ラーメン才遊記』的にいうなら「ワクワク」と表現することもできるだろう。
素晴らしくクオリティが高いし、じっさい面白い。でも、なんだか「ワクワク」しない。そういうことは現実にある。
『三体』は現代文学的にもハイクオリティなのでいわば「洗練された野蛮」ともいうべき凄まじい小説といえる。
だから、この場合、例に挙げることは不適当であるかもしれないが、この小説を読むと「野蛮さの魅力」というものの本質がわかることはたしかだろう。
だれもが思いついても二の足を踏むような領域へ平然と飛び込んでいく「蛮勇」。表現にはそれが必要なのだと思う。
多くの表現は初めは天才が切り拓いた特定の作品か、あるいは先行する文化のコピー、つまり「フェイク」として始まる。
その「フェイク」の時期には何がウケるのかまったくわからない。だから、クリエイターは好き勝手に自分の欲望に沿ったアイディアを試すこととなる。混沌の季節だ。
しかし、それは時間が経つにつれて消費者の好みに合わせて「進化」する。「洗練」である。
そうなった表現はクオリティは高くなるのだが、大森望ふうにいうなら「おいおい、そんなのありかよ」という「ワクワク」が不足することとなる。
たしかに見たいものを見せてもらってはいるのだが、新規性がないのである。しかし、すべての表現は時を経るとどうしても洗練される。
見方を変えるなら、それは表現の老化である。そうやっていつのまにか表現は衰退していく。だが、クオリティは高いから、内輪では高く評価されるのである。
そこには「ニセモノ特有の俗悪さ」はすでになく、かぎりなく「本物」に近い表現であるということもできる。
だが、「ラーメンハゲ」芹沢ではないが、そうなった文化に、ぼくはどこか頽廃の匂いをかぎ取る。
ぼくはやっぱり「めちゃくちゃ」で「やりたい放題」の文化が好きだ。その意味で、『パルワールド』の創作におけるモラルを無視した、あるいは少なくとも軽視した大ヒットに一定の親近感を感じるのはほんとうである。
それはダメだろ、とは思いつつも、ついついワクワクしてしまう感じ。わかる!という方もいらっしゃるのではないだろうか。
そう、「銃を持ったポケモン」はあきらかにどうかと思う。道徳的にめちゃくちゃだし、愉しむにしてもどこか後ろ暗い。
でも、そこにはすでに世界的大ヒットコンテンツと化した『ポケモン』にはない「ワクワク」がたしかにある――かもしれない。
とりあえず、そういうことができるだろう。
洗練された文化、あるいは市場においては、過度のリスクを取る必要はない。適切なリスクマネジメントが行われ、「お行儀の良い」態度が良いとされる。
しかし、ときとしてそういったリスクマネジメントを軽視するある種の「狂気」を備えた人物があらわれ、完成しようとする系を破壊する。
そういうことのくり返しで文化は進んでいくものなのではないか。異論もあるかもしれないが、いま、ぼくはそのように考えている。
長くなった。この先もいちおうは考えてあるのだが、とりあえずここで区切っておくことにしよう。
「フェイク」は面白い! 「フェイカー」は素晴らしいのだ。「ニセモノ」はときとして「本物」を凌駕しさえする。いくぞ英雄王、武器の貯蔵は十分か。
【さいごに】
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