石田衣良の人気シリーズ『池袋ウエストゲートパーク』の最新刊『男女最終戦争』がきょう発売された。
電子書籍の時代では、深夜の0時から新刊を購入することができる。さっそく買って、読んでみた。
ストーリーはマンネリだが、シャープな文体はあいかわらずの切れ味。ぼくやあなたが生きているのと同じ時代の池袋、その汚れた街を舞台としたストリート探偵・真島マコトの冒険を存分に楽しむことができる。
収録された四つの中短編のなかでも最も面白く興味深いのは最後の「男女最終戦争」だ。
例によって他の作品の倍の長さがある中編で、テーマはいまもネットを中心に繰り広げられる「男と女の戦い」。たがいにあいてを卑劣な悪とみなした一群の男女が繰り広げるむなしくも壮大な「最終戦争」である。
物語のなかではフェミニズムを笑い倒すお笑い芸人のファンのなかから、フェミニストをねらって硫酸をかけるアシッドアタックを実行する男があらわれ、マコトがその特定に挑んでゆく。
きわめてむずかしいテーマだと思うのだが、男性にも女性にもとくべつ肩入れすることなく時代の一場面を鋭く切り取る石田衣良のニュートラルなバランス感覚はいつもながら圧巻。
それにしても、このばかばかしくも悲惨きわまりない「最終戦争」が始まったのは、いつからなのだろう。あるいは文字通り有史以来のことなのかもしれないが、より明確に激化したのは、ネットが広がったこの20年程度ではないだろうか。
フェミニストが声高に表現規制を叫ぶ一方で、それまではさほど注目されてこなかった「非モテ」や「オタク」があらたに深刻な実存の問題として取り上げ直され、「弱者男性」という概念に収斂していった。
ほんとうに憎むべき搾取と暴力を行っているのははたして男なのか女なのか、きょうもソーシャル・メディアの一角を舞台にはてしない議論が続いている。
怒りが怒りを生み憎しみが憎しみを呼び、さらにはそれがビジネスにすらなるそのさまはまさに「戦争」としかいいようがなく、そのどうしようもない不毛さもまた現実の戦争に劣らない。
まあ、そうはいっても少なくとも日本のばあい、大半の善男善女はこの延々と続くうんざりするような戦いに参戦することなくまっとうに自分の人生を生きていると思うのだが、いったん嵌まると底なし沼のように抜け出せない性質があるようにも思える。
そのなかでも明るいスポットライトがあたるのは、かつて、ルワンダで出自の異なるふたつの部族の争いをあおった人々のように男女の対立を激化させてカネと人気を稼ぐフェミニストやらインフルエンサーたちだ。
そのなかには本気で男や女を憎んでいる者もいるだろうし、そのネタが最も注目が集まるから利用しているだけの人物も混ざっていることだろうが、いずれにしろばかげだことだとぼくは思う。
しかし、怒りや憎しみといったネガティヴな感情はいちど燃えひろがると消し去ることはむずかしい。いまでは、男性であれ女性であれ、諸悪の根源は特別な特権を付与された異性一般であると単純に信じる人はたくさんいるように思われる。
いったいこの人類最後の戦争を鎮火するためにはどうすれば良いのか、だれにもわからないところだろう。
「男女最終戦争」の作中でもふれられているが、「非モテ」「弱者男性」というテーマは現在では爆弾のように繊細な取り扱いを要求される。
かつては笑いとともに語られていたかもしれない「モテない」とか「童貞」といったことは、いまとなってはシェイクスピア的な運命の悲劇として受け止められており、社会の不正の象徴ですらあるのだ。
このテーマに対するアプローチは大別してふたつあるように思われる。ひとつは『非モテの品格』、『「非モテ」からはじめる男性学』、『モテないけど生きてます』といったフェミニズムの影響下にある男性学的な考えかた。
もうひとつは、なかなかまとまったかたちで書籍化されたりはしない、より女性に対し敵対的、あるいは攻撃的な「思想」である。
個人的な意見をいわせてもらえば、前者はどうしても欺瞞的だし、後者は偏見が強すぎて引く。いずれに嵌まったところで「最終戦争」の一兵士として動員され利用されるだけで、あまりしあわせになれそうにない気がする。
ぼくにいわせれば、そもそも「モテ」なんてあいまいな概念にこだわるその心理にすでに問題があるのではないかと思うのだが、まあ、あまり口にすると怒られるからやめておこう。本人たちは真剣なのである。
いずれにしろ、いままで無視されてきた「弱者男性」の問題が現実に存在することはたしかなわけで、そこには社会的なサポートが必要だと考えることそのものは間違えていない。
問題はそこで「すべて自分(たち)を認めず、イケメンと金持ちにしか興味がない女どもが悪い!」といったバイアスにハマってインフルエンサーのnoteを買ってしまったりすることなのだと思う。
まあ、そういったいかにも偏った考えかたに嵌まり切ったほうがラクではあるのかもしれないが……。
ぼくは、ふつうに地道なしあわせをめざしたほうが良いと思うけれど、憎悪と絶望にしかカタルシスを感じられない人もいるのだろう。
他方、フェムニズムの腐敗も深刻である。まともなフェミニストであるのならちょっとエッチな萌え画像をハントしたりしているあいだにやることがたくさんあるのではないかと思うのだが、現実にはそういった地味な、しかしそれこそ現実の女性たちのためには必要な活動を行うより、男性へのヘイトを煽ったりポルノの規制をさけんだほうが気分が良くなれるのかもしれない。
とくにここ数年のフェミニストを自認する人たちの「活躍」ぶりには、フェミニズムぎらいではなかった人たちも白けてしまったのではないかと感じられる。
結局のところ、彼女たちもまた「男女最終戦争」を激化させることによって利益を得る立場にあるわけなのではないかと考えている人たちは少なくないことだろう。
もし、もうすこしまともなフェミニズムの作品はないのかと思っている方がおられたら、レティシア・コロンバニの小説をお奨めする。そこには男性憎悪でも蔑視でもなく、いたってストレートに自分の権利と人間性を求める活動が綴られている。
きょうも過激化の一途をたどるぼくたちの戦争であるわけだが、これを乗り越えるためにはどうすれば良いのだろうか。
いろいろな立場がありえることだろうけれど、あえて乱暴にまとめるなら、男性も女性も自分だけが不当な目に合っている、可哀想な存在であると考えることはやめなければならないだろう。
結局のところ、弱者と弱者がたがいに憎み合い、「自分たちのほうがもっと弱い」と主張し合ってどうなるというのだろうか。「敵」も「不正」も「搾取」もべつのところにあるように思われてならない。
もっとも、「男が悪い」とか「女が悪い」といった単純で粗雑な論理はわかりやすく、心にひびきやすいことは間違いない。人間の精神のあり方からして、この手の扇動に心動かされることはどうしようもないのかもしれない。
しかし、それを乗り越えられなければぼくたちの社会に未来はない。いまこそ、最終戦争を超越した融和のヴィジョンが欲せられるところだ。
激化する対立を超えるために必要なのは自分とは異なる立場の人間も自分とは異なる理由で苦しんでいるという想像力なのではないだろうか。「自分の苦しさこそがすべて」の呪いを越えていこう。何といっても、だれにとっても異性は歴史的に見て最も身近な「他者」なのだから。