①「オタク文化と宗教のアフィニティ(親和性)」
たとえば、そう、何気なく眺めていた報道番組で、何の罪もない子供が亡くなる事件が放送されていたとき。ふと、何ともいえず哀しく、薄ら寒い気持ちにならないでしょうか。
その子は大人から虐待を受けていたのかもしれませんし、純粋に不幸な事故で落命しただけかもしれません。いずれにしろ、かれ/彼女は、一見して平和で安全なこの社会に開いた「虚無の穴」へ墜落してしまったのです。
「虚無」は社会の至るところに穴を開けています。そのとき、あなたも、その報道を通しその深淵をほんの少しのぞき込んだといって良いでしょう。
戦慄の体験。
とはいえ、あなたはあまり長い間その記憶を引きずらないに違いありません。その出来事はきわめて痛ましいけれど、あくまで見知らぬ子供のことに過ぎませんし、いつまでも気にかけるには人生はあまりに忙しないこともたしか。ひとまずは、そういえるでしょう。
しかし、もしそれが遠いどこかのことではなく、自分自身の息子や娘、あるいは少なくとも良く知っている子供のことであったら? そのとき、あなたは「虚無」に魅入られ、その無窮の「落とし穴」をのぞくことをやめられなくなるかもしれません。
その穴は限りなく暗く深く、じっとその深みを眺めていると、快適で豊饒なこの社会の一切の「意味」や「意義」がまるで無価値に思われて来るのです。「虚無」と向き合うとはそういうこと。そして、もしかしたら、人はそのようなときこそ「生きる意味」を求め宗教に誘われるのかもしれません。
宗教。
現代日本において、その評判は必ずしもかんばしくありません。ちょうどいま、元首相銃撃暗殺事件に関連しある宗教団体が問題視されています。宗教とはただひたすらに怪しく、うさん臭く、おぞましい、理不尽で蒙昧な教義の集積であるに過ぎない。そのような「偏見」を抱いている人すら少なくないでしょう。また、それが完全に間違えているともいえないのです。
そのためか、どうか、世界的にも宗教人口は減少の一途をたどっています。
しばしば「日本人は無宗教だ」といわれますが、それは海外、特に欧米の国々は日本とは違ってキリスト教の長い伝統があり、いまでも信仰を集めているという前提があっての話でしょう。それなのに、じっさいにはそのキリスト教の伝統も大きく揺らいでいるのです。
そうはいっても減っているのはキリスト教人口だけで、たとえばイスラムの信徒などは増加しているのではないかという人もあることでしょう。しかし、近年はイスラム教人口が多数を占めるアラブですら宗教人口は減少しつづけているともいいます。
あたりまえのことかもしれません。
キリスト教にしろ、仏教にしろ、あるいは相対的に新しいイスラムにしても、1000年から2000年以上もまえに構築された教理です。現代社会に合致していませんし、常識的な科学技術とも矛盾します。いったんその教義に疑問を抱いてしまえば、いつまでも無心に信じつづけることができなくとも不思議ではありません。
しかし、だからといって、これから先、宗教の蒙昧は晴れ、ひたすらに輝かしい科学と理性の時代がやって来るのかというと、その展望を信じることはできません。
どれほど科学が万能を究めようと「虚無の穴」は空虚に開きつづけるに違いないのです。人類社会はここ何百年も経済的に豊かになりつづけていますが、格差は開くばかりですし、不条理なこともなくなるようには思われません。つまり、たしかにわたしたちは狭義の宗教を必要としなくなりつつあるものの、一方で「宗教的なるもの」の需要は絶えないのです。
それなら、いったい何が伝統宗教に代わりその需要を満たすのか。現代日本を無心に眺めてみましょう。
たとえば「スピリチュアル」はどうでしょうか。「スピリチュアル」とは天使や精霊、宇宙人など超自然的な存在を前提とした文化で「オカルト」と隣接しつつ微妙に異なっています。暗く怪しい「オカルト」に対し「スピリチュアル」は一見あかるいのです。
もっとも、非科学的な文化には違いありませんから、人によっては宗教と同じくらいうさんくさく捉えているでしょう。わたしも頭から信じ込むわけではありませんが、そういった「非科学的」な価値を一概に否定し切ってしまう気にもなれません。科学を信頼してはいますが、それが「虚無」に対し答えを用意していないことも知っているからです。
人は生まれるまえにどのような存在だったのか? 死んでしまったらどうなるのか? なぜ他のだれかではなく「この自分」が苦しまなければならないのか? そういった「究極の問い」に科学は答えてくれません。それは科学の不備ではなく、ただその役割ではないのです。
もちろん「スピリチュアル」がその「問い」に対し、どれほど深い答えを用意しているわけでもないでしょう。だが、とりあえず一時の慰めにはなります。それはこの世の摂理そのものでもある「虚無の落とし穴」をふさいでしまうことはできないにせよ、一とき、目を逸らすことを助けてはくれるのです。
あるいは「自己啓発」。自分自身を改善し成長させてきびしい競争社会を生き抜いていこうとする自己啓発の精神は、いまや広く社会的に普及し、いわゆる自己啓発書はしばしばベストセラーとなります。自己啓発にばかり熱心な人たちは「意識高い系」と揶揄されることもありますが、それも自己啓発がどこか宗教と近いことに理由があるのでしょう。
そして、もうひとつ、わたしが宗教とアフィニティ(親和性)を持つものとして取り上げたいのが、いわゆるオタクの文化です。
マンガ、アニメ、アイドル、ボーカロイド、Vtuberなど、現代社会において、広い意味でのオタク文化は「スピリチュアル」や「自己啓発」以上に多くの人を支えています。それは一般的には単なる娯楽、エンターテインメント、ポップカルチャーの一種に過ぎないとみなされています。しかし、ひとりのオタクとしていうなら、オタク文化にはたしかに「宗教的なるもの」がある。
一見すると猥雑で享楽的に見える文化ですが、それぞれのファンは何らかの「感動」を通じファンになっているのですし、ときには作品を通して「聖なるもの」を感じ取っています。
数年前、日本女子大学で「オタクにとって聖なるものとは何か」というワークショップが開かれました。未見なのでその内容はわかりませんが、担当者のブログに中身の一端が残されています。
現代日本のオタク文化のなかに、宗教的なものを見出すのはたやすい。オタクたち自身、いくらか自嘲気味に「ネタとして」、しかし内心ではかなりの真剣さをもって「ベタに」、みずからの行動や世界観を宗教用語であらわすことがある。その行動様式もまた、自覚的であろうとなかろうと、しばしば「まるで宗教のようだ」。例えば、原始宗教を思いおこさせる奇天烈な衣装、古代の崇拝(カルト)とみまがう踊りや礼拝、集団の祈りのごとき形式化された絶唱など。
オタク文化を彩る作品群(マンガ、アニメ、ゲーム、ラノベなど)にも、宗教的な表象が満ちあふれている。伝統宗教の場や象徴がそっくりそのまま採用されていることもあれば、元の文脈から引きはがされた有形無形の断片が作品に意味をあたえていることもある。また、オタク作品群につねにあらわれる超常的で霊的な存在や力は、「宗教」という固い表現になじまず、むしろ、「オカルト」「スピリチュアル」「俗信」といった表現の方がしっくりくることも多い。
制作者と作品とオタクとが、こうした世界観において「何か」を交換しあい、多彩な文化をきずきあげているのだ。
めくるめく伝統と霊性のオタク現象――これをまえに、宗教研究には、重大な問いが突きつけられる。オタク文化はどうしてこうも宗教に「類似している」のだろうか。「共有されるなにか」があってこその類似のはずだが、それはなにか。はたして、オタク文化とは伝統的な宗教と「同じなにか」なのだろうか。それは「偶像崇拝」「多神教」「異教」と何が異なるのだろうか。あるいはまた、「宗教」という言葉をさけて、「スピリチュアル」「霊的」「俗信的」「空想的」などの言葉を使えば、それはうまく説明されるのだろうか。
この「問い」に対し、宗教学の研究者ではないわたしは的確な答えを用意することはできそうにありません。ただ、この問題に「オタクの側から」意見を述べることはできます。
それでは、語りはじめましょう。混沌としたオタク文化のなかに神聖なる何かを探しだすのです。
②「アイロニカルに没入する」
前項でオタクと宗教のアフィニティについて書きました。
しかし、あきらかにオタクと宗教は同一の概念ではありません。あるいは同一の何かを根底に有しているかもしれませんが、オタク的なるものと宗教的なるものは、一方で酷似しているとしても、他方ではやはりかけ離れているのです。それでは、具体的にどこが違うのでしょうか。
ひとつには、宗教が熱烈に「信じる」ものであるのに対し、オタク文化にはどうしようもなくアイロニーがともなう点です。この場合のアイロニーとは「表面の意味とは逆の意味が裏にこめられている用法」を意味し、皮肉とか反語と訳されます。つまり、表面的には「嫌い」な態度を取りながら、じつは「好き」、あるいはその逆といったことが端的なアイロニーです。
オタクたちのオタク文化に対する態度には、広くシニカルでアイロニカルな姿勢が見て取れます。オタクはオタク文化を「好き」だからオタクなのですが、それにもかかわらず、オタク的なものが「嫌い」であるかのような言動を好みます。
いい換えるなら、表面的にはあたかもその文化から距離を取って、皮肉に眺めているかのような態度を維持しつつ、深層ではそこに没入している、それがオタクの自文化に対する態度です。
大澤真幸はこういった姿勢を「アイロニカルな没入」と説明しています。「シニカルなコミットメント」と同じ意味だとか。
大澤は書いています。
オタクは、現実をも虚構と本質的には異ならない意味的な構築物と見なすような、アイロニカルな相対主義者である。オタクは、意識のレベルでは、虚構の対象に対して、このようにアイロニカルな距離を保ちながら、反対に、行動のレベルでは、その同じ対象に徹底して没入してもいる、こうした意識と行動の間の逆立が、またオタクを特徴づける。
「アイロニー(ネタをともなう相対主義)」と「没入(ベタなコミットメント)」が平然と両立するところがオタク文化の特色なのです。
それでは、オタクはなぜ「アイロニカルな没入」に走るのか。オタク文化が一般に「幼稚」で「危険」だと非難を受けているから、自己防衛のため、斜にかまえた態度を崩さないだけのことなのでしょうか。
そういう側面はあるでしょう。オタクがオタク的なものに対ししばしば皮肉と冷笑を向けるのは、自分自身の行為の問題性を意識的にせよ無意識にせよ実感し、アイロニーとして処理することで安全な次元に留めようとする意思を抱いているからです。つまり「アイロニーである限り安全だ」という意識がある。
しかし、じっさいにはまったくそうではありません。たとえ「アイロニカルな没入」であっても、没入には違いないのであって、そこには没入に付きまとう危険が必然にともないます。オウム真理教はその典型でしょう。「オタク宗教」といわれたオウムは、ときに「笑える」ほど過剰で滑稽な一面を持っていました。
オウムの失笑せざるを得ない側面だけを見た人は、まさかそれが国内史上最大最悪の宗教テロを巻き起こすとは想像だにしなかったに違いありません。ですが、現実にオウムは地下鉄サリン事件を起こしたのです。つまりは、いくらアイロニーによって自分自身を防衛しようとしても、あくまで「没入」している以上、そのディフェンスは成立しないのです。
「自分はアイロニカルに対象に接しているから安全だ」という考えかたはその実、まったくの錯覚でしかありません。そういう意味で、オタクはアイロニーの時代を象徴します。
かつて竹熊健太郎は「オタク密教(ネタとしてオタク文化を愛好するオタク)」と「オタク顕教(ベタにオタク文化を好むオタク)」という言葉を用い、オタクのアイロニーを表現していました。そこには竹熊なりの複雑な考察があるのですが、重要なのは「自分はアイロニカルに対象から距離を保っているから大丈夫」としていた「密教」的な態度のオタクたちが、その後しばしばトラブルやスキャンダルを起こし、まったく「大丈夫」ではないことをさらしてしまったことです。
その意味で、オウム真理教事件に学ばなかったオタクは多かったといえるでしょう。本来であれば、地下鉄サリン事件が起き、『新世紀エヴァンゲリオン』が放送された1995年の時点で、アイロニカルな態度への過度の依存は棄却されていてしかるべきだったのです。ですが、少なくないオタクは「アイロニーである限り安全だ」と信じつづけた。その結果、オタクのなかで「ベタ」と「ネタ」は分離していきます。
とはいえ、大澤が上記引用の内容を記したのは2006年に過ぎません。現時点でそれから17年が経ち、オタクは完全に一般人化しています。もはや、オタクは特殊な人種というより、若者集団そのものの属性のひとつでしかありません。
それにつれ、オタクの「アイロニー」も変わってきました。端的にいってしまえば、オタクたちの「アイロニカルな没入」は「ただの没入」へ向かっています。もちろん、ひと口にオタクといっても色々な人たちがおり、あいかわらず斜にかまえた態度を崩さないまま対象に「没入」している者も見受けられるわけですが、オタク全体を俯瞰して見てみると、もはや少数派に過ぎないでしょう。
その「希薄化するアイロニー」を最も端的に示しているものがオタクたちが好んで使う宗教的な語彙です。いつ頃からなのか、オタクたちが使うジャーゴン(俗語)にやたらと宗教的なものが目立つようになりました。「神絵師」や「神作家」、「神作品」、「聖地巡礼」、「布教」、「祭壇」、「生誕祭」、そしてあっさり「萌え」に代わって普及した「尊い」。
これらの用語はもともと伝統宗教で使われていたものですが、いつからかオタクたちが自らの行為の真剣さを強調するため使うようになりました。いまでは専門の宗教学者ですらこういったオタクの「宗教性」に注目しています。
インターネット上でオタクたちはあたかも既存宗教を意図して模倣しているかのように振る舞います。それはかつては考えられなかったほど「ベタ」な崇拝の姿勢です。もちろん、ここにもまだ「あえてそういう語彙を使ってみせる」アイロニーはただよっているでしょう。
ただの作家やイラストレーターを、いかにその技量が優れているとしても、「神」と呼ぶことはあまりに「大袈裟」で「過剰」であり、それ故に「アイロニカル」です。オタクが愛する者の「生誕祭」を祝い、自分なりの「祭壇」をネットに上げるとき、そこには「自分の過剰さを見てほしい」といった、照れ隠しの心理が働いています。自分の過剰さを意識しているからこそ「ネタ」として有効なのであって、オタクは自分の「やりすぎ」をジョークとして楽しむ余裕を備えているのです。やはりオタクとアイロニーは切り離せません。
しかし、オタクのそういったアイロニカルな性格は時とともに薄れ、最近ヒットしたオタクネタマンガ『その着せ替え人形は恋をする』では、好きなキャラクターの誕生日を「ベタ」かつ熱狂的に祝う少女がきわめて肯定的に描かれています。
もちろん、そこには第三者の冷めたまなざしが付随してはいますが、それにしてもこうした「ベタな」オタクの姿はかつては「痛い」ものとして批判的に描写されるのが常でした。
時代は変わったのです。むしろ、その実態は、オタクが自分の感動をいい表そうとしたとき、それを可能にするものが宗教的なボキャブラリーしかなかったということなのではないでしょうか。
その昔、オタクといえば「萌え」と切り離せませんでした。いまでもそのように認識している人は少なくないでしょう。ですが、いまでは「萌え」を使用するオタクはほとんど見かけません。そのかわり、現代では「尊い」が使われます。「推しが尊すぎて無理」というふうに。
「萌え」には、それこそアイロニカルで複雑な自嘲がありました。ですが、「尊い」は無邪気に讃嘆を表しているに過ぎません。そこにも「わざと尊いといってみせる」アイロニーがかすかにただよってはいるにしろ、「萌え」に比べればその側面は後退しています。
もちろん、オタクが「推し」に対する冷静な現実認識を喪失したわけではありません。オタクは、それが「二次オタ(アニメなどの二次元作品を好むオタク)」であれ「ドルオタ(アイドルオタク)」であれ、あいかわらず対象との距離感を現実的に把握しているます「現実と虚構を混同している」オタクはほとんど架空の存在といえます。
オタクは自分が「没入」している対象が虚構であったり、はるか遠いものであることをだれよりも良くわかっています。ただ、現代のオタクはその上でアイロニーに依存して自分の行為の安全性を担保しようとすることをやめたのです。
素朴で危険な態度でしょうか。ですが、「アイロニカルな没入」が実質的に何ら安全性を意味してはいなかったことを思うなら、その姿勢はむしろ健全であるかもしれません。
もちろん、そこには虚構に対し深く没入しすぎる危険性は残っています。しかし、『その着せ替え人形は恋をする』を見ればわかるように、現代では「虚構への没入」は相当に好意的に受け止められるようになっているのです。
いかにも逆説的なことですが、この不透明さと流動性を強めた、たしかなものが何もない社会において、他ならぬ対象への没入性、即ち「好きという気持ち」こそが、船を港に留めるイカリのように人を現実にコミットメントさせてくれるからです。
くり返します。
時代は変わりました。
オタクであることはいまやいたって現実的なサバイバルの方法論なのです。むしろ、オタクでないこと、つまり何も没入するものを持たないことは、いまとなっては危険なまでに不安定な生き方に見えます。
状況は次のステージへと進んだのです。
③「オタク・スピリチュアリティ」
この記事はオタク文化のスピリチュアルな一面を示すものです。
しかし、最初に書いたように、宗教とかスピリチュアルに対しネガティヴな印象を持っている方は多いでしょう。その種の文化を象徴する「天使」、「心霊」、「占い」、「奇跡」、「パワースポット」、「パワーストーン」といった言葉を並べてみるだけでそういった「匂い」がただよってくるかのよう。
ですが、そのうさんくささにもかかわらず、いまだにスピリチュアルな文化が流行していることは、人がこういった文化と関係を断てない事実を示しています。
第一項で書いたように「宗教」そのものは世界的にその勢力を減衰させています。ですが、「宗教的なるもの」への需要と関心はいまだに強いものがあります。いい換えるなら「宗教的なるもの」を求めながら宗教を信じることはできない人々がたくさんいるわけです。そういう人たちは、あるいはスピリチュアルにハマり、あるいは自己啓発を信じ、そしてあるいはオタクになります。
もちろん、たかがスピ、たかが自己啓発、たかがオタク、そういってしまえばそれまでではあります。「この世の真理とは何ぞや?」といった哲学的難問に頭を悩ませる人たちに、これらの文化が答えをくれるわけではありません。
ジャーナリストの佐々木俊尚は「特集 どこの国でも「宗教離れ」が進み、自己啓発に乗っ取られていく ~~私たちはいま「救い」や「癒やし」をどこで得られるのだろうか」と題したネット上の記事で、このように書いています。
わたしはしばらく前に、曹洞宗の僧侶の藤田一照さんと何度か対談の機会をいただいたことがありました。この中で今も心に残っている会話があります。わたしが「いまは自己啓発とか、さらにはスピリチュアルのようなものが出てきて、宗教の代わりになってしまっている感じがします。日本の仏教が葬式仏教になってしまった結果、そちらに走る人が増えるのはしかたない部分もあると思うのですが、では宗教と自己啓発の根本的な違いってなんでしょうか?」
わたしのこのぶしつけな質問に対して、一照さんはこうお答えになったのです。
「多くの人生の悩みは、自己啓発本とかセミナーでも解決するのかもしれません。でもそういうものだけではどうしても最後まで解決しない悩みがあります。『なぜ自分は生きているのか』『なぜ人は死ぬのか』といった悩みです。これらにこたえるのが、宗教なんですよ」
「なぜ自分は生きているのか」、「なぜ人は死ぬのか」、こういった「究極の問い」を、ここでは慣例にしたがって「ビッグ・クエスチョン」と呼ぶことにしましょう。一照は宗教とはそういった「ビッグ・クエスチョン」に答えるものだといっているわけです。
しかし、そうなら、逆にいえばそのような「ビッグ・クエスチョン」に答えているものは、一見して宗教には見えなくても、単なるスピリチュアルとか自己啓発に留まらない次元に達しているともいえるのではないでしょうか。
そもそも「ビッグ・クエスチョン」に答えるとはどのようなことなのでしょう? いうまでもなく、この「大いなる問い」に対する「真の答え」は不定です。それは万能を究めるかに見える科学ですら究極的には答えが出せない性質の問いなのです。だから、さまざまな宗教もほんとうの意味で「ビッグ・クエスチョン」に答えているわけではありません。
いってしまえば、宗教は「ビッグ・クエスチョン」に対し天国とか地獄とか、神とか仏とか、救世主とか聖母といった「物語(ナラティヴ)」を提供しているだけです。
それらのナラティヴの信憑性に関する疑惑をいったん棄却し「ただ信じる」場合に限り、宗教は人を救ってくれます。
ただ、ここに微妙な点が残ります。一照は「これらにこたえる」といっている。この「こたえる」をわたしは簡単に「答える」と理解したわけですが、そうではなく「応える」なのかもしれません。もしそうなら、宗教もまた「答え」を用意しているわけではないことを認めた上で、それでもなお「応える」ことが大切なのだといっているとも受け取れます。
もしこの解釈が正しいなら、オタク的な作品も「ビッグ・クエスチョン」に「答える」ことはできないまでも「応えて」いることはありそうです。
美少女ライブもSFアニメも、基本的にはエンターテインメントであり、人生の難問に答える/応えることを第一義とはしていません。ですが、もしこの記事を読まれているあなたがある程度ディープなオタクなら、何らかの「作品」に触れ、こうした「答えのない問い」に答えをもらったように思ったことがあるのではないでしょうか。
それが映画なのか、音楽なのか、それともマンガやアニメやライブなのかはわかりませんが、そのいずれであるにせよ、あなたは「宗教的な体験」をしたわけです。伝統宗教が衰退しつづける現代社会においては、稀有な経験でしょう。
たしかに、それらは、哲学的に緻密な言説や、「天国はある」とか「死後はこうなる」といった物語を提供したわけではないはずです。ですが、それらは「なぜ自分は生きているのか」と悩むわたしたちに対し、懸命に生きるとはどういうことなのか示してくれます。そういう一例を通じ「生きることの意味と無意味」を「実感」した人間こそが、最も熱烈な意味でのオタクになります。
そもそも「なぜ自分は生きているのか」という「問い」に直面したわたしたちが求めている答えとは、単なるロジカルなストーリーではないはずです。何より大切なのは「自分はこのためにこそ生きているのだ」と心から納得できることであり、たとえ死後どうなるのかはわからないにせよ、いま、この瞬間、ここを生きていると強く感じられることでしょう。
その意味で、個々の作品はオタクにとって「ビッグ・クエスチョン」の「答え(アンサー)」ないし「応え(レスポンス)」になりえます。あるいはそのメッセージそのものは、一見して陳腐な、たとえば「愛こそすべて」といったものだったりもすることでしょう。しかし、それでもそこに凄まじい強度を感じ取ったなら、それは「生きていく理由」になりえます。
もしオタクが幸福な人種だといえるとしたら、それはかれらが言葉ではなく体験を通して「ビッグ・クエスチョン」の答えをもらっているからに違いありません。そういった強度を生むひと握りの人間のことを「天才」と呼びます。現代のオタク的語彙をもちいるなら「神」。
この不安定な時代、「宗教的なもの」を求める若者は少なくありません。しかし、数十年前ならそういう人間が頼っていたような宗教だの文学だの思想だの哲学だのは、かれらにとってリアリティがなく、自分自身の人生とかけ離れているように感じられます。
だから、かれらは子供の頃から延々と親しんでいたポップカルチャーにこそ「答え」を求めます。そして、幸運な場合には「応え」を得ます。そのような「宗教的なオタク体験」、いい換えるなら「オタク・スピリチュアリティ」を通して「信者」ともいうべき最も熱烈なオタクは生まれるのです。
いうまでもなく、世の中には「宗教的なもの」を必要としない人もいます。そういう人たちはたとえば自由恋愛や、仕事に没頭することなどで人生を豊かにできるでしょう。いわゆる「リア充」的な生き方です。そういった「世俗的な」生き方で満足できる人はすれば良いと思います。ですが、気質的により神秘的なものを求めずにはいられない人もまたあるのです。
その昔なら宗教の扉を叩いていたような人たち。
現代においてはそういう人たちはポップカルチャーに「答え」を求め、見いだし、そしてそこで飢え、かつえ、求めていた「救いと癒やし」を手に入れます。そこから救われ、癒やされた者どうしの「つながり」も生まれるでしょう。「救済」と「癒やし」、それに「コミュニティ」という宗教の役割はこうしてポップカルチャーに代替されるのです。
「寄る辺なさ」に苦しむ多くの人がそのようにして救われたことでしょう。素直に、素晴らしいことだと思います。
④「ありとあらゆる善きものの象徴にして集合」
オタク文化に「推し」という語彙が登場したのはいつのことでしょうか。初めはアイドルオタクの間で使われていた言葉でしょうが、いまではもっと広い層で使用されています。
辞書的な意味での「推す」とは「人や事物を、ある地位・身分にふさわしいものとして、他に薦める。推薦する」ことですが、オタクにとってはそれ以上の意味を持ちます。自分の全身全霊をもってその人物を支える、応援する、それが「推す」。
かつて、一般的にオタクのそういう感情は恋愛感情の変形と見られていました。ですが、いまでは必ずしもそれだけではないことが広く認知されるようになりました。
もちろん、いまでも「推し」に熱烈に恋をするオタクもいます。いわゆる「ガチ恋」です。そういう恋心は、まず絶対に報われないわけですが、まさにそうだからこそ純度が高い。
そういった「ガチ恋」オタクは、一般社会で広く見られる感情の変形として受け止められるわけで、ある意味で理解しやすい一面もあるでしょう。しかし、まったく見返りがないように見える「推し活」は、そういった説明だけで理解し切れるものではありません。
いったい推しとは何なのでしょうか。
横川良明『人類にとって「推し」とは何なのか、イケメン俳優オタクの僕が本気出して考えてみた』では「推し」は「恋人」より「神」に近い存在であると切々と語られています。
あまりに宗教的な言説であることから、一読しての納得はむずかしいのですが、その文章から伝わって来る熱量は単なる韜晦とみなすことを許しません。紛れもなくこの人は推しを「神」とみなしているのだと切実に感じさせるものがあります。
それにしても、なぜ一個人をそこまで崇拝し「信仰」さえするのか、疑問は残ります。いったいそこに何があるのでしょうか。
横川の本を読んでいると、かれが推しを単なる一個人として見ているわけではないことが伝わって来ます。かれにとって、推しとは、一個人を超えて、この世のありとあらゆる「善きもの」の象徴なのです。あるいは少なくとも、あらゆる「善きもの」が投影されているはずです。
かれは推しに美貌や演技力だけではなく、人格も求め、その期待が裏切られることを怖れます。常識的に考えれば、彼ら、彼女たちは、ただ見栄えが綺麗なだけのふつうの人間に過ぎず、「神」ではありえません。ですが、横川にとっては、推しはどこまでも善良で、気高く、誇り高く、美しい、理想の存在なのです。
もちろん、こういった期待は現実と乖離しているでしょう。いってしまえば、かれが推すイケメン俳優はかれの理想に合致するよう演技しているに過ぎず、理想的な人格のもち主であるとは考えづらい。あるいはそれがアニメやゲームのキャラクターなら「超絶美形にして大天才」といった、現実にはまずありえない属性を兼ね備えているかもしれませんが、それでも「神」とはいいがたいでしょう。
横川にそのような認識がないわけではありません。しかし、それでもかれは推しにありとあらゆる善きものを投影しつづけるのです。まさに信仰といいたくなるような姿勢です。つまりはオタクの推しへの感情は、単なる恋慕を超え、信仰と化している場合が見られるわけです。
だからといって、即座に推し活を宗教と見ることはあまりに安易な結論でしょう。真の宗教は「ビッグ・クエスチョン」に対する答えを備えていることを思い出してみましょう。いったい美少女アイドルやイケメン俳優、萌えキャラクターが「ビッグ・クエスチョン」に対し答えを持っているでしょうか。
もちろん「否」でしょう。
しかし、前に語ったように、推しは「ビッグ・クエスチョン」に「答える」ことはできなくても「応える」ことはできます。
それでは意味がないでしょうか。ですが、既存の伝統宗教もこの生と死に関する「ビッグ・クエスチョン」に真摯に答えているとはいいがたいのではないでしょうか。
宗教は「人は死んだらどうなるのか?」といった問いに対し、たとえば「天国へ行く」といった答えを用意します。しかし、それは客観的な事実ではなく、いってしまえばひとつのナラティヴに過ぎません。
たとえばキリスト教を例として見てみてみましょう。キリスト教徒は聖書のナラティヴを事実として認めることを求められます。
そもそもイエス・キリスト自身にしてからが実在したのかすらわからない人物なのですが、ほとんどのキリスト教徒はイエスの実在を疑わないでしょう。そして、聖書はさらに膨大なナラティヴを綴っています。イエスがどう行動し、どのような言動を残したかに始まり、使徒たちの行状に至るまで、克明に「記録」されているのです。
「ビッグ・クエスチョン」に対する明確なアンサー。
しかし、それはあくまで「物語」に過ぎないこともたしかです。聖書の描写は、完全な虚構ではないにせよ、しばしば現代科学と矛盾します。それでも、信徒はそのナラティヴを現実として信じなければなければならないのです。それで初めて信徒は「救われる」。
イエスの事績はともかく、エデンの園や黙示録といったことがらはあまりに神話的で、現代においては信じがたいものです。ですが、キリスト教はそういったナラティヴの累積の上に成り立つ宗教なのであって、その「物語」を捨て去ってしまえば信仰もまた残りません。つまり、信仰とは「物語を生きる」ことであるのです。
一方でオタクはどうか。
いうまでもなくオタクもまた「物語」を愛します。横川のようなイケメン俳優オタクもそうですが、いわゆる「二次オタ」はさらにわかりやすく物語を愛好しています。ですが、宗教者が宗教の「物語」を現実として信じるのに対し、オタクにとって「物語」はあくまで虚構です。宗教者が物語を生きているのに対し、オタクは虚構が虚構であることを前提にして楽しむに留まっているともいえます。
ここにオタクの「アイロニカルな没入」の根源がある。オタクは自分が楽しんでいるものがフィクションであることをだれよりもよく知っています。だからこそ、オタクの態度はアイロニーを帯びるのです。しかし、それでもオタクは対象に「没入」します。
オタクの「物語」に対する態度がわかる一例として、たとえばボーカロイドが挙げられるでしょう。コンピューターで音声を合成するソフトのことです。「ボカロ」として親しまれているそれらのソフトは、それぞれキャラクターの名前が付けられています。その最も有名な例が初音ミクです。
いまとなっては初音ミクの「歌」は膨大な量があり、名曲とされるものも数多く存在します。それでは、コンピューターの合成音声に過ぎない初音ミクの「歌声」が、実在する人間の歌にも増して情緒に訴えかけるのはなぜでしょうか。それは、まさに「初音ミクが歌っている」というナラティヴが背景にあるからではないでしょうか。
もちろん、初音ミクの「歌」を聴く者は、そのような人物が実在しないことを知っています。初音ミクは純粋な虚構であり、さらにいうならほとんど設定らしい設定すらありません。ただその名前と、キャラクターデザインと、身長などのわずかな情報があるだけ。それでも、オタクは初音ミクの「歌」を聴くとき、「初音ミクが歌っている」というナラティヴを感じ取ります。
この二重性にオタクの本質があるのです。オタクは、たしかにある意味では「宗教的なもの」を信じ熱狂します。ですが、その一方でオタクは虚構の虚構性を理解しています。初音ミクの歌声に涙しながら、一方では単なるコンピューターの合成音声だとわかっているように。
ここに、伝統宗教とオタクの決定的な落差があります。宗教者がナラティヴを現実のものとして認識しているのに対し、オタクはその虚構性を理解しているわけです。
ただ、それならオタクがその虚構を冷ややかに相対化しているかといえば、そうではありません。オタクは虚構を虚構として知りながらそれに熱狂します。そこに「この世のありとあらゆる善きもの」の集合、あるいは「聖なるもの」をすら視るのです。
このような姿勢は、伝統宗教の信徒にとっては理解しがたいものでしょう。かれらは「信じるか、信じないか」という問題に対し「信じる」ことを選びます。ある意味、その態度はシンプルです。それに対し、オタクは同じ問いに「信じないが、信じる」と答えるわけです。そこにはアイロニカルなねじれがあります。
このねじれを理解せずにオタクを理解することはできません。宗教者が虚構を現実として生きる人たちだとすれば、オタクとは、虚構を虚構のままで生きる人間のことなのです。
⑤「世界の秘密と始原の暗号」
オタクにとって、推しとはこの世界の「ありとあらゆる善きもの」の象徴であり集合である、ひとまず、そう定義することにしましょう。
ひとり、推しの歌声に耳を澄ますとき、心がどこか遠い「たましいのふるさと」にとどくように思う。映画館で推しの死闘を見守るとき、「生きること」のあまりに重い意味が言葉ではなく実感として体得できる。そういうふうに思う人は少なくないでしょう。
そう、オタクは推しを通じて「聖なるもの」を垣間見ます。その意味で推しは地上における神聖さの顕現であり、より濃密な別世界に通じる扉です。すなわち天才宗教学者ミルチャ・エリアーデがいうところのヒエロファニー。
重要なのは、推しがじっさいにそのような聖なる存在であるかどうかではありません。そもそも聖なる存在とは客観的に計測可能なものではないからです。大切なのは推しに聖性を「投射」可能かどうかなのです。
「投射」とは最新の認知心理学「プロジェクション・サイエンス」の用語です。ともかく、オタクにとっては、自分が推しに何を見出だせるかが真に重大なわけです。オタクはそれが生身の人間だったり架空のキャラクターだったりすることを十分に承知していてもなお、推しに「聖なるもの」を見るのです。
オタクの姿勢が「アイロニカルな没入」と称されるゆえん。この聖なる何かを、社会学者の宮台真司は「端的なもの」と表現します。
宮台は『サイファ覚醒せよ!』のなかで、社会システム理論でいう「サイファ(暗号)」という概念を提唱しています。これは「世界の底が抜けている」、つまり世界に「未規定性」が残ることを「翻訳して無害化する」ための表象です。典型的には「神」。
この世界には解けようはずもない「暗号」があり、その「暗号」を解けたことにして無害化したものが「サイファ」なのです。
宮台は語っています。
長くなりますが、重要な個所なので引用しましょう。
「世界」とは奇妙なものです。ありとあらゆるものの全体を「世界」というわけです。ところが、人間は言葉を使って思考するけれど、ありとあらゆるもの全体が「世界」だとして、「世界」はどうしてあるのだろう、「世界」の外は何なのだろうというふうに考えちゃうんですね。〝「世界」はなぜ……〟とか〝「世界」の外は……〟という問いを突き詰めて考えると、必ずパラドックスに陥るからです。
多くの「社会」では、「世界」は神が創ったとするジェネシス(創世神話)を持ちます。ありとあらゆるもの全体を神が創ったと考えるわけです。さて、神は「世界」のどこにいるのか。もちろん「世界」の中にいたら、「世界」を創ることはできません。かと言って「世界」の外にいるとすれば、ありとあらゆるものの全体が「世界」なのだから、神を含めて「世界」だというしかなくなるし、神が「世界」の外だと言い張ると、「世界」の外にある存在をどうして僕たちが認識できるのかという問題が生じます。神は「世界」の中にいると言っても外にいるとイッテモ、背理になるわけです。
実は、こうした「世界」概念をめぐる背理は、キリスト教のスコラ神学において既にはっきりと意識されています。その意味で「世界」概念をめぐる背理という観念自体は、キリスト教に由来する概念です。そのキリスト教的な「世界」概念をベースに立ち上がったのが近代科学ですから、どのような個別科学も、それを突き詰めることで、必ず「世界」概念をめぐる背理に突き当たる構造になっています。
不完全性定理で知られる数学者ゲーデルは、すべての命題の真偽が数学的に証明できると予想するヒルベルトに対抗する形で、この「世界」概念をめぐる背理を証明しようとしました。その結果、「世界」を無矛盾な形式論理で完全に覆えないということが証明されてしまったわけです。これが誰でもその名前くらいは知っている「ゲーデルの不完全性定理」です。アインシュタインをはじめ多くの物理学者にも大きな影響を与えました。ちなみにゲーデル自身は、自分のやった証明を凌駕しうるような「神の存在証明」をしようとして、晩年には気が狂ってしまった。
「世界」はそもそも人間の論理によって完全に定義することができないというのです。
わたしたちは科学を信頼するあまり、いつかはそれがこの「世界」の全貌をあきらかにする日が来るのではないかと考えがちです。
しかし、宮台の主張によれば、その日は永遠に来ません。それこそロジカルに考えるなら「世界」にはどうしても「未規定性」が残ってしまうし、その「未規定性」を覆い隠すために「神」のような「サイファ」が求められるからです。
人は世界の未規定性を覆うサイファ、すなわち神なるものを見るとき、そこに聖なるものを感じ取ります。宗教学者ルードルフ・オットーが語るところの「ヌミノーゼ」でしょうか。
宮台によれば「端的なもの」は「世界の根源的な未規定性」に対する志向性を持つかぎり、必然的に出逢ってしまうものです。
僕は九四年の『制服少女たちの選択』、九五年の『終わりなき日常を生きろ』という二冊の本で、宗教を「前提を欠いた偶然性を馴致する装置」、分かりやすくかみ砕けば「端的なものを、無害なものとして受け入れ可能にする仕組み」であると定義しました。すなわち、宗教とは、たとえば近代科学を徹底的に押し詰めることで露わになるような――もちろん別の仕方でも露わになりうるような――「世界の根源的な未規定性」を、いわばバーチャルに覆い隠すために、無害なものへと加工する社会的メカニズムです。だからこそ、社会システム理論の立場から見ると宗教は不滅であらざるを得ないのです。
ただ、あとあと話したいことの絡みもあるので、一つだけ注釈をつけておきましょう。僕たちが「世界の根源的な未規定性」に向かい合ってしまうのは、トタリテート(全体性)への希求を持つからです。つまり全体を知ろうとするオリエンテーション(志向性)を有するからです。たとえば、論理を使って言語や思考を制御しようとすれば、それこそ論理て必然的に、その人は全体性への志向を帯びることになります。全体性への志向をもつと、必ず「世界」二は「端的なもの(たち)」が見つかります。つまり皺が生じるわけです。
「端的なもの」は、忘れるか、受け入れるしかありません。受け入れる場合には、無害なものへと加工して受け入れるんです。そこに宗教性が巣くう。実際には、無害化に向けた加工は、「神」概念のような「世界」の内と外に同時に属しうる「特異点」の導入によって図られます。そのことも後で述べるとして、いま述べたロジックを逆にたどれば、全体性や包括性への志向を放棄し、あるいは、「端的なもの」との出会いを次々に忘れてしまうことができれば、僕たちは宗教性から自由でいられます。
しかしその結果、僕たちの「世界」との関わりは、モザイク状に断片化することになります。もちろんそのように生きている人たちを、比較的容易に見出すことができます。しかし、それは僕たちが「皆」そのように生きられる「はず」だということではありません。
つまり、人は思考において全体性を志向する限り、「端的なもの」を受け入れるか、あるいはそれを忘却するか二者択一を強いられるわけです。忘却すればモザイク状に断片化した「世界」との関わりしか持てません。そして、受け入れるためには何らかの意味で宗教的な態度が不可欠になります。
もちろん、それはたとえばキリスト教のナラティヴをそのままに受け入れるというようなことではありません。しかし、ともかく何らかの形で「サイファ」を受け入れることなしには、人は「世界」を全体的に受け止めることができないのです。
⑥「推しを通して聖なるものを垣間見る」
この『サイファ覚醒せよ!』を受けて、マンガ研究家の藤本由香里は『きわきわ 「痛み」をめぐる物語』の最終章を書いています。その文章で、宮台の師にあたる見田宗介の『気流の鳴る音』や田口ランディの小説『コンセント』を引きながら、藤本はある種、「スピリチュアルな」論考を展開します。
宮台がいうところの「世界の未規定性」とは、つまり、この世界で起こっている諸々の出来事は、一見するとごくたしかそうに思えるにもかかわらず、その実、ほんとうにそれが確実であることはだれにも証明できないことを意味します。しかし、藤本によれば、そのように世界が未規定であるからといって、それがまったく「底が抜けている」とはいえないというのです。
否、純粋に論理的には「底は抜けている」。つまり、だれにもロジックだけでこの世界の実相を説明し切ることはできません。それは恐ろしいことです。何らかの「サイファ」、つまり「神」のような概念を用意するのでなければ、人は世界を無限に疑いつづけるしかないとうことだからです。
ですが、ここで藤本は、人が次の行動を決定するとき、論理的には不確定な世界に対し何らかの「見当」をつけていると語ります。つまり、純粋に論理だけで考えるなら、世界はどんな姿にも変わりえます。わたしたちは「世界の姿がこうである」という絶対に確実な答えを手に入れられません。どれほど科学的な探求をくり返しても、どこかで神の指さきがすべてを操っているかもしれないように。
しかし、それでも「おそらくこうだろう」と「見当」をつけて「賭ける」ことはできるし、人間はじっさいにそうしているのです。なるほど、宮台のいうように「世界の底は抜けている」かもしれませんが、それでもなお、わたしたちは「おそらく世界はこうなっているのだだろう」という「見当」をつけつづけることはできるということ。
藤本はパスカルの『パンセ』から言葉を引いています。
神はある、あるいは神はない。しかしどちらの側へわれわれは傾こうか。理性はここでは何事も決定することはできない。……表が出るかそれとも裏が出る。君はどちらに賭けるか……勝つかどうかは不確実であるなどといってもなんの役にも立たない。……賭けをする人はすべて、勝つ不確実さのために確実を賭ける……。
神があるのかないのか、人間の理性では決して決定できない。それはまさに宮台がいう「世界の未規定性」を覆う暗号そのもの、サイファだからです。ですが、だからといってすべてを「何もわからない」といって終わらせることが最善ではありません。
疑いの余地は永遠に残るとしても、限りなく「見当」の精度を上げて、どこかで「勝つ不確実さのために確実を賭ける」。たとえば科学とはそういう営みのはずです。何千回、何万回、実験と確認をくり返しても、科学は原理的に「絶対」にはとどかない。それでも、科学者は「おそらく世界はこうなっている」という「見当」の精度をしだいに上げていく。そして、どこかの時点で「信じる賭け」に出るのです。
世界は美しいかもしれない。醜いかもしれない。神はいるかもしれない。いないかもしれない。
「理性はここでは何事も決定することはできない」。
それでも、なお、わたしたちは世界に美しくあってほしいと望み、神聖なるものを「信じる」。
それはたしかに厳密に論理的な行為ではないでしょう。なぜならそれは「そうであってほしい」という「祈り」に過ぎないからです。ですが、藤本は書いています。
「私たちの「祈り」が届く一点がある」と。
それはわたしたちがそこへ向かって「賭ける」、つまり主観をジャンプさせる一点です。そして、彼女はそれを「私の北極星」と呼んできたと告白します。その北極星とはつまり、この世の「神聖さ」の道標です。人は何か「神聖なもの」に触れたと感じたとき、その向こうに「北極星」を見ているのです。
その「北極星」が具体的に何であるかは人それぞれ異なっているのが当然でしょう。ある人にとってはバッハの旋律かもしれないし、またある人にとってはラファエロの聖母子像かもしれない。藤本にとって、それは不世出の天才舞踏家シルビィ・ギエムの踊りだといいます。
彼女は書いています。
ところで、暗闇の中でまんじりともせず「世界は波動でできている」という考えと向き合っていたとき、「異次元が洩れ」、そこから吹きあがって来る風に精神が吹きさらわれそうになっていたとき、私は自分の正気を保つために「自分にとっての神聖なもの」の記憶を必死でたぐりよせていた。その中で、イメージや感覚ではなく、具体的に私が「信じられる」もの、神聖さの指標として浮かび上がってきたもの、それがシルビィ・ギエムの踊り(バレエ)であった。
萩尾望都『青い鳥』の中に「なにもかもなくしても 希望がなくても 世界が不条理でも 舞台だけは楽しかった……舞台にだけは青い鳥が住んでた」という一節があるが、ギエムの踊りはまさにそれを彷彿とさせる。
彼女が足を上げる、すると私たちはその向こうに、一瞬だけ永遠が揺らめくのをみる。彼女の腕が微妙に動く、その瞬間、自明であったはずのこの世界に裂け目ができ、私たちはその向こうに、もう一つ、別の次元の世界が揺らめくのを見る。それは不思議な感覚である。これは本当にこの世で起こっていることなのだろうか……?
なるほど、ギエムであれば、そのような「神聖さ」を感じさせても不思議ではない、そういうふうに思えて来ます。
しかし、世の中にはギエムの他にもさまざまに「神聖な」作家がいて、作品があります。たしかに不世出の天才バレリーナは「〈神聖さ〉のイデア」を表すためにふさわしいと思われますが、同じことはアニメでもマンガでもいえるでしょう。わたしたちはある人物や作品を通じ「神の世界」を視ます。そしてここまで来てしまえば、その人物なり作品を「推し」と呼んでも不自然には感じません。
推しとは「ありとあらゆる善きもの」の象徴であり、また集合だといいました。この不たしかな世界で信じられるもの。藤本にとってはギエムがそういう「推し」なのでしょう。それでは、あなたにとっては何でしょうか?
そのような存在と出逢ったことはない人もいるでしょう。そういう人は「底が抜けた」世界の未規定性に対し不安定であるといえます。なぜなら、ただ理性だけではその不たしかさに対して何もいえないのですから。
わたしたちはどこかで理性的な「無限の疑い」を捨て、主観的に飛躍する必要があります。そのとき、いったいどこへ向かってジャンプすれば良いのか。それを指し示すものこそが、あなたにとっての「北極星」であり、いい方を変えるなら「推し」なのです。
いわば推しとは別世界へ通じた聖なる回路、宗教学でいう「ヒエロファニー」なのであって、人の形をしていても、人ではありません。シルビィ・ギエムの一挙手一投足の向こうに「彼岸」が見えるように。
あまりに大仰な表現でしょうか。ですが、じっさいに多くの人が、ポップカルチャーの傑作名作を通じて、かろうじてこの世界につなぎ留められています。たかが音楽、たかが演劇、たかがアニメ、たかがマンガ――そうさげすむ人たちはいつまでもいなくなりはしないでしょう。しかし、一方でその「たかが」によって救われる人もいなくならないのです。それがカルチャーの価値。
藤本はいいます。
「それこそが「サイファ」であり、他のどんなものにも侵されない「〈神聖さ〉のイデア」、わたしの北極星なのだと思うのである」と。
しかし、どうでしょう? じっさいのところ、ほんとうにアイドルグループの歌声や、他愛ないアニメの数々がそれほどの力を持ちえるのでしょうか? 「〈神聖さ〉のイデア」を胸に抱きつづけることは大切。ですが、それにふさわしいものはもっとクラシックな名作であり、芸術的な傑作なのであって、猥雑なポップカルチャーなどではないのではないでしょうか。
おそらく、世間一般的にはそのような解釈がまかり通るでしょう。ですが、その「たかがマンガ」にしても、「たかがアニメ」にしても、「たかがアイドル」にしても、見かけよりずっと深い世界を隠しもっているのです。それが単に楽しく、享楽的なだけの文化なら、多くのファンを集めはしても、そこまで熱狂する人はあらわれないでしょう。
やはり、そこには「猥雑さ」を含み、なおかつそれを超えた何かがあるのです。
たしかに、並大抵の凡作は「サイファ」でも「〈神聖さ〉のイデア」でもありえないことでしょう。藤本の言葉によれば、その人物なり作品が「神聖さ」を示すためには「天上のもの」である必要があります。一般的なポップカルチャーで、遥かな天上を指し示すような名作になどめったに出逢えるものではありません。
ただ、その作品の客観的、一般的な評価は問題ではないのです。あくまで重要なのは、あなたやわたしといった個人がそこに何を感じ取るか。人が神聖なものを「視た」とき、それは人生を照らす北極星、つまり「光の道しるべ」となります。
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なお、この下の有料個所では無料個所の続きとして「⑦~⑫」までが書かれています。
見出しだけ挙げておきましょう。内容的にはスピリチュアル文化やオウム真理教などについて触れています。分量は有料個所と同じくらいです。
⑦「スピリチュアル文化の歴史と現状」
⑧「オタク文化のなかのスピリチュアルな表象」
⑨「人はなぜ非合理的なものを求めるのか」
⑩「人類は宗教を離脱するのか」
⑪「この世に不思議は残されているのか」
⑫「聖なるもののデカダンス」
また、月1000円のメンバーシップサークル〈グリフォンウィング〉に加入していただくと、過去とこれからの有料個所がすべて読めます。最初の三日はお試し無料です。良ければご加入ください。
⑦「スピリチュアル文化の歴史と現状」
第一章では、人がオタク文化のなかに「聖なるもの」を垣間見る理由について説明し、上質のスピリチュアリティを発見する重要性を解説しました。
それにしても、なぜ人はスピリチュアルなものに惹かれるのでしょう? それは一見して非合理的だし、直接に現世利益をもたらしてくれるわけでもありません。たしかにスピリチュアル文化の現場では「わたしを信じればお金が儲かる」という主張も時々見つかりますが、じっさいに効果があるとは信じられません。儲かるのはそれを信じた人から搾取した当人だけです。
いや、その信じがたい主張を信じるからこそ超自然的な文化を求めるのかもしれませんが、いずれにせよ、単純にお金を儲けたいだけならスピリチュアルに頼る必然性は薄いでしょう。そこにはあきらかに現世を超えた形而上的な観念に対するあこがれがあります。
しかし、ほんとうにスピリチュアル文化はその憧憬を満足させてくれるのでしょうか。この節では、少しオタク文化の話題から離れて、学術的には「新霊性文化」ともいわれるスピリチュアル文化の歴史と現状について語っておきたいと思います。
日本でスピリチュアル、あるいは「精神世界」などと呼ばれる文化は、海外では「ニューエイジ」として知られています。これはヘレナ・P・ブラヴァッキー夫人によって創設された神智学の大きな影響を受け、占星術的な意味での「新時代の文明」を目指す一連のムーヴメントで、1960年代あたりから発展しつづけています。教皇庁の調査によると「ニューエイジ」とは元々、薔薇十字団などによって使用された言葉であるといいます。
『アクエリアンエイジ』というトレーディングカードゲームがありますが、このタイトルはニューエイジの重要概念「水瓶座(アクエリアス)の時代」を借用しています。
また、モバイルゲームをたしなむオタクなら、たとえスピリチュアルにくわしくなくても、ヘレナ・ブラヴァッキーという名前に聞き覚えがあるのではないでしょうか。そう、彼女はTYPE-MOON制作の大人気ソーシャルゲーム『Fate/Grand Order』に過去の偉人の「英霊」として登場するのです(エレナ・ブラヴァッキー名義)。
『FGO』では直接に神智学のくわしい記述があるわけではありませんし、エレナは史実とほとんど関係ないようにも見えるのですが、それでもきわめて好意的な描写といって良いと思います。あるいは『Fate』シリーズの魔術描写自体、神智学の遠い影響を受けているのかもしれません。
それはともかく、60年代末からのカウンターカルチャー(対抗文化)の流れのなかでニューエイジは完全に花開きました。その内実は瞑想、チャネリング、占星術、気功、自然食、セラピーなどまさに多様ですが、重要なのはそこに近代的な科学文明への懐疑と反発がひそんでいたことです。
ニューエイジの歴史における最初の大きな出来事として、ニューヨーク州ウッドストックで開かれた「ウッドストックフェスティバル」とミュージカル「ヘアー」があります。両者とも音楽史のなかで特筆すべき重要な出来事ですが、当時のアメリカの若者たちは反体制を掲げ「新しい時代」を探し求めていったのです。
こういったカウンターカルチャーの空虚な実態を描写した面白く興味深い本としてジョセフ・ヒースの『反逆の神話 「反体制」はカネになる』があります。そういう「反逆の神話」の一部として、反近代、反文明があり、スピリチュアルな文化が求められていったわけです。
ニューエイジは、自己啓発とも無縁ではありません。たとえば「自己啓発セミナー」として知られるヒューマン・ポテンシャル運動もニューエイジの流れのなかにあります。かつて『新世紀エヴァンゲリオン』最終回の描写が自己啓発セミナーの亜流に過ぎないと批判を受けたことがありましたが、ある意味ではニューエイジの遠い余波が『エヴァ』まで続いているといえなくはないでしょう。
こういったニューエイジ運動は、日本に輸入されて「精神世界」として流行することになりました。宗教学者の島薗進によると、初めて「精神世界」という言葉が使用されたのは1977年のこと。また、日本で「スピリチュアル」とか「スピリチュアリティ」といった言葉が使われるようになったのは1990年代後半のことです。主に医療、それも死生学の分野での使用です。
現在でも、医学界では医療用語として「スピリチュアルケア」とか「スピリチュアルペイン」といった言葉が使用されています。それらの概念も「霊性」と翻訳されますし、宗教的な一面を持ってはいますが、ニューエイジや精神世界と直接に関係しているわけではありません。
そして「スピリチュアル」という言葉がより広く注目されるようになったのは2000年代に入ってからです。江原啓之による「スピリチュアル・カウンセリング」というパフォーマンスが話題を集め、またその名前を冠した本がベストセラーになったことが契機でした。
江原の「スピリチュアル・カウンセリング」は人気テレビ番組『オーラの泉』でも取り上げられ、高い視聴率を稼ぎ出しました。現在、「スピリチュアル」が心霊的なものと関連づけて語られているのは、江原の影響が大きいでしょう。オウム事件から十数年を経て、霊的な現象はまたも平然とテレビで扱われるようになったわけです。
オウムやその他の「カルト」を批判し攻撃しておきながら、一方でスピリチュアルな文化に近づいていくマスメディアの態度を軽薄と批判することは可能でしょう。ですが、ようするに需要があるから供給があるのであって、江原の人気はあの凄惨な地下鉄サリン事件を経てなお、この種の需要が残りつづけたことを示しています。
その後、霊的な現象はいくらか硬い印象の「精神世界」より、「スピリチュアル」という言葉で語られるようになります。それまで、こういったジャンルには恐怖体験的な暗さがぬぐい切れずありましたが、江原以降、非常に明るい印象になりました。
もちろん、その結果として、深い知識のない若者がスピリチュアルという言葉に惹かれ、全国各地であたりまえのように開かれている「ホリスティック」とか「ヒーリング」を掲げたイベントに出向き、結果として詐欺集団やカルト宗教の網にひっかかることも起こったでしょう。スピリチュアル文化のその明るさには功罪があります。
さて、先ほどから「スピリチュアル」という形容詞を「スピリチュアリティ」と同様の名詞として使用していますが、これは現代日本で慣例的に使用されている言葉遣いです。あるいは違和感がある方もいらっしゃるかもしれませんが、この記事ではこの使い方を貫きます。ご容認ください。
ともかく、こういった歴史をたどって、現在のスピリチュアル文化の良くいえば多彩な、悪くいうなら雑多な現状があります。試しにAmazonで「スピリチュアル」と入れて検索してみると、じつに膨大な本やアイテムが発見されます。宗教が衰えているといわれる現代社会でも、なお、スピリチュアルは人気を集め、開花しつづけているようです。
良いことなのか悪いことなのはわかりませんが、そういったスピリチュアルなものを求める心理にはそれなりの社会背景があります。そこにはある種の「霊的なものに対する飢え」すらあるでしょう。そして、この記事でいうところの「オタク・スピリチュアリティ」を求める心も、そういった心理と背景を同じくしています。
根はひとつなのです。
「精神世界」についてオタク的なことについても触れておきましょう。山折哲雄監修『宗教の事典』によれば、一部のアニメやマンガ、つまり『北斗の拳』、『AKIRA』、『風の谷のナウシカ』といった作品も、当時、若者たちにスピリチュアルな影響をあたえたといいます。
もちろん、これらの作品はあくまでフィクションとして書かれたものであり、また大方はフィクションとして認識され消化されたわけですが、それでも隠然たる影響はあったでしょう。
その頃、時代はまだ「ノストラダムスの大予言」の1999年を迎えておらず、またオウム真理教による地下鉄サリン事件も起こっていませんでした。マンガを読んだ結果としてオカルティックだったりスピリチュアルだったりする物事に惹かれる若者たちはいま以上に多かったものと思われます。また、逆に初めからスピリチュアルなものを求めてこういった作品にのめり込んだ者も少なくなかったことでしょう。
つまりは、オタク文化とスピリチュアル文化は異質ではあるが、ときに接近しながら歴史を紡いでいっているのです。
それはいまなおそうです。最近、オタクのあいだでも「スピる」という言葉がなかば自虐的に使用されています。それは、オタク文化とスピリチュアル文化がまったく縁遠いものであるとは限らないという、ひとつの根拠になることでしょう。
⑧「オタク文化のなかのスピリチュアルな表象」
次に、こういったスピリチュアルな文化が現代のオタク文化のなかにどのように取り込まれて行っているか見てみましょう。『FGO』や『アクエリアンエイジ』についてはすでに触れました。このほかにも、オタク文化にはニューエイジの影響を受けた作品や「宗教的なもの」が花盛りです。
単なる作中の小道具として使っている場合もあれば、まさに深遠な宗教的テーマを感じさせるものもあります。
たとえば、最近はネット小説の世界で「異世界転生もの」や「聖女もの」が流行しています。これらの作品では、おそらく明確に自覚はされていないでしょうが「転生」や「聖女」といった宗教的概念が流用されているわけです。もちろん、それらは単に物語を進めるために都合の良い素材として扱われているに過ぎず、宗教的な一面があるとはいいがたいでしょう。
しかし、もう少し本質的な意味で「宗教的」といいたいような作品もあります。渡辺聡『なぜ宗教はなくならないのか ポストモダンと宗教社会学 』では『機動戦士ガンダム』、『新世紀エヴァンゲリオン』、『ONE PIECE』などの作品の作品に宗教性を見ています。
「ニュータイプ」という神秘現象が出て来る『ガンダム』や、露骨に宗教的なモティーフが多用される『エヴァ』はともかく、『ONE PIECE』は意外かもしれません。しかし、渡辺が「空島編」を取り上げた文章によると、『ONE PIECE』のなかで「敵である神」は、「現代の若者たちが直面している非人間的な管理社会」を象徴しています。そして、この物語のなかでそのような宗教を打破できるものは「人間味を持つ主人公たちの正しい信念」だけなのです。
渡辺は書きます。
『ワンピース』は現時点ではまだ完結していないから、ここで詳しく書評するのは時期尚早であると思うが、それにしてもその物語は、社会全体が「官僚化」してしまい、人々の個人的なニーズに応えられなくなっていることへの怒りを表しているように見える。この物語の中で重要な存在となってきている「海軍」は、人々の幸せを踏みにじる悪として描かれており、それに対する徹底的な不信感が一貫して作品の中に流れている。当然のことながら、物語の中で主人公たちは反体制側に属している。話を現実世界に戻せば、なぜイスラム教という宗教が人びとを惹きつけ成長し続けているのかという理由も、抑圧されている人たちがグローバル化した管理社会に対して反発し、仲間に対する温かさに惹かれるという貴族の問題と関係づけながら考えることもできるのである。例えば、それはイラク戦争に従軍した黒人兵士がイスラム教に改宗したなどという事例の中に見出すこととができる。
ひとりの『ONE PIECE』の愛読者として、この意見にはうなずくところもありますが、一方で違和を感じないこともありません。『ONE PIECE』の読者ならご存知の通り、この作品における「海軍」は必ずしも「人々の幸せを踏みにじる悪」としてのみ描写されているわけではないからです。
たしかに主人公のルフィたちは「反体制側」に属していますが、だからといって単純に「反体制こそが正義で、官僚制は悪だ」とされているわけではありません。また、ひとりのオタクとしてわたしは『ONE PIECE』のこのような構造がエンターテインメントの長い試行錯誤の歴史の末に生まれてきたこともわかっています。
『ONE PIECE』の「反官僚主義的」な描写は、たしかに一面で暴力的に過ぎるかもしれませんが、しかし、一方では効果的であります。もしこのような展開を避けたなら、それこそポストモダン的な相対主義の地獄のなかで何ひとつ決断できなくなるかもしれないのです。
その話はともかく、この例のように、その気になれば既存のマンガやアニメには宗教的、あるいは反宗教的なテーマが数多く見つかります。
宗教学者の内藤理恵子は『新しい教養としてのポップカルチャー』のなかで『ドラゴンボール』を宗教と自己啓発の文脈に位置づけています。『ドラゴンボール』のどこが自己啓発かと疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、この場合の『ドラゴンボール』はそのスケールが爆発的にインフレーションしていった後半ではなく、主人公の孫悟空が亀仙人のもと修行する前半です。
亀仙人は「武道を学ぶことによって心身ともに健康となりそれによって生まれた余裕で人生をおもしろおかしくはりきって過ごす」、「いっしょうけんめい修行して人生を楽しくくらす」というモットーを掲げています。これが自己啓発的だというのです。
牽強付会に思われるかもしれません。しかし、現代の自己啓発本の少なくないものに『ドラゴンボール』の影が揺曳していることはたしかです。自己にリミットを設定せず、無限に成長しつづけるように見える『ドラゴンボール』の世界観は自己啓発と相性が良いのです。
また、このような見方に疑問を感じられる方も『鬼滅の刃』の儒教性については納得がいくのではないでしょうか。同書のなかで内藤は『鬼滅の刃』について、神話学の研究者である植朗子の『鬼滅夜話』、浄土真宗本願寺派の僧侶・松崎智海の『「鬼滅の刃」で学ぶはじめての仏教』といった本の名前を挙げながら、「もはや民間信仰?」と語っています。
80年代には「自己啓発の役割」「気晴らし」を担ったマンガが、2020年代には、そのエンタメ性をリバイバルしつつ、オタクカルチャーが一般化したことによって、その役割を拡大し、ついには民間信仰のようなものにまで発展したのです。
『鬼滅の刃』は日本映画史上空前にして、おそらく絶後になるだろう大ヒット作ですが、そこに人を惹きつける「宗教的なもの」を見て取ることは謬見とはいえないでしょう。
『鬼滅の刃』に見られる自己犠牲精神、私を滅し公に使える美学は、ときにファシズム的との批判を受けるにせよ、良くも悪くも個人主義的になってしまった社会で、わたしたちを強く惹きつけます。それは少し見方を変えれば宗教的ともいえます。
このようにマンガ・アニメ、あるいはゲームにも「宗教的なもの」は散見されます。また、オタク文化にはいわゆるオカルト的な表象もたくさん見つかります。たとえば「魔術」。
男性であれ女性であれ、オタクなら先述の『Fate』シリーズや『とある魔術の禁書目録』など、何らかの形で魔術が主眼となる作品に一度は触れたことがあるのではないでしょうか。
前節ではスピリチュアルがその明るいイメージによって普及したことを記しましたが、一方でもっと暗いもの、魂の深淵に宿る何かを示すような描写に対する需要もあって、そのため、魔術的なものが求められているわけです。70年代から80年代にかけてのオカルト・ブームの残滓といっても良いでしょう。
ともかく、オタク文化においては、スピリチュアルな、あるいはオカルティックな表現があたりまえのようにいくらでも見つかるのです。この宗教性に幻惑されると、そういった個所ばかりを発見しつづけて「オタクは宗教だ!」と叫ぶことになるのでしょうが、この記事ではもう少し深くこの主題を探究していきたいと思います。
オタク文化がしばしばニューエイジに酷似して見えることは事実です。ですが、それは単に伝統宗教からさまざまな意匠を借用しているというレベルに留まるものではなく、あるいはそのテーマが宗教的な域に達しているだけですらなく、オタクはほんとうの意味で「宗教的なもの」を求め、「宗教的な生きかた」を望んでいるという話をしたいのです。
それは、オタク文化を単に「性」と「快」の文化と見る見方をする人たちから見れば、意外な、あるいは不快ですらある見方でしょう。ですが、オタク当事者にとってはいままでわたしが話して来た内容はある程度の納得がいくものなのではないでしょうか。
オタクは、自宅の一室で、あるいは映画館で、コンサートホールで、推しにヒエロファニーを視ます。宗教的人間(ホモ・レリギオスス)としての聖なる体験です。
それを具体的に言語化できる人ばかりではないでしょうが、とにかくオタクの宗教的情熱は偽りのないものなのです。わたしはその由来をなるべく的確に言葉にしたい。
⑨「人はなぜ非合理的なものを求めるのか」
ここまで、オタク文化のスピリチュアルな一面について語ってきました。
科学合理主義が骨身に染みている人のなかには、こういった文化を取るに足らないもの、ばかばかしいものに過ぎないと却下してしまう方もあるかもしれません。じっさい、スピリチュアルな文化がすべて高尚だったり崇高だったりするわけではありません。むしろ、その反対のものが膨大に存在するのが実態です。
科学的であったり合理的であったりすることを誇りに思う人から見れば、こういった世界は世にも愚かしい信心と迷信の世界と思われてもしかたないでしょう。特にいわゆる「スピ本」は、ただそのタイトルを眺めただけでも、非現実的な誇大妄想としか思われないものが少なくありません。大天使ミカエルとか宇宙人バシャールとか、常識的には信じがたい世界です。
ただ、それはそれで、わたしたちのこの世界を説明しようとするひとつの「世界観」を形成しています。あたりまえの価値観ではなかなか受け入れられない話ではありますが、主流の科学とはまた異なるかたちでひとつのナラティヴを成しているのです。
わたしは基本的には科学の成果を信頼する立場に立ちます。何といっても、科学には間違いを検証するためのシステムが備わっているからです。科学においては、ひとつの事実は、単に権威や受賞によって正しいと認められるわけではなく、幾度もの実験によるファクトチェックを経て、初めて認知されます。あるいはそのファクトチェック自体が怪しく、批判の余地を残す分野もあるでしょうが、それでもスピリチュアルと比べるとその実証性は格段に違うはずです。
だから、わたしは科学を「信じ」ます。
一方で、第一章で「世界の未規定性」について語ったように、帰納的に事実を集め検証する科学の方法論では「絶対」はありえません。いま、事実とされていることもいつかどこかで覆される可能性は皆無ではないのです。それでも、科学の方法論は信頼に値します。否、むしろ、ひとつの事実を何度となく覆し、より精密に検証していこうとするそのダイナミズムこそが科学なのでしょう。
科学は必ずしも世界について明確な真理を示してくれるわけではありません。ですが、それはより正確な世界像を求めて動的に探索しつづけるのです。その素晴らしさ。しかし、それでは、この世のおおよそのことは科学を頼りにしていれば解決するのでしょうか。
人生の数々の問題に悩む人々は、じっさいのところ、科学の方法論を理解するだけの知性と合理性に欠けているだけなのでしょうか。そうではないでしょう。
そもそも、この世はほんとうにすべて合理的にできているのでしょうか。もちろん、近代科学の成果をまさに宗教のように信奉する立場に立てば、世界に不思議なこともないし、理不尽なことも何ひとつないことになります。すべてがひとつの精妙な時計仕掛けのように計算通りに動いているわけです。
つまりは、本来はこの世に不思議などなく、謎と不思議を生み出しているのはただ人の無知だということになる。それは一面で正しい見解かもしれません。わたしたちがいま、どんなに巧みなマジシャンの手品を見ても魔法だと思い込んだりしないのは、そこに「種も仕掛けもある」ことを予想するからです。
つまり、単に自分たちの無知ゆえに不思議に見えるのであって、じっさいにはそこには不思議は存在しないと認識しているわけです。そしてじっさい、マジシャンたちは本物の魔法使いなどではなく、そこには何らかのトリックがある。
わたしたちが不思議だと感じるあらゆることに同じことがいえるでしょう。自然科学の世界では、どんなに壮大な謎も、いってしまえば単に自然が仕掛けたトリックに嵌まっているだけであって、もし人間が十分に賢ければ、そこに謎など存在しなくなると考えることと思います。
そう考えていくと、どんなに不思議だったり、不条理に思われることも、ただ認識の不備からそう思われるだけだという結論が出ます。しかし、同時に、人が決して無知や誤謬から逃れられないことも事実です。もしはるか高みから地上のすべてを見下ろす「神の視点」に立つことができれば、この世のすべての出来事を深く納得して受け入れることも可能かもしれません。
ところが、ひとたび「地を這う蟻の視点」に立つとき、世界はまったく違う姿を見せます。一匹の蟻にとって、世界はどこまでも未知と困難と理不尽に満ちています。神の目で見ればこの世に未知はないわけですが、蟻にとってはまったく違います。次の瞬間に何が起こるのか、蟻にはまったくわからないし、たとえ「合理的に」起こった出来事であっても納得がいかないことがしばしばです。蟻にはものごとがいかにして起こるか理路を把握しきることはとても不可能なのです。
そして、人はやはり神より蟻に近い状態で生きています。たしかに、サイエンスの目は神の視座に近いところにあるでしょう。それは大宇宙の神秘をも解き明かしますし、人間を苦しめる病理のメカニズムも鋭く解明できます。科学の恩恵によって人は蟻の身分から脱して神に近づきました。ですが、それでも、科学は、なぜ「このわたし」が苦しまなければならないのか、その究極の理由を説明し切れません。
たとえばあなたが難病にかかったとしたら、科学は確率の問題だと冷たく告げるでしょう。科学の論理では、それはまったく正しいアンサーです。しかし、じっさいに生き、苦しんでいる人間はなかなかそういった答えでは納得し切れません。
べつのだれかでも良かったはずなのに、他ならぬ「このわたし」がその苦しみを受けなければならない理由は何か、人は求めつづけずにはいられないのです。
ビッグ・クエスチョン。
科学とは再現性によって成り立つ学問だとされています。ある人が見出だした事実を、他の人が再現して確認することができる、それが科学の客観性を成立させているのだと。
ですが、ある個人の人生に再現性などなく、すべてただ一回きりです。故に、科学は、たとえ「神の視点」に近いほど高みに立つことができるとしても、一匹の蟻を救えません。神の目から見た答えは蟻を納得させられないのです。
だから人はどこまでも悩みます。いったいなぜこの自分がこうした運命を甘受しなければならないのか。その答えを求めて哲学書や文学書を開く人もあるでしょう。それらは、ある程度は問いに答えてくれるかもしれません。
偉大な碩学や詩人は、人生についての素晴らしい洞察を教えてくれるでしょうし、そこに純粋な合理性で割り切れない人間心理に対する共感も見いだせることでしょう。たとえばプラトンやシェイクスピアを読むとき、わたしたちはそこに不変の人間の姿を見、心なぐさめられます。とはいえ、やはり倫理学でも抒情詩でも解き明かせない人生の謎は残るのです。
「なぜこのわたしだけがこれほど苦しまなければならないのか」。
「なぜ世界はこれほど理不尽にねじ曲がっているのか」。
いったんそう考えはじめたらその思考迷路から抜け出すことは困難です。そしてそのようなときにこそ、人は活路を求めて宗教の門を叩きます。何か辛い目に遭ったとき、苦しい出来事を経験したとき、たとえば「すべては神の御心」なのだと信じられれば、それで何もかも癒やされることはないとしても、少しは納得がいくからです。
そのようにして宗教は数知れない人々に救済をほどこしてきました。その、人生の圧倒的な無意味さに強靭な意味をあたえる機能の偉大さはどれほど強調しても足りません。仮にすべての宗教がまったくでたらめな妄想に過ぎないと認めるとしても、その妄想によって救われた人たちはたしかに存在するわけなのです。
しかし、長い年月を経て、大きく変化した社会をまえに、伝統宗教のリアリティは弱くなっています。もはやアダムとイヴが楽園を追放されて人類の祖先になりましたといったナラティヴが中世ほどのリアリティを持たないことは必然でしょう。そこで、人はスピリチュアルを求めることになります。
それは「神の視点」で見るとき、いかにも非合理です。ですが、伝統宗教と同じく、「蟻の視点」で見たなら苦しい人生に癒やしと救いをもたらしてくれることもあるのです。わたしはマクロな問題に対しては科学的合理性で答えを出していくことを支持しますが、一方でミクロな人生の問題に対しては、たとえば星占いなどで決めてしまうことをあざ笑うつもりはありません。人の心に「聖なるもの」を求める働きがあるかぎり、そういったスピリチュアルな文化は絶えないでしょうし、じっさいに心の支えになることもあるからです。
そもそも純粋に合理的な人間がありえるとして、その人が幸福だとは限らないでしょう。人間がどれほど合理的に行動したとしても、人生のほうは合理的に進むとは限らないのです。
その意味で、何らかのスピリチュアルな支えが必要な人は少なくないでしょう。ただ、スピリチュアル市場にならぶ「商品」の質は玉石混交です。そこで何かしらの「道しるべ」が必要になります。二流三流のスピリチュアリティに騙されないためにこそ、自分のなかに何らかの「神聖なもの」の道標がなければならないわけです。
⑩「人類は宗教を離脱するのか」
ここまで書いた来たようなスピリチュアルな文化には当然、大きな批判があります。
じっさい、それらは詐欺や、そこまで行かないとしてもダーティーなビジネスの温床になっている一面があるでしょう。また、ひとつスピリチュアルのみならず、宗教全体を批判する人もあります。
かつてアメリカで宗教批判の中心と目されていたのが「新しい無神論の四騎士」と呼ばれた四人の論客です。いうまでもなく聖書黙示録の四騎士から採用された異名ですが、かれらは神への信仰に終わりをもたらすべくあらわれた騎士と目されたのです。
そのなかでも日本で知名度が高いのは『神は妄想である』で知られるリチャード・ドーキンスでしょう。ドーキンスはまた『利己的な遺伝子』でも高名であり、世界的にその名を知られている人物です。かれはこの本のなかで徹底して宗教を攻撃しています。その態度は冷笑的かつ攻撃的で、いったい宗教に何の恨みがあるのかと思えてしまうほど。
とはいえ、その、どこまでも徹底して「科学的」に宗教を否定する態度には反論できないと感じた人も少なくないに違いありません。しかし、ドーキンスの思想や行動には根強い批判があるのです。それは単に伝統宗教から発せられているにとどまりません。たとえばフェミニストはドーキンスの男性中心的な態度にいらだちを隠しませんでした。
ドーキンスは理性を至上の価値とみなしながら、じっさいにはわかりやすく性差別的な態度を取りつづけました。より具体的には、男性を理性的と捉え、女性を感情的な生き物だと考えるという、それこそ「非理性的」な思想がその背景にあることが指摘されています。
また、ドーキンスはしばしばイスラム教を強く攻撃しますが、それもまた明確な根拠のないイスラモフォビアであり、本来、政治に理由があるにもかかわらず宗教を原因視する態度を崩さないことも批判されています。
理性を重視するドーキンスの姿勢は、見かけほど理性的なものではないのです。
たしかに、理性と科学を尊重することそのものは素晴らしいでしょう。しかし、口先で理性的であれということと、じっさいに理性的に振る舞うことは異なります。ドーキンスを初めとする「無神論の騎士」たちのマッチョな論理が批判を浴びるのは、決して頑迷な宗教論者が非理性的に文句をいっているだけのことではありません。
じっさい、ドーキンスの論理展開は強引で、科学的でも理性的でもないことを指摘する人もいます。『神は妄想である』のロジックを批判した一冊に、A・E・マクグラス及びJ・C・マクグラス『神は妄想か?』があります。科学者でありキリスト教徒である著者がドーキンスの説を批判的に検証した本で、ドーキンスがどのように議論を誘導しているか、ていねいに検証しています。
マクダラスはキリスト教徒としての立場から「宗教の幼稚さ」、「非合理性」を指摘するドーキンスのほうにこそ非合理性があることを検証します。マクダラスによれば、神なるもの、宗教的なものを批判するドーキンスの態度は多くの誤謬を犯しているのです。ドーキンスは宗教を否定したいあまり、恣意的に証拠を持ち出して攻撃することをためらわないようになっているといいます。
このマクダラスの意見は単に古い宗教的な人間が最新の科学に対し無謀な勝負を挑んでいるだけでしょうか。そうは思いません。なぜなら、マクダラスもまた科学の言葉をもちいドーキンスを批判しているからです。
マクダラスはひとりの敬虔な宗教者ですが、同時に科学の効果を信じてもいます。かれは『神は妄想である』の内容がとうてい「合理的」とはいいがたいと主張するのですが、それは科学的な理由に依っているのです。マクダラスによれば、科学を賛美するドーキンスこそが、科学的とはいいがたい態度によって無神論を「信じ込んでいる」に過ぎません。
これはひとりドーキンスのみならず「新しい無神論」そのものに対する効果的な反撃といえるでしょう。あきらかにドーキンスを初めとする多くの無神論者たちはただ「神を信じない」ことを選ぶだけではなく「信じたくない」と考えているからです。
それは無神論の立場こそが知的であり、理性的であるという「信念」に留まりません。信仰を持っている人たちは自分たちのような「目覚めた人間」に比べ、より幼稚で非理性的であるという傲慢な考えかたにまで至っています。まるで一部の宗教の原理主義者のように頑迷な「信仰」ではないでしょうか。
そういった信念を持つことは自由ではあります。しかし、その信念もまた一種の信仰に過ぎないという自覚は持つべきでしょう。自分たちの信仰だけは特別に客観的かつ論理的なのだという意見は、マクダラスが書いているように根拠がありません。
また、ドーキンスは宗教が一般に非倫理的なものであると攻撃していますが、マクダラスは聖書の「善きサマリア人」の喩えなどを持ち出して反論しています。わたしはマクダラスのほうが冷静で「科学的」な議論を展開していると感じます。
宗教とは、人の想像力の結晶です。宗教の物語では往々にして太古に神が人を生み出したとされていますが、むろん真実は異なります。人こそが、神を生み出したのです。そして、人はみずから生み出した神によって導かれてきました。神なるものは人の生き方の指針となったのです。
「おてんとうさまが見ている」といういい方がありますが、どこかで神さまが見ているという意識は人を善なる方向へ導きます。
もちろん、それですぐに人の心根が善良になるはずもありませんし、じっさいにそうはなりませんでした。ですが、少なくともそれは宗教の持つ善なる側面ではあります。宗教がなくなることは「おてんとうさまなど見ているはずもない」という世界観で生きることです。それでも人は善良さを失うことはないでしょう。しかし、必然的に不安定な一面を抱え込まざるを得ません。それは現代社会を見ていればわかることではないでしょうか。
結局のところ、いつか人類は宗教を離脱するのでしょうか? もちろん、完全に宗教が喪われることはないでしょう。ですが、この先の時代、いまよりもっと宗教文化がリアリティを喪失していくことは間違いありません。一朝一夕にすべてが変わっていくわけではないにしろ、宗教の影響力は低下していくことでしょう。
しかし、ここまで縷々述べてきたように、「宗教的なもの」が消失してしまうことはありません。したがって、わたしたちは「宗教的なもの」への想いを抱えたまま、「宗教なき時代」を生きていかなければならないことになります。それは宗教が倫理や生きかたの指針を示してくれない時代です。
宗教がなくても倫理は問題なく働くと思われるかもしれません。しかし、ドストエフスキーが「もし神が存在しないなら、すべては許される」と書いたように、宗教がないということは「絶対的な指針」が存在しないということです。
わたしたちはいわば羅針盤を失った船に喩えられます。現代社会という荒海で、何らかの「神なるもの」を求めたくなるのは必然ではないでしょうか。そういった時代性を背景に、オタク的な推し文化が繁栄を究めていることもまた、ある種の必然と思われます。推し活とは、しばしば失われた「絶対」をそこに見いだそうとする儚い努力なのです。
オタクはしばしば「善きもの」の指針を推しに求めます。いい換えるなら、推しを基準に「何が善いことなのか」判断するともいえるでしょう。それは長く困難の多い人生において、人を善い方向へ導いてくれると思います。
もちろん、絶対的な指針などなくても人は生きていけます。しかし、「人はパンのみにて生きるに非ず」。「ただ生きているだけ」の人生で、人はどうしても空虚感を抱え込むことになるのです。
いったい何のために生きているのか。自分が生きていることに何の意味があるのか。そういった、答えの出ない問いを抱えることもしばしばでしょう。そのような「実存的空虚」の解決はむずかしいものがあります。簡単なロジックで解き明かせる問題ではないからです。
ある人は恋愛に解を求めるでしょう。またある人は仕事に夢中になるかもしれません。その虚ろな胸をいかにして埋めるか、人はさまざまに試行錯誤します。そしてまたある人は、エンターテインメントに、ポップカルチャーに「神なるもの」を見いだします。そのとき、人は熱狂的なオタクになる。「オタク・スピリチュアリティ」とはそういうことです。
ポップなオタク文化は、猥雑と享楽、そして快楽を求めるポルノ的な文化に過ぎないように見えるかもしれません。ですが、それが猥雑であればこそ、その混沌のなかで人は神聖なものを求めるのです。
泥沼に可憐な花が咲くように。
⑪「この世に不思議は残されているのか」
じっさいにそうなるかどうかはともかく、このまま科学進歩と経済発展が続いていけば、宗教のような非理性的な教義はいつか消滅すると考える人は少なくないでしょう。社会学ではそういった考え方を「世俗化理論」と呼びます。
いまを去ること100年以上前に、そのような反宗教的な言説に真っ向から反対したのが、作家であり詩人であり、敬虔なクリスチャンであったG・K・チェスタトンです。
シャーロック・ホームズと並ぶ名探偵ブラウン神父の生みの親として知られるチェスタトンは、その代表的な小説作品も含め、「逆説」の名手として知られています。かれはしばしば、常識をくつがえす逆転した論理で真実を指し示しました。
ただ、チェスタトンの逆説とは、単に奇を衒ってみせることではありません。むしろその反対です。チェスタトンにとって、逆説とは「あたりまえのこと」とみなされるようになってしまった真実の価値をあきらかにするための方法論でした。
かれは一貫して「正統」の立場に立ち、科学による精神の堕落を批判します。その逆説はきわめて強烈です。
チェスタトンの「正統」と「逆説」の思想についてよくわかるのが、最近、文庫化された『正統とは何か』です。ここでチェスタトンは宗教の立場から科学を批判しています。キリスト教の伝統に乗っ取り、進化論を信じなかったというチェスタトンは、いまではいかにも無知な人物に見えるかもしれません。
しかし、かれの科学批判は、非常に本質的です。『正統とは何か』を読んでいると、むしろ科学を批判するチェスタトンのほうこそが科学精神の体現者に思われて来るくらい。
かれが批判しているのは、じつは科学そのものではありません。この世に満ち満ちたさまざまな「不思議」をまえに驚嘆することを忘れ、何もかも「あたりまえのつまらないもの」と看過してしまう「堕落した科学精神」こそが主な批判対称なのです。チェスタトンは不思議と魔法を擁護し「堕落した科学精神」を攻撃します。
ところで、詩人の金子みすゞに、「不思議」と題する有名な詩があります。こんな内容です。
私は不思議でたまらない、
黒い雲からふる雨が、
銀に光っていることが。
私は不思議でたまらない、
青い桑の葉たべている、
蚕が白くなることが。私は不思議でたまらない、
たれもいじらぬ夕顔が、
ひとりでぱらりと開くのが。私は不思議でたまらない、
誰にきいても笑ってて、
あたりまえだと、いうことが。
チェスタトンが一貫して擁護するのは、この「誰にきいても笑ってて、/あたりまえだと、いうこと」を「不思議でたまらない」と感じる精神です。
そもそも、不思議とは何でしょう。先述したように、それはようするに、人間の無知から来ている感覚なのではないでしょうか。ゆえに、常識的に考えれば、神の視点から見ればこの世に不思議などないという答えが出て来ます。ですが、チェスタトンによれば、ほかならぬ神こそが、だれよりも最も世界の不思議に驚嘆しているものなのです。
太陽が毎日昇り、降りるのはなぜか? チェスタトンは答える。それは神が無垢な子供のように太陽の昇降に驚きを感じている証拠なのだと。
かれの考えかたでは「あたりまえ」とされるものごとは、じつはちっともあたりまえではありません。「黒い雲からふる雨が、/銀に光っていること」ことや、「青い桑の葉たべている、蚕が白くなること」や、「たれもいじらぬ夕顔が、/ひとりでぱらりと開く」ことが、ほんとうはまったくあたりまえではなく、とても「不思議」なことであるように。
チェスタトンは「平凡」や「あたりまえ」とされ、その価値を見過ごされていることごとについて注意を喚起します。
平凡なことは非凡なことよりも価値がある。いや、平凡なことのほうが非凡なことよりもよほど非凡なのである。人間そのもののほうが個々の人間よりはるかにわれわれの精神を引き起こす。権力や知力や芸術や、あるいは文明というものの脅威よりも、人間性そのもの奇蹟のほうが常に力強くわれわれの心を打つはずである。あるがままの、二本脚のただの人間のほうが、どんな音楽よりも感動で心を揺すり、どんなカリカチュアよりも驚きで心を躍らせるはずなのだ。死そのもののほうが、餓死よりもっと悲劇的であり、ただ鼻を持っていることのほうが、巨大なカギ鼻を持っているよりもっと喜劇的なのだ。
こういった考えかたこそがチェスタトン一流の「逆説」であるわけですが、それはつまり「堕落した科学精神」への痛烈な批判であると同時に「真の科学精神」の擁護でもあるといって良いでしょう。
「黒い雲からふる雨が、銀に光っていること」といった、一見、「あたりまえ」とされることを「不思議」と感じ、「いったいなぜなのだろう?」と解き明かしていったことこそが本来の科学だからです。
問題は、そうやって解き明かした結果、「不思議」だったはずのものは「あたりまえ」になるということ。科学はそうやってどんどん新しい「不思議」を求め「あたりまえ」の領域を増やしていくのですが、その結果、生まれるものは「何も不思議なことなどない」というすこぶる退屈な世界なのではないでしょうか。
いや、最先端の研究者たちは、あいかわらず巨大な「不思議」に挑戦しつづけることができるかもしれませんが、大多数の一般人は「何も不思議なことなどない。すべてはあたりまえのことばかり」という世界観に安住することになります。あるいは、それが「大人」なのかもしれませんが、その世界観はどうしようもなく退屈です。
チェスタトンの立場はまったく異ります。かれによれば、この世は「不思議」に満ちていて、「あたりまえ」のことなど何もないのです。
では、なぜ卵は鳥になり果実は秋に落ちるのか、その答は、なぜシンデレラの鼠が馬になり、彼女のきらびやかな衣装が十二時に落ちるのか、その答えとまったく同じである。魔法だからである。「法則」ではない。われわれにはその普遍的なきまりなど理解できないからである。必然ではない。なるほど実際には必ず起きるだろうと当てにはできるが、しかし絶対に起こらねばならぬという保証はまったくないからである。
このような論理展開を、つまらない屁理屈、科学に対する侮辱だと感じるでしょうか。わたしにいわせれば、このような考えかたこそ真に科学的です。
科学に「絶対」はありません。科学は帰納法的にさまざまな事実を集め、そこに一貫した「法則」を見いだしはします。しかし、それは「絶対」の真理などではありえません。その事実が科学の根幹にあります。つまり、世界のすべては「魔法」なのであって「絶対の法則」などありえないとすることもまた科学的態度なのです。
科学が「法則」と呼んでいるものは、その実、不思議な不思議な魔法である。その事実を忘却することこそが科学を退屈にします。科学の堕落です。
人は幼い頃、だれもが現実世界のひとつひとつに驚きます。幼い子供によっては、ただ川に流れていることでも大いなる脅威です。しかし、歳を経るとその驚きをふたたび感じるために「ファンタジー」を必要とします。つまり、すべてのファンタジーはリアリズムのワンダーを思い起こさせるために存在しているのです。そして、科学もまたそういうファンタジーのひとつなのです。
わたしなりにチェスタトンの言葉を理解するとそういうことになります。
かの『ナルニア国ものがたり』の作家ルイスはチェスタトンの影響を受け、また『スター・ウォーズ』の構成はその『ナルニア』を反映しているといいます。チェスタトンの影響は、その「正統」の精神とともに、いまなお生きているのです。
さて、『スター・ウォーズ』といえば、国勢調査で自分の宗教を「ジェダイ」と回答する動きが話題になったことがありました。ご存知のことと思いますが「ジェダイ」とは『スター・ウォーズ』のなかで「フォース」を使いこなす善の側の騎士たちを指します。つまり「ジェダイ教」というべき新たな宗教が生まれたと考えることができるのです。
そうはいっても、もちろん、これらはある種のちょっとしたジョーク、それこそオタク的にアイロニカルな意見に過ぎないでしょう。「ジェダイ教」の「信者」たちが『スター・ウォーズ』の熱烈なファンであること、また、ジェダイの教えに何かしらの生きる指針、道徳の基盤を見いだしていることも事実かもしれませんが、だからといって日常をジェダイ的に生きている人は少数派に留まるはずです。「ジェダイ教」は、宗教のようなものかもしれませんが、宗教ではありません。
しかし、そう認めるとしても、単なるエンターテインメントであり、ポップカルチャーにおけるひとつのヒット作に過ぎないものが、宗教的に受け入れられている事実は興味深いものがあります。無宗教の『スター・ウォーズ』ファンの人々は『スター・ウォーズ』のなかに自分を教え導く「宗教的なもの」を見いだしたのかもしれません。
そういうことは『スター・ウォーズ』以外の作品でもよくあることのはずです。そしてそういった作品たちがほんとうの意味で興味深いものでありえるかどうかは、そこにチェスタトンがいうところの「ファンタジー」の精神、つまり「真の科学精神」が宿っているかで決まるでしょう。
チェスタトンがいうように、この世は魔法に満ちていて、不思議なことばかりです。さまざまな物語たちは、わたしたちにそのことを思い出させてくれます。それが、本来、あらゆる「スピリチュアリティ」の根底にあるべき、センス・オブ・ワンダーの精神なのです。
⑫「聖なるもののデカダンス」
この章の最後に「スピリチュアルなもの」、あるいは「宗教的なるもの」が惨禍を巻き起こす忌まわしい例について触れておきたいと思います。
オウム真理教事件です。
日本中に衝撃と戦慄をもたらし、オウムの名を知らしめた地下鉄サリン事件も、すでに30年近く前のことになりました。いまの若い読者はオウムについてくわしく知らない人のほうが多数かもしれません。
この記事の目的はオウムや新宗教を語ることではありませんから、この節で触れるのはその詳細ではありません。ですが、人はなぜスピリチュアリティを、あるいは「聖なるもの」を求めるのか。そして、いったんその歯車が狂ったときどうなってしまうのか。オウム真理教がひき起こした一連の事件は、いまなお、わたしたちに多くのことを教えてくれます。
海外には同程度かそれ以上の規模の宗教テロ事件もありますが、少なくとも国内においては地下鉄サリン事件は空前の(そしてまた絶後であってほしい)大事件です。その犠牲者はいまでも苦しんでいるにもかかわらず、オウムとは何だったのか、完全に総括されたとはいいがたいでしょう。将来にわたってもオウムが語り尽くされることはないかもしれません。ここではオタク宗教としてのオウムの一面について触れておきたいと思います。
いまとなってはオウムとオタクがいったい何の関係があるのかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、オウムはじっさい、オタク的な側面をあまた持ち、その布教にはアニメが使用されたりしていました。その荒唐無稽さはオタク的には失笑ものではあるものの、それでもオウムのオタク的な濃さは「おたくの連合赤軍」と呼ばれたくらいなのです。
オウムの背景には、あきらかにオタク世代のニヒリズムがありました。その根底となっている実存的な不安感について、ここでは地下鉄サリン事件ののち、オウムを脱会した高橋英利の著書『オウムからの帰還』に典型を求めてみます。
幼い頃、高橋は自分が暮らしていた団地の外へと「ちょっとした冒険」を試みます。ところが、その冒険は思わぬ結末にたどり着くのです。はらはらどきどきの時間の末、ようやく自宅にたどり着いたはずのかれは「べつのお母さん」と出逢ってしまうのです。じつはかれはいつのまに自分が住んでいたのとはべつの団地に迷い込んでしまっていたのでした。
ただそれだけのことではあるのですが、このことは高橋の心のなかに深刻な問題を残します。
かれは書いています。
なぜ、僕はあの団地のあの女の人の子どもではなかったのか。なぜ、この団地のこの母さんの子どもだったのか。母さんが僕の母親でなければならなかった理由とはなんだろうか……。考えれば考えるほど、母さんが僕の母親である必然性がわからなくなっていった。
(中略)
もちろん、まだ幼かった僕がこんなふうに明確に意識していたわけではないが、自分の存在が「必然」ではなく「偶然」でしかないということを、感覚としてかかえこんでしまったのだ。自分の存在に対する漠然とした不安というものを初めて感じたのが、このときのことだったと思う。この不安感はその後もずっと消えることなく、僕の意識の奥底にこびりついてしまうのである。
ここで高橋は、すべてが偶然でしかなく、何が起こってもおかしくないという世界の無根拠さ、つまり宮台真司がいうところの「前提を欠いた偶然性」を幼少にして戦慄とともに実感したわけです。
この世のすべてのものには「そうであらねばならない」とする根拠がない、ただの無意味な偶然の集積でしかない。人間にとってこれ以上の恐怖があるでしょうか。たしかに「ぼくのお母さん」であるはずの人が、ひょっとしたら「べつのお母さん」であったかもしれない、それが唯一の論理的必然なのだとしたら、わたしたち人間の生もまた単なる偶然の連鎖のそのひとつ以上のものではないことになるのですから。
宮台が語るように宗教が「前提を欠いた偶然性」を社会的に馴致する装置であるとするなら、高橋がオウム真理教に惹きつけられることは必然でした。
わたしはこのエピソードから、栗本薫の短編小説「顔のない街」を思い出します(『伊集院大介の新冒険』収録)。名探偵伊集院大介シリーズの一作で、大介がそのずっと後になってかれの助手を務めることになる滝沢稔と出逢う印象的な物語です。この小説ではある団地にやってきた伊集院が、ひとつの殺人事件について推理します。推理小説のネタバレを行うのは禁じ手かもしれませんが、ここではあえて触れてしまいましょう(どうしてもネタバレを読みたくない人はこの節は飛ばしてほしいです)。
じつはその団地で起こったことは、まさに高橋が遭遇した「ちょっとした冒険」の顛末と同じ構造であったのです。つまり、この事件で殺害された人物は「まったくの間違い」によって殺されてしまったのでした。伊集院は事件について語るとともに、この「顔のない街」で、人々が「顔のない暮らし」、つまり交換可能な人生をしか送っていないことを嘆き、幼い滝沢稔に語ります。
「ぼくはね。稔くん」
伊集院大介はそっと云った。それはさながら空の向こうからきこえてくる優しい風の声のようにぼくの耳にひびいた。
「みんなに自分の顔を返してあげたいんだよ。――町にも、世界にも。人間たちにも、ね……そのためにぼくはこの町にやってきたのかなあと思っているんだ。この町で君にあえて本当によかったと思っているよ」
「ぼくはこんなとこに長いこといないよ。いるもんか」
「それはいいんだ。これは新しい町だから――だけどぼくが心配しているのは、この町だけじゃなく、世界が――」
どうでしょう、高橋の体験を踏まえれば、伊集院大介がいおうとしていたことはわたしたちにもよく伝わって来るのではないでしょうか。途中で切り取られた「世界が――」という言葉は、「世界が顔を失おうとしている」ということに違いありません。
その「顔」という言葉からエマニュエル・レヴィナスの哲学を思い出す方もあるかもしれません。ここでいう「顔」とは、つまり、その人を人間にしている本質そのものです。
本来、すべての人間は「顔」を持っています。さして独創的とはいえないかもしれないにせよ、その人固有の人生と苦悩とを備えていのです。しかし、可能なかぎり画一化された人間を生み出そうとする管理社会においては、その悩みすら、その苦しみすら、オリジナルなものとはいえなくなっているかもしれないのです。
たしかに世界はそもそも「偶然性」に満ちています。しかし、それでも、ほんとうならこの世で「まったくの偶然に」出逢った人と人は絆を結ぶことができるはずです。伊集院大介と滝沢稔がそうしたように。ですが、「顔」を持たない、あるいは奪われた人間たちにとっては、その紐帯は不可能なものなのです。
高橋は間違いなく「ぼくのお母さん」であるはずの人が「べつのお母さん」であったかもしれないという偶然の可能性に恐怖しましたが、もし、かれがその偶然に確固たる価値を見いだせていたなら「ぼくのお母さん」の「顔」が代替不可能なものであると認識していたなら、状況は変わっていたかもしれません。
すべては偶然であり、代替可能である。オタク世代のニヒリズムはそこに原因があります。そして、しばしばオタクたちはその恐怖を、自分と他者の「顔」をしっかりと認識することで乗り越えるのではなく、ただ笑殺しようとすることでごまかそうとします。
オタクの冷笑主義の最も悪しき一面です。そのとき、オタク的な態度はまったく効果を表さないばかりか、最悪の結果につながる可能性を孕みます。
多くのオタクたちはいまなお「笑い」によってたとえばスピリチュアルを批判することを躊躇しません。オタクの歴史を研究している吉本たいまつが「おたく文化とスピリチュアル ~「笑い」の政治性~」(『サブカル・ポップマガジンまぐまvol.16』収録)で指摘しているように、そこには権力性と暴力性がともないます。ある意味では、かつて、オタクたち自身がそうされたことを立場を変えて行っているに過ぎないわけです。
それはひとりひとりのオタクの主観としては「権力に対する反抗」ですらあるのかもしれません。しかし、いまやそれははっきりと「権力にもとづく暴力」と化しています。弱いものいじめなのです。
わたしから見れば、そのような権力にもとづく搾取的、暴力的な行為が何ら安全弁となりえないことはいまとなっては自明に思えます。ですが、はるかに弱くなったとはいえ、いまなおオタク文化はその種のシニカルなニヒリズムに安全性を期待している部分はあるでしょう。
先にも述べたようにオウム真理教はそういったシニシズムの限界を示しているのですが、オタクはこの事件を「他人ごと」として処理してしまいました。しかし、たとえば竹熊健太郎が『私とハルマゲドン―おたく宗教としてのオウム真理教』で書いているように、オウムとオタクは同じ時代が生んだべつの可能性であるに過ぎません。オウムにはオタク的な一面があり、そしてオタクのなかにもオウム的なものはひそんでいます。
聖なるものの堕落と頽廃を極限まで突き詰めるとオウム真理教が生まれます。それは、多くの人々からあたりまえの「顔」が奪われた時代の「オタク的な」ニヒリズムの結晶です。オタクは、どのようにすればその虚無主義を乗り越えられるのでしょうか。この先の論考のテーマとして考えてゆくこととしたいところです。