わたしたちは差別者としてしか生きられない。ルッキズムの否定は人間の否定である。

 以前、映画『劇場版SHIROBAKO』について「女性描写の多様性が欠けている」ことを批判的に指摘するツイートが話題になったことがありました。

 ある意味で一面的、あるいは表面的な指摘とも見え、非難囂々だったのですが、ぼくは、じつはこれはなかなか面白いところをついているな、と思っています。

 もちろん、このワンカットだけを取って「女性はある種の規格に収まらなければ存在自体がないことにされるというのが、業界の空気をむしろリアルに映し出している」というのはあまりにも暴論とも思えるわけですが、まあ、たしかに男性描写の多様性に比べ、女性たちは一様に若く、可愛らしく描かれているとはいえそうです(もっとも、本編にはもう少し多様な女性も登場しているのですが)。

 この指摘そのものを納得はしないにせよ、ひとつの着眼点として、なかなか面白い。

 ただ、そういう描写になっている理由はあきらかで、まさにこの物語が女性たちを主人公にしているからなんですよね。

 いってしまえば現実には容姿が美しくなければアニメ関係者になれないわけではないのですが、物語のヒロインには、若く、可憐な人物が選ばれる傾向は当然ある。

 で、ぼくが思うのは、それは悪いことなのか、ということです。物語のなかの容姿の描写には多様性がなければいけないのか。

 とりあえずは男性は多様性があるにもかかわらず女性にはそれがない、その非対称性を指摘しているのだ、とはいえるでしょう。

 でも、この一件だけを取るといかにも女性差別のようだけれど、たとえば、少女漫画などでは男性の容姿のほうがかなり画一的な美形として描写される作品がいくらでもあると思います。

 本来、容姿とは関係ないビジネスマンやアスリートがなぜか美形ばかリ、という作品は往々にしてありますよね。

 そういう作品は、「男性はある種の規格に収まらなければ存在自体がないことに」されているといえるのか。

 理屈でいえば、男性であっても同じことになるはずでしょう。

 この理屈を進めていけば、少女漫画やボーイズ・ラブの男性ももっと多様な描写にするべきだ、ということになるはずです。女性はそれなりに多様な描写になっていることもあるわけですから。
ただ、現実的にはわざわざ不細工なキャラクターを出してもウケることはないと思えます。当然です。その需要がないのですから。

 『SHIROBAKO』にしても、ようは若くなく、容姿が可愛くない女性をヒロインに抜擢しても人気が出ないからそういう描写になっているに過ぎない。

 となると、いや、そういうふうに女性を容姿で差別することそのものが悪なのだ、というような話になって来そうです。

 しかし、くり返しますが、その作品のターゲットにとっての異性だけを若い美形に描く描写は、「女性向け」にもあるのです。

 べつだん、男性向けの萌えアニメだけがとくべつ差別的な描写をしているわけではない。

 結局のところ、それらの作品のターゲットには、自分にとっての「異性」には魅力的な容姿のもち主であってほしいという需要が明確にあるのであって、作品はそれを正確に投影しているに過ぎない、といえる。

 さて、それは悪いことなのか。ぼくはそうは思わないのですね。

 もちろん、『SHIROBAKO』にせよ、女性の主人公たちを、萌えキャラとまではいかないにせよ、一様に可愛い女の子に設定したことによって、一種のリアリティを損なってしまった面はあるかもしれません。

 もっと不細工な子とか、太った子などを混ぜていればより現実性を感じさせることができたかも。

 その意味で、この作品の描写が「アップデート」されていないと批判することはできるでしょう。

 でも、あたりまえのことですが、人間はやっぱり美しい容姿の「異性」を見ていたいわけですよ。

 そういう需要が歴然とあって、作品はそれに応えているに過ぎない以上、容姿描写の偏りを否定的に捉えても意味がないのではないでしょうか。

 もちろん、美しい「異性」を見たい、そうではない異性には魅力を感じないという「ルッキズム」そのものを否定するのならべつですが、現実に紛れてもなく人間にある傾向を否定してもしかたないように思えます。

 男性であれ、女性であれ、仮に異性愛者であるとするなら、自分にとっての恋愛対象となる「異性」には美しい容姿であってほしいとそれは願いますよね。

 もちろん、それでもあえて美形の絵面ばかりになることを否定し、不細工なキャラクターを出していくことによってのみ作品に深みが生まれるのだ、というような意見はありえるでしょうが、それはひとつの価値観であるに過ぎません。

 べつだん、若く可愛い女の子たちを中心にした物語が見たいという価値観に比べ、あきらかに優位にあるわけではない。

 そもそも「ルッキズム」という言葉は否定的に使われる傾向がありますが、人間を容姿で判断することは一切が悪いことなのでしょうか。

 現実的に考えれば、ぼくたちはどうしたって、不細工よりは美形に心惹かれる傾向があることは否定し切れないのでは。

 たしかに、本来、容姿と関係ないところで容姿の美醜によって資格が決められたりすることは理不尽ですが、だからといって人間が美醜を感知する感性そのものを否定し切ることはできないとぼくは思います。

 それはやはり、差別といえば差別でしょう。しかし、人の感覚からその種の差別性を完全にぬぐい去ることは不可能です。

 不細工な人に対しそれを指摘したりすることは許されない、というような価値規範を作っていくことによって、社会から表面的にルッキズムを追放することは可能でしょう。

 ですがそれはルッキズムが解決されなくなった社会ではありません。そのような社会でも、人は口には出さないだけでルッキズムにもとづいた判断を行っていくはずです。

 ルッキズム、容姿主義という名の「差別」をなくすことは、じっさいにはまったくできないことだといって良いでしょう。

 そう、ルッキズムは決して単純に「悪」ではないのです。

 ただ、社会のあらゆる面でルッキズムが偏重されることはやはりおかしいから、それは是正されていかなければならないだけのことで、逆にあらゆる面において美形も不細工も同じように扱わなければならないと考えることは無理がある。

 人は容姿にもとづいて人を差別する傾向がある。それをルッキズムと呼ぶなら、そのことは、決して純粋な悪ではなく、むしろ人の変わらない本質と見るべきです。

 人は美を求め、醜を嫌う。そのことは、どれほど理想的な社会においても変わらないでしょう。変わって来るのは、それを表に出すことが許されるかどうかだけ。

 そして、どうやらぼくたちはそのことが許されない社会に向かっているように思います。それは本当に正しいのかどうか、いまいちど立ち止まって考えてみるべきであるのかもしれません。

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