最近、注目しているマンガに『日本の月はまるく見える』がある。史セツキというペンネームの作家によって書かれた作品だが、じつはこの人、日本的な名前を使用しているものの中国人作家で、物語でも作者同様、中国人の女性漫画家が訪日しマンガを連載する過程を描いている。
なぜ、中国人がわざわざ日本にまでやって来てマンガを描かなければならないのか。現実世界の作者のばあいは競争が激しくしかもデビューもむずかしい中国のマンガ界を脱する意図があったようだが、作中の主人公は異なる。
彼女はいわゆる「腐女子」で、男性どうしの恋愛関係を描きたいのに、当局の検閲と規制がすさまじい中国では思うように描けず、遠い日本を訪れてそこで思う存分BLを描こうとするのである。
ただ、もちろん、それはすぐにはうまくいかず、紆余曲折しながら彼女の人生は続いてゆく――と、それは物語の話。非常に面白のでお奨め。
ただ、もちろん中国におけるBLの規制はじっさいに存在する厳とした事実であり、中国国内に何千万人いるとも知れない腐女子たちは書きたいものを書き、読みたいものを読むこともままならない日々を過ごしているのである。
と、ここであなたにいくらかBLの知識があればちょっと待て、と思われるかもしれない。最近、中国で発表された『魔導祖師』、『千秋』といったBL小説が次々と翻訳され、日本でも傑作として高い評価を獲得しているようではないか、あれは何なんだと。
ぼくはべつだん腐男子ではないのでBLにはくわしくないのだが、そのぼくですら『魔導祖師』が面白いという話はよく耳にしている。いったいなぜ、存在しない、してはならないはずの中華BLが日本で翻訳され人気を博すようなことになっているのか?
周密『BLと中国』はそこら辺の事情、裏事情をつまびらかにした驚くべき一冊。ほぼ150ページほどなのに3400円+税もする同人誌みたいな本ではあるのだが、この手の話に興味がある人は読んでおいて損はないと思う。
中国のBL事情がわかってめちゃくちゃ興味深いと同時に、どんなに規制されてもありとあらゆる手でBLを読もう、観よう、聴こうとする中華腐女子の皆さんの熱意に感動さえ覚える一冊なのであった。すごいなあ。
さて、日本の影響で「耽美(ダンメイ)」と呼ばれる中国のボーイズ・ラブだが、基本的に同性愛を認めない共産党政権の統治下にある中国では、その存在そのものが認められていない(ただし、中国は歴史的にはわりあい同性愛に対して寛容であるともいう。ただ、もちろん、それは「男性」同性愛の話であって、女性の場合はどうなのかわからない)。
しかし、その厳重な規制のもとでも現実にBLは描かれ、さらにはヒットしているのである。この本では、中国の作家たちがどうやって規制をくぐり抜けているのか、それが具体的な例を出しながらくわしく説明されている。
結論からいうと、恋愛や性愛の描写をどうにかごまかしながら出しているらしい。見る人が見ればあきらかに愛情をもって愛撫しているとわかる描写を「悪意でからかっているのだ」といいはったり、あるいはそもそもその種のシーンをほとんどカットしてしまい、「ブロマンス」の範疇で表現したりと、その努力は大変なものであるという。
また、こういった「耽美」作品が映像化されるときは(ヒットするのでしばしばアニメになったりドラマになったりするのだ)、それがさらに翻案されてアダプテーションと呼ばれる別ものに仕上げられる。
そして当局もこういった「耽美」のソフトパワーを無視し切ることはできず、一定の範疇でいわば黙認する形になっているのが現状らしい。
ただ、そうはいってもやはり「耽美」の発表はリスキーで、だからこそいちばん上に名前を出した『日本の月はまるく見える』のようなことも起こってくるわけだ。
『BLと中国』のなかではそれでも権力がある者はある程度見逃されたりする例が出てきて、きわめて生々しく中国の現実が伝わってくる。どんなにしいたげられても「耽美」を、BLを望む女性たち(と、一部の男性たち)の熱意は数々の名作を生み出し、それが日本にまで伝わってきているわけである。
もっとも、中国のBLは内容的に日本のものとは異なる個性を持っているという。ともすれば主役たちの狭い関係にフォーカスしひたすらエロに走る傾向もつよいであろう日本のBLに対し、規制のためにそのような内容となることができない「耽美」は豊饒な物語性を持ち、それがまた日本の読者にウケているのである。
また、「耽美」には現在、「脱恋愛」傾向すらあるという話には驚かされる。日本の感覚でいえばボーイズ・ラブからラブを取ったらただのボーイズしか残らないではないかと感じるところだが、中国の「耽美」ではまた話が異なるようだ。
もちろん、読めるものであれば主人公たちの熱いラブストーリーだけを読みたいという人も大勢いるだろうことは想像にかたくないけれど……。
そういうわけで、いろいろな意味で興味を惹きつけられる本なので、おとなりの国ではBLはどうなっているのかと知りたい方はぜひご一読されると良いだろう。
文章はかなり硬く、異国の事情を語っていることもあって必ずしも読みやすいとはいいがたい本ではあるが、内容の充実は保証する。いやあ、いまの中国ってこんなことになっていたんですね。
あくまで表現を検閲し、「不適切」とされるものを排除しようとする共産党政権のやり口にあらためて反感が湧くとともに、どんなに法で縛り、規制しようとも人の情熱や欲望はとどめられるものではないこともよくわかる。
日本にも太平洋戦争が終わったとたんにマンガを描きはじめた作家がいたわけで、人間のフィクションに関する欲求は決してあなどれないものなのだとあらためて感じ入る。それはときとして国をも動かすほどのものとなるのだ。
最後にひとつ気になったことを記しておくと、著者はあとがきでフェミニストによるBLへの批判を取り上げ、「作品を真剣に現実として捉える人はさほどいないため」BLは女性そのものに対する嫌悪ではないと記している。
これはほんとうにそうなのかもしれないが、そのまえにはBLは「女性のファンが嫌う女らしさの部分」を除外してくれるものだとも書かれているのである。
「女性そのもの」に対する嫌悪はなくても、「女らしさの部分」に対する嫌悪はあるということになるわけで、かなり微妙な表現だといえるだろう。
男性のぼくとしてはどういうことなのかいまひとつ実感が湧かないのだが、その「女らしさの部分」とは具体的にどういうところなのだろうか。ある程度は想像がつくけれど、もう少しくわしく書いてほしかった。
それに、「真剣に現実として捉える人はさほどいない」のだからという記述に一抹の寂しさを感じるのはぼくだけなのだろうか。
もちろん、BLはフィクションでありファンタジーであり、現実離れした表現ではあるだろうが、受け手のひとりひとりはシリアスに受け止めているものと考えたいのだ。
人それぞれとはいえ、腐女子の多くはただ自分にとって都合の良い表現、物語だからBLや「耽美」を愛好しているのではなく、そこにはなにかもっと切実な情緒が介在しているのだろうと思う。
それだけに、「あくまで非現実だから」という表現は、ある種のエクスキューズではあるとしても、複雑な感情を覚える。
それにしても、いったい、十数億の中国人が心置きなく「耽美」を楽しめるようになるまで、どれほどの月日が必要だろうか。異国にあってぼくはそのストレスを思い、やっぱり日本ではこの上、規制を進めるようなことはあってはならないと感じるのであった。
この記事の結論はそれである。表現の自由を、守り通そう。BLでも百合でも、異性愛作品でも何でも読める社会を維持するために。