早川書房の最大80%オフセールに便乗してSFやファンタジー、ミステリの名作傑作を並べた以下の記事が300ブクマを獲得してわりと読まれた。
結果、アフィリエイトの報酬がそこそこの額になっていて、ありがたいかぎりである。
海外の名作SF中心のいってしまえば平凡なラインナップなので、こんなに需要があるとは思わなかった。
ここで取り上げたSF小説はオールタイム・ベスト級の有名作品が多く、頭のどこかに「いまさら紹介しても」という気持ちがあったのだが、そうはいってもほとんどの人は読んでいないのである。
あたりまえといえば、あたりまえのこと。思い込みで判断しないで書いてみよ、という教訓を得るべきだろう。ほんと、先入観や固定観念は良くない。
ちなみに、現在、国内のSF小説は何度目かの黄金時代を迎えているといわれていて、非常に質が高い作品が次々と発表されている。
その一方、どこかで読んだのだがファンの年齢は高齢化の一途をたどっており、現在、平均すると50歳以上だともいう。
これでは、いくら作品の質が高くても早晩、ジャンルとして行き詰まってしまうことはまちがいない。新しいファンの獲得が急務といわれるわけである。
ただ、ファンが高齢化するのにはそれなりの理由があるわけで、いま、まったく新たにSF小説に手を出すためのハードルはそうとう高いといって良いだろう。そのことについては、最近、以下のような記事が書かれている。
「SF小説をどうしても読み通せない」という内容だ。じっさい、「ほんとうにそうだよなあ」と思わせられる話で、脳裡にいままで投げ出してきた数々のとっつきにくいSF小説が思い浮かぶ。
やっぱり、50年代とか70年代あたりの古典はまだしも、現代のSFの多くはおせじにも読みやすいとはいえないに違いない。
しかし、だからといって「読み通せないなどという軟弱者はいらん!」といっていたら、ジャンルは滅亡するしかない。やはり、作家の側ももう少しリーダビリティの高い作品を書こうという工夫が必要なのではないか。
といっても、数あるジャンルのなかからよりにもよってSFを選ぶような作家たちである。放っておいたら絶対に読みやすさを向上させようなどとはしないだろうだから、ファンの側が「読めないよ!」「わからないってば!」といっていく努力がいるのかもしれない。
いや、これもまあ、わざわざSFを選んで読むようなファンだから、決してそういうことはいわないだろうけれど……。だれか世界の中心で「もっと読みやすいように書け!」と叫んでください。
第三だか第四だかの夏の時代を迎えているという昨今のSF小説には、たしかに鮮烈な魅力がある。
それはそうなのだが、時は経ち、SFを取り巻く状況は変わってきている。このまま、狭いコップのなかの評価だけで満足しているのではあきらかに問題がある。
もっと「外」へ向かって訴えかけていくべきなのではないかと思うのだが――しかし、やはりそれはむずかしいよなあとも感じるのである。
SF者が考える「面白さ」と非SF読者が考える「面白さ」がかなり乖離していて、交錯するポイントがない。結果として、非SFの人たちにとっては、多くのSF小説が「なんだかこむずかしくてよくわからないもの」になっている現実がある。
この問題は深刻で、しかもSFファン自身はとくに困っていないから解決しようという機運にならない。ひっきょう、少なくとも国内では、SFという文学はこのまま内向きにだけ盛り上がりながら少しずつ衰微してゆくよりないのかもしれない。
いまから20年くらいまえに「冬の時代」がささやかれ、「最近のSFはすべてゴミだ!」みたいな極論が語られ、「何とかしなければいけないんじゃないか」と色々な人が考えたときに、SFの民は「変わらない」というか「より先鋭化させる」ルートを選んだわけだ。
その結果として読者の高齢化があるのなら、これはもうしかたないことなんじゃないか。
あるいはそのどこかに「凡俗の読者に媚びへつらってまで存続したくない」という気持ちがあるのかもしれないし、もしそうならもうひとつの運命の選択である。ぼくのような「ぬるい」読者がどうこういうことではないだろう。
いくらなんでももう少し「入門」に適した作品が人気を得ても良いだろうとは思うのだけれど……。
少なくとも海の向こうでは『三体』や『プロジェクト・ヘイル・メアリー』みたいな破格のエンターテインメント大作が人気を得ているわけだし。
よくSFの魅力は常識をくつがえす「センス・オブ・ワンダー」にあるといわれるが、いまとなっては「既存の常識をくつがえして、くつがえして、くつがえしたところ」がSF作家にとってのスタート地点になっていて、そこからさらに「くつがえされて、くつがえされて、くつがえされた常識」をさらにくつがえそうとするなら、いままでの経緯を知らない読者にとってはとても理解しづらいことになってしまっているのだろう。
この手の先鋭化というか先細りの問題は、ひとつSFに限らず、あらゆるジャンル、あらゆるカルチャーにつきまとうものではあるのだろうけれど、たしかに日本のSF小説はそのひとつの典型を示しているようにも思われる。
「まず1000冊読め」といわれて、素直に1000冊読もうと思う読者など、いまとなってはどこにもいないと考えなければならない。
SFの妙味は世間一般で信じられている「あたりまえのこと」を疑い、「もしかしたら違う可能性があるかもしれない」と示すところにある。
それはたしかに素晴らしい。たとえばSF史上屈指の天才作家といわれるスタニスワフ・レムやグレッグ・イーガンといった作家は、ぼくたちが寄って立つ常識の地面を粉々に打ち砕くような作品をたくさん書いている。すごいことだとほんとうに思う。
でも、そうやって「裏の裏の裏の裏……」みたいなことをくり返していると、「そもそもいまは裏なんだっけ、表なんだっけ」みたいなことになってしまう。
いまとなってはSFの古典の多くはそもそも入手できないのだから、もっと素朴なポイントから始まるSFが書かれ、また評価されても良いと思うんだよなあ。
たとえば昨年、海外SFのベスト10上位に選ばれたジェフリー・フォードの幻想文学短編とか、たしかに最高だとは思うが、なかなかすんなり入るのはむずかしいだろう。
その意味で、主人公自身がまったく何もわからないポイントから始まる『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の読みやすさ、わかりやすさはやっぱり賞賛に値する。
読者にとくべつな知識や見識を要求せずちゃんと一段一段と階梯を登りながら宇宙の果てまで連れて行くことの大切さ。あるいはそういうSFは熱心なファンにとっては素朴で退屈にも思えるかもしれないが、ぼくはそういった作品が高く評価されても良いと思うのだ。
最終的な到達点は時の彼方、次元の向こう側であるとしても、ちゃんと個性ある魅力的なキャラクターを用意して、あたりまえの日常から始めてくれると格段に読みやすいのである。
でも、そんな配慮はつまらないことですかね。この文章を読まれているあなたは、どう思いますか。
「SFの夏」はたしかに熱い。しかし、ぼくのような「部外者」にとってはいささか暑すぎるので、もう少し涼しくても良いように思えるのである。少なくともクーラーのついたへやのひとつもあればと考えるのだが、いかが。