はじめに
先日、作家・田中芳樹の大長編架空歴史小説『アルスラーン戦記』が完結しました。
この作品はじつに80年代中盤の始まりであり、全16巻の完結までに30年以上もの歳月が必要だったことになります。
田中芳樹さんの全作品のなかでも、『銀河英雄伝説』や『創竜伝』と並んで最も長大な作品であり、まさに代表作というのがふさわしいでしょう。
しかし、この『アルスラーン戦記』、ネットではその終わり方が賛否両論、というか、ほとんど否定的な意見で、あまり褒めている人を見かけません。
まあ、声が大きい人の意見がやたらに支配的になりがちなインターネットなので、実際にはもっと肯定的な意見もあるものと思われますが、とにかく目に見えるところでは非常に批判的な評価が多勢を占めています。
いったいこれはどういうことなのか。そこにどのような理由があるのでしょうか?
はたして本当に『アルスラーン戦記』は良き終わりを全うしなかったのか、私見を述べてみましたので、ご一読いただければ幸いです。
『アルスラーン戦記』の結末
『アルスラーン戦記』そのものは田中芳樹のマスターピースのひとつです。
最高傑作かというと議論があるところでしょうが、途方もなく面白いエンターテインメント小説であることは間違いありません。
遥かな異郷のパルス王国が、遠方からやって来たルシタニア王国軍の襲来を受け、思わぬ大敗を遂げるところから始まり、パルスの王太子アルスラーンを主人公に繰りひろげられる物語は、まさに波乱万丈、娯楽大作の王道を往く面白さです。
やがてアルスラーンは王位に就き、「解放王」アルスラーンと謡われるようになっていくのですが、最終的にはかれのまえに伝説の蛇王ザッハークが立ちふさがります。
邪悪の魔王と主人公の戦いといえば、いまでは定番も定番の展開ですが、『アルスラーン戦記』の場合、面白いのはそこに周辺諸国の思惑が絡んでくること。
パルスの肥沃な孤独を求める周辺の国々、その王座にある梟雄たちは、蛇王の再臨と時を同じくしてパルスを目ざし始め、かくしてアルスラーンはその治世で最大の危機に陥ることとなるというところで第15巻は終わっていたのでした。
そして、第16巻。ついにアルスラーンたちと復活した蛇王との正面対決が描かれます。
描かれるのですが――これが不評だったのですね。
どこがどう不満を集めたのか。ひとつには、アルスラーンと、かれの「十六翼将」たちがほとんどことごとく討ち死にを遂げる「全滅エンド」が賛否を呼んだということがあるでしょう。
アルスラーンが蛇王を打倒した時点で、かれと、かれの配下の「十六翼将」と呼ばれる将帥たちのうち、生き残ったものは、ただギーヴ、ファランギース、エラムの三人のみ。
アルスラーンその人と、他の十三人は皆、戦場に屍を晒すこととなったのです。
この衝撃的ともいえる展開は、賛否を呼んで当然といえば当然です。とはいえ、余人は知らず、もともと田中芳樹は「皆殺しの田中」とまでいわれた(自ら名乗った)作家です。
単にほとんどのキャラクターが「皆殺し」になった。それだけなら、そう驚くべきことでもないでしょう。
それでは、ほんとうの問題はどこにあったのか。
田中芳樹は「衰えた」のか?
あくまで虚心坦懐な視点で『アルスラーン戦記』のクライマックスを見てみると、やはり田中芳樹さんの筆力が衰えていることは否めないように思います。
もちろん、どう評価するのは人それぞれですが、それでも全盛期の凄みを思うと、「衰えたなあ」と思わされてしまうことはどうしようもありません。
おそらく、ほとんどの読者は全盛期の「田中節」を期待していたのでしょうから、最終巻の淡泊な展開は肩透かしに終わった感が強かったことでしょう。
端的に衰えを感じるのは、各登場人物の死にざまです。
そもそも「皆殺しの」田中芳樹は、自分のキャラクターたちの死に方を恐ろしく格好良く演出することの達人です。
かれの小説ではほとんど常に主だった登場人物のほとんどが何らかの形で死んでいく様が描かれることになるのですが、その圧倒的な格好良さは、他にほとんど並ぶ者がいないほどのものです。
そのもっとも端的な成果は間違いなく『銀河英雄伝説』でしょう。
この大名作においても、ラインハルト・フォン・ローエングラム、ヤン・ウェンリーを初めとして、主役級の人物たちは大半が死亡しています。
しかし、ただ死んだわけではなく、とにかく印象的な死に方をしていました。
特に名を挙げるのなら、ジークフリード・キルヒアイスと、そしてオスカー・フォン・ロイエンタール。
このふたりの死にざまは、あまりにもかれららしく、きわめて深く心に残るものでした。
『アルスラーン戦記』にしても、多くの読者は、まさにこの『銀英伝』のような描写、演出を望んでいたことでしょう。その望みは残念ながら果たされなかった。これはほんとうかと思います。
読者のあるべき態度とは?
しかし――どうでしょう。
『アルスラーン戦記』の結末は、たしかに全盛期の田中芳樹の「凄み」を感じさせるには至っていないのですが、だからといって、読者があまりわめき立てるのに共感する気にはなれません。
『アルスラーン戦記』という一代の名作をまえにして、ぼくは「読者の側のあるべき態度」を考えます。
もちろん、読者ひとりひとりには、自分なりに期待もあるだろうし、あるべきと考える作品の形もあるでしょう。
そして、たまさか、それがまさにそのまま現実になったかのような神がかり的な傑作が提供されることもある。
それは幸福な体験です。『銀河英雄伝説』はまさにそういう体験を読者に与えられたのかもしれません。
しかし、本来、読者の期待とじっさいの作品とはずれるものであり、ずれて当然なのです。
なぜなら、読者は作者ではなく、作者は読者ではなく、両者はまったくべつの感性と価値観とを抱いているものなのですから。
この場合、作者の衰えを単なる「劣化」とみなして口汚くののしることはたやすい。じっさい、そのようにして自分の不快感を作家に投げつけている読者は枚挙にいとまがない。
ですが、それはほんとうに「読者のあるべき姿」でしょうか? 読者としての責任を果たしているといえるでしょうか?
いや、読者には何の責任もなく、ただ好き勝手に望み、気に食わなければ叩けば良いのだ。それが読者の正しいあるべき姿なのだ、そういう風に考える人もいるでしょう。
けれど、ぼくにはそうは思えない。作品への賛否はあるにせよ、ただひたすらに自分の欲望だけを過激に研ぎ澄ますことが読者の、受け手のあるべき形だとは、ぼくにはどうしても思えないのです。
読者の評価を超えて
なるほど、読者には作品を批判する権利がある。
作家の仕事に失望させられたら、それを躊躇なく表明する資格がある。
それは正しいと、ぼくも思います。
しかし、だからといって、自分の気に入るものだけを際限なく希望し、そこから外れるものに対しては徹底して汚らしい罵倒を投げつけるという態度は、「批判」という言葉から逸脱していると感じます。
作家を、作品を批判しなければならないときはあるでしょう。『アルスラーン戦記』もまた、そうであるのかもしれません。
しかし、そこに、30年以上もの月日をかけてひとつの長大な作品を完結にまで導いた作家への敬意はないのか。
もしそうなのだとしたら、読者とはいったい何なのかと思うのです。
ただ腹を空かせた駄々っ子のようにひたすら「もっと!」と望み、気に入れば良し、気に入らなければその不満をあちこちに投げつける。
それがほんとうに読者の正義なのか。ぼくには、決してそうではないと思えます。
なるほど、『アルスラーン戦記』の結末に不満を抱く気持ちはわかる。それを表明するのも良いでしょう。
ですが、そこに自分に対岸にいる「作家」という存在へのひとかけらのリスペクトがなければ、読者はかぎりなく醜い存在にまで墜ちていくしかないでしょう。
そこに必要なのは、最低限の敬意をもって評価を下す姿勢です。
読者は「ただの自分勝手でわがままなガキ」以上のものであることができるし、そうであったほうが良い。ぼくはそう信じます。
まあ、現実のインターネットにおいて、これはとても望めない姿勢なのかもしれませんが。
漫画版『アルスラーン戦記』はどこまで描いて完結するか?
そういうわけで、賛否はともかく『アルスラーン戦記』全16巻は完結を見たわけですが、現在進行形で続いている漫画版はどうなるのでしょうか。
いま、漫画は長大な原作のおよそ四割ほどを消化しています。
物語はこの先、『王都奪還』の物語を進んでいくのですが、おそらくそこまでは描かれることは間違いないでしょう。
問題は、その先、原作における「第二部」まで描かれるかどうか。
流浪の皇子、そしてのちの「解放王」アルスラーンの冒険の物語は、ある意味、第一部の終わり、かれがパルス王として戴冠するところで頂点を迎えています。
第二部は、その「黄金時代」が失われていくプロセスといっても良いのです。その意味では、必然、第二部の展開は地味であり、また、悲愴であることはしかたありません。
はたして、漫画版がその「失楽園」の物語にまで踏み込むのか、どうか。
じっさいにどうなるかは現時点ではまったくわかりませんが、ぼくはぜひ、踏み込んでいってもらいたいと思う。
もし、後半の9冊まで漫画化するとしたら、相当の大長編にはなるでしょうが、それでも描いてほしいと思います。やはりそこまで描き切ってこそ、『アルスラーン戦記』だと思うからです。
漫画版『アルスラーン戦記』が完結を見るとき、その評価はどうなるのでしょうか。それはまったくわかりませんが、ぼくはぼくなりの「期待」をもってその巻を待ちたいと思います。
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