「忍… 忍…オレはずっと不思議だった どうしてこの世は「持つ者」と 「持たざる者」に分かれるのか どうして「愛される者」と 「愛されない者」が在るのか 誰がそれを分けたのか どこが分かれ道だったのか ――そもそも 分かれ道などあったのか? 生まれた時にはもうすべて決まっていたのではないか? ならば ああ 神さま オレのこの人生は 何の為にあったのですか」。
かれの文章のファンで、いつもここで取り上げさせてもらっている佐々木俊尚さんの「生活が安定してても抑圧がなくても、存在論的悩みは消えない」という音声配信を聴きました。
まさに、という内容で、いくら生活が安定している「勝ち組」でも、「存在そのものの根源的なむなしさ」は消せないという話です。
というか、なまじ勝ち組だからこそ、安定しているからこそ、「いったい自分は何のために生きているのか?」という究極の悩みに直面せざるを得なくなるのかもしれません。
この哲学的というか存在論的というか、「生きてあること」そのものに関わる苦悩は人間が人間である限り決して消せないものだといって良いでしょう。
哲学者にして文学者であったサルトルいわく、「実存は本質に先立つ」。つまり、みずからの意思によらずこの世に生まれてくるすべての人間は「なぜあるのか? 何のためにあるのか?」という「実存的な問い」を抱えた存在なのであって、その意味でいくら成功しても、安定しても、完全に苦悩から解放されることはありえないわけなのです。
逆にいうなら、まずしい生活を送っていても、「自分はこのために生きている!」と思える何かを持っていれば、その人生は成功しているし、しあわせだといって差し支えないに違いありません。
ぼくも、プアなのはいやだけれど、そういう人生を送りたいものです。
とはいえ、ぼくはそういう意味では「勝ち組」で、あきらかに「このために生きている!」ものがある人間なんですね。
それはもちろんアニメであり、マンガであり、小説であり映画であり、つまり「物語」を楽しむことなんですけれど。ぼくには明確に「好きなもの」がある。
そのような「自分の内側から湧き出てくる衝動」を「内発性」と呼ぶとすれば、ぼくはあきらかにその内発性に恵まれた人間だといえると思います。そういう人をこそ真の意味での「オタク」と呼ぶのだと思うんですけれどね。
こういうタイプの人間はある意味でしあわせです。一生、好きなことを好きなようにやっているだけで満たされています。
「自分は何のために生まれてきたのか?」なんて考えることすらありません。シュミに夢中で忙しいからです。
問題なのは、そういう内発的なものを持っていないタイプの人で、つまりそういう人が実存の問題に向き合ってしまうわけです。
「いったい何のために生まれてきたのか?」、「生きていて何の意味があるというのか?」、こういった悩みには明確な答えがありません。無限に追及できますし、どこまで追求してもむなしさばかりが残ります。
それなのにヒマな人はそういうことを考えてしまう。そしてどんどん不幸せになっていったりするわけです。
それでは、どうすれば良いか。これは非常にむずかしい問題だと思う。
ぼくのまわりにも「好きなもの」が特にないタイプの内発性に恵まれていない人はいるけれど、ちょっとどういうふうにアドバイスしたら良いのかわからないところはある。
何しろ、ぼくは恵まれている人だから、恵まれていない人の気持ちが良くわからないのですね。
基本的にいくらか貧乏でも、パンと図書館とアマプラがあれば十分しあわせに生きていけるものなあ。
ぼくにとってこの社会は無限に楽しいものが湧いて出て来るおもちゃ箱のようなもので、生きていると面白くてしかたないと感じます。
それはまあ退屈することも疲労することもむなしさに打ちのめされることもあるけれど、それでも基本的にやっぱりしあわせなんだと思う。
だから「そうじゃない人」が「何をしてもむなしい」と嘆いているのを聞くと、どういってあげたら良いのか困るしかありません。
この「存在そのものの本質にかかわる虚無」と向き合う苦しさは、ぼくたちが生きている「何もかも流動的なリキッド・モダニティ」、あるいはポストモダン成熟社会の最大の課題ではあるのでしょう。
怪しげな新興宗教にハマったり、カネばかりかかるビジネススピリチュアルやうさんくさい自己啓発に夢中になったりしても、そこに「救い」はない。
「非モテ」の人が苦しいのも、本質的にはモテないからではなくて、「モテること」が麻酔的にごまかしてくれる問題と直面せざるを得なくなるからだと思う。
モテていれば、つまり他者から「承認」されていれば、自分の人生には価値があると信じることができる。たとえ錯覚に過ぎないとしても。
でも、そうでないと、ほんとうに何のために生きているのかわからなくなる。そういう人はたくさんいると思います。
それで承認欲求の奴隷になって、FacebookやTwitterでひたすらいいね!を求めたりするわけなのですが、「それしか道がない」ように思えることもたしかだとは思います。
そうやって自分の存在の空虚さと向き合うことを避けているのですね。
あるいはセックスやドラッグなどでごまかす人もいるでしょうが、いずれにしろその「むなしさ」が消えてなくなることはありません。実存的貧困の状態です。
ぼくの友達のペトロニウスさんはそのことについてこう書いています。
問題は外部(=お金とか自分の外にあるもの)に依存しているからだ。外部はアウトオブコントロール(自分に都合よくできていない)。だから、「自分の心の中にある」「好き」というものを軸に、趣味に打ち込めば、外部の偶然性に頼らずに、充足を得ることができるぞ!
しかし、「好き」が、自分の心の中にないんです。言い換えれば、内発性がないんです。
ここで困ったんですよ……。「好きなものも探せない」「育てることができない」といわれちゃうと、そういう無気力でエネルギーがない人は、社会から切りすたられて、死ぬしかないね、という結論になってしまう。
困りますよね……。この「何もない」人間がそれでもしあわせになる方法はあるのかという問題に答えはあるのか? それともただ絶望するしかないのか?
でも、ぼくはね、答えはあると思うんですよ。それはそもそも内発性がどうとかいい出すことをやめて、「ただここにあること」そのものに歓びを見いだすこと。
いい換えるなら、いったい何が「あることそのもののしあわせ」を疎外しているか考えることだと思う。
「人は生きているだけでしあわせだ」などと書くと、何とも能天気な奴だと思われるかもしれません。
でもね、本来、どのような幸福も不幸も、すべては「生きてここにあること」という土台の上に乗っかっているはずなんですよ。
ペトロニウスさんはアニメ『スーパーカブ』を例に挙げていますが、何もないままでしあわせになるためには、そもそも「何かを持っているからこそしあわせになれるのだ」という幻想を捨て去ることが必要になる。
子供がいるからしあわせだとか、趣味があるからしあわせだとか、あるいはお金があるからしあわせなんだみたいな「条件を満たすことによる幸福」はみな、ほんとうはウソなんです。
しあわせとは、生きていることそのものの成果なのだから。
マンガ『天』のなかでアカギがそんなことをいっていましたね。金銭とか名誉とかそんなものは人生の枝葉であるに過ぎず、その「実」は生きることそのもののなかにあると。
ほんとうにそうだと思う。カネとか恋愛とかセックスとか、それらはもちろん素晴らしいものではあるけれど、「幸福そのもの」ではない。その事実をまずは認める。
そして、「あれを手に入れたらしあわせになれるんだ」という幻想を捨て去り、「いま生きていることそのもの」の幸福をかみ締める。基本的にはこれしかないんじゃないか。
しあわせとはささやかなものごとのなかに宿るものであり、べつに巨大な何かを手に入れなければ手に入らないという性質のものではないのです。
だから、本質的には内発性があろうがなかろうが関係ない。米のひとつぶ、パンのひとかけら、水の一杯、そのようなもののなかにもしあわせは宿っているのです。
伝わりますかね? メーテルリンクの『青い鳥』ではありませんが、しあわせは常に足もとにある。その反対にない物ねだりをして自分を哀れんでいるうちはいつまでも手に入らない。
たしかに、そうやって自己憐憫の沼に嵌まっているのも、それはそれで暗い歓びではあるでしょう。でも、そういう人は得てして攻撃的で、めんどうくさく、だから他人からあいてにされない。
二村ヒトシ的にいうなら「キモチワルイ」。だからより内面的になり、それでさらにめんどくさくキモチワルくなり――と、悪循環が働きます。
ほんとうにしあわせになるためにはどこかでこのサイクルを断ち切り、「ただ生きていること以上のしあわせなどない」と悟る必要がある。
簡単にできることだとは思いません。でも、それしかない。
性善説、性悪説ならぬ性幸説とでもいったら良いか、人間は本来、しあわせなものだと思うのです。どこか遠くにこそしあわせな世界があるという幻想がそれを邪魔している。
しあわせになりたければ、ほんとうはいますぐそうなることができるのです。ドイツの詩人カール・ブッセはこのように詠いました。
山のあなたの空遠く
「幸(さいはひ)」住むと人のいふ。
噫(ああ)、われひとゝ尋(とめ)ゆきて、 涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
「幸」住むと人のいふ。
しかし、しあわせは山のあなたになんかありません。いま、ここにこそあるのです。それを感覚できるのなら、あなたは一生、しあわせに生きられることでしょう。
しあわせとは「条件」ではありません。しあわせとは、「実感」。自分はたしかにこの世界に生きてあるという感覚のことです。
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