それでも野比のび太は自分を赦す。昭和の名作『ドラえもん』の自己肯定思想を令和の視点で読み解いてみた。

 もちろんあなたもそうだろうと思うが、『ドラえもん』が好きだ。

 未来からやって来たネコ型ロボットのドラえもんと「ダメ人間」の野比のび太少年を中心に全1300話を超えるというこの物語には、不世出の天才作家・藤子・F・不二雄の無二の創造力が最高の形で充溢している。

 そこにあるものはクールでシニカルな人間観察であり、数知れないSF的奇想であり、それぞれに欠点を抱えた登場人物の辛辣な描写であり、そして何より人間と人間性に対する底知れない優しさである。

 だれもがいつ欠点を暴き立てられ攻撃と追求の火のなかへ追いやられるかわからない、この「裁きの時代」に『ドラえもん』の「赦し」はひときわ印象的だ。

 あたかもときに弱く、ときに愚かな人間存在の本質的な不完全性そのものを赦し、認め、慰めてくれるかのよう。

 その寛容の思想を評論家の杉田俊介は「ラジカルな「弱さ」の思想」と表わした。的確な表現である。しかし、大人になってから振り返ってみると、わたしはむしろ、のび太の「しなやかな強さ」にこそ驚かされる。

 のび太は日々、否定と屈辱と忍従にさらされているにもかかわらず、精神的な健全さを失わない。とまどい、傷つき、苦しみはしても、決定的に打ちのめされてしまうことはない。

 ふつうに考えるなら、かれのような立場に置かれたなら大半の人が「自分はダメだ」、「無価値な人間だ」と自己否定、自己嫌悪、自己憐憫に捉われるのではないだろうか。

 ところが、のび太はしばしば自分の無知と無能に傷つきながらも、自分を否定的に捉えない。また、自分を中傷する人物に対しては正当な怒りを感じつづける。

 かれのこの自己肯定感、あるいは「自分自身に対する優しさ」はどこから来ているのだろうか。そのたましいの健康さに瞠目させられるばかりである。

 精神科医の斎藤環は著書『自傷的自己愛の精神分析』のなかで「自傷的自己愛」を分析した。他者からの批判や否定を怖れるあまり、あえて自己否定してみせることで「ほんとうの自分」を防衛しようとする心理だ。

 のび太にはそのような自傷的なところがない。かれの自己愛はきわめてすこやかである。

 決して自分の失敗と挫折に傷つかないわけではない。とても良く傷つくのだが、かれは先んじて自分を否定することでその傷つき体験から逃げたりしない。いわば正面から傷つきつづける。

 そして、どれほど傷ついても、苦しんでも、決して自己嫌悪の泥濘に沈み込んでしまうことはない。野比のび太とは、そういう不思議な子供である。

 わたしたち大人は、しばしば自分たちの些細な長所や特長を誇り、相対的に劣る他者を見下して悦に入ることがある。そのとき、自分の価値として示されるのは、一様に自身の「道具としての有用性」だ。

 一瞬も立ち止まることなく運動しつづけるこの自走的な社会において、その歯車のひとつと化し価値の生産に寄与すること。それが、人が道具として有用であるという意味だろう。

 そして、そういった資本主義的価値観において、のび太は「凡庸で無能」とレッテルを貼られてしまう。

 学校へ行けば教師に怒鳴りつけられ、同級生たちにはいじめられ、最も我が子に対して優しくあるはずの母親ですら率先してかれを否定する。

 のび太にはまったく居場所がない。そこにはほとんど万能の友人であるドラえもんの存在によってすら救われない孤独がある。

 だれもかれを「ダメ」な人間とみなし、もっと努力するよう叱責する。しかし、そもそもなぜ好きでもない勉強をしなければならないのだろう。なぜ、毎朝、眠い目をこすって学校へ向かい、半日をそこで過ごさなければならないのだろうか。

 むろん、それはいずれ、高値の商品として自分を売りさばくために違いない。その意味では幼少期からすでに自己売買ビジネスは始まっている。資本主義はわたしたちの日常世界を隅々まで支配しており、逃げ場所はどこにもないのである。

 そこではメリトクラシー(能力主義)こそが正義であり、人は自分が価値ある存在であることを不断の努力と成長によって示しつづけなければならない。

 だが、その価値観そのものがわたしたちを不幸にしているとすればどうだろうか。

 たしかに、努力は尊い。成長は素晴らしい。また、じっさいのところ、この社会を維持するためには人に努力を強いることもやむを得ないところではあるだろう。

 とはいえ、そこでその「道具としての価値」を「人間としての価値」と同一視することはあまりに残酷だ。

 それはついには「優生思想」、つまり「生産性において無能な人物の排除」へつながる思想だといえる。

 わたしはここで相模原の連続殺傷事件を思い起こさずにはいられない。その場所では「生産性の原理」を絶対視する視点から多数の重い障害を負った男女が殺害されたのだった。

 そのとき、「道具としての無能性」は道徳的な悪と認識され、「何も生み出さない」と一方的にみなされた人間たちが「生存の価値なし」と断じられた。

 それは「生産性の原理」の醜悪な極限化そのものであった。社会を動かす一個の歯車として価値を見いだせなければ生きていく意味すらないという幼稚なまでに一面的な断定。

 しかし、じっさいのところ、その種の論理は容易にわたしたちを支配する。

 もちろん、わたしたちは障害者の生きる権利を否定したりはしないだろう。すべての人間に平等に生きる意味はあると、口では問題なくそういうだろう。

 だが、何かひどく失敗したとき、挫折したとき、「こんな自分には生きていく価値がない」という考えが頭を掠めないだろうか。

 それはわたしたちに内面化された「生産性の原理」そのものであり、ある種の差別の思想である。人の価値を「能力があるかかないか」、「社会の役に立つかどうか」という視点で切り捨てようとする残忍な発想。

 のび太にはそのような攻撃的な思想にその存在そのもので対抗しているところがある。

 なるほど、のび太は弱い。無知で、無能で、しかも怠惰である。しかし、その一方でかれはどこまでも優しい。その優しさは、かれの「欠点」と切り離せない。

 その人間としての弱さ、努力と成長と生産を至上とみなす一連の価値観では「短所」としかみなされない部分こそが、かれの心優しさの根源なのである。

 たしかに、どこまでも画一的に人間を管理し「成長」させようとする学校教育空間においてのび太は価値を示すことができないだろう。

 しかし、いうまでもなくその学校的評価において測り切れない部分こそが、のび太の人間的なオリジナリティに他ならない。

 かれの全人的な優しさは『ドラえもん』という作品そのものの「赦し」の思想と連続している。

 人の価値をその「道具としての有能さ」で判定し、採点し、さらには順位付けすらするこの競争社会において、遊ぶこと、怠けること、自分自身の「欠点」を赦すことは倫理的な禁忌ですらある。

 それなのに、のび太は深いところで自分自身を赦している。自分の無力さを赦している。

 だからこそ、わたしたちはその暖かさに触れるため、幾たびも『ドラえもん』に立ち返ることだろう。

 そう、わたしたちはだれもみな、ときに有為な道具として自己を規定し他者を上回る成績を上げることに大きな歓びを感じることがある。

 だが、その実績至上の価値観に従っているかぎり、人生に安らぎはない。わたしたちは常に試されつづけ、比較されつづける。そして優越感をエサに劣等感をムチに、「もっと!」と強いられるのである。

 たとえ「成功者」とか「勝ち組」に成り上がったところで、競争に終わりはない。「もっと!」の声は常に脳裡で鳴り響く。この生産性重視の社会においては、心安らぐことそのものが罪なのだ。

 だが、それでものび太は「無能で凡庸」な自分を赦し、愛する。その健全な精神。

 現代日本においては、多くの場合、人のさまざまな悩みの根源は生育家庭に見出される。邪悪だったり暴力的だったりする「毒親」がすべての苦悩の大元とされることもしばしばだ。

 しかし、じっさいには人が決定的に傷つき、やる気をなくすのはむしろ学校空間においてではないだろうか。

 幼児の頃、走ることが嫌いだという子供はいない。だれもが「のびのびと」野原を駆けまわり、疲れて動けなくなるまで遊びつづける。行為と感情に何の矛盾もない。

 ところが、いったん学校に通って競争原理にさらされると、多くの子供たちが劣等感を覚え、運動を嫌悪するようになる。

 それがたとえば「お絵描き」でも同じことだ。落書きが嫌いでしかたないという幼児はまずいないが、美術の授業に苦痛を感じる子供は多い。それらの行為を基準に自分の価値を採点される屈辱がかれらの心を傷つけるのだ。

 しかし、本来、足が速かろうが遅かろうが、あるいは幾何学の問題が解けようが解けまいが、ひとりの人間としての価値に何ら関係するはずもないのは当然である。

 たとえば「100メートルを13秒以内に走り切れない人間に価値はない」などといい切れるはずもないことは自明だろう。

 それなのに、わたしたちは義務教育を通して「もっと努力して己の価値を高めよ」と強いられ、競争において敗者となることは道徳的な悪であるとする価値観を内面化させられる。

 すべては自分自身の「道具として、商品としての価値」を高め高値で売りさばくためである。その苦しさ。またむなしさ。

 そして、のび太ほどこの教育空間で残酷にしいたげられている子供はいない。そこでかれはほとんど暴力的ですらある「生産性の原理」の抑圧にさらされつづけている。

 学校的価値観に従っているかぎり、のび太はまったく「のびのびと」できない。その空間においては悠然としていること、効率を追求しないことは明確な悪だからである。

 だが、高度経済成長からバブルへと向かった昭和の頃であればともかく、「新自由主義」と呼称される苛烈な経済思想の効果に疑問の目が向けられる令和のいま、そのような「努力と前進のイデオロギー」に対し無邪気であることはできない。

 むしろ、いまこそ、のび太の怠惰とうらはらの優しさは印象に残る。

 たしかにかれは怠け者であり、無為無能な社会的敗残者であるだろう。しかし、そもそも人を「勝ち組」だの「負け組」だのと分けてその価値、無価値を決めつけようとする思想に辟易しているいまのわたしたちにとって、その「欠点」はもはや単なる「欠点」とは見えないに違いない。

 そもそも人の個性とは素朴に善悪良否に分けられるものではない。本来、「その人がその人であること」に良し悪しなどないのだ。ただ、何らかの価値観にもとづいてその価値を判定するとき、初めてそれは「長所」や「短所」に見えてくる。

 のび太の場合もそうだ。だれもがかれをダメな少年だという。もっと努力し向上しろと責める。だから、のび太にはいつも「いまの自分自身ではいけない」というプレッシャーがかかっている。

 しかし、野比のび太、このいかにも「無能で凡庸」な少年は全身全霊でもってその圧力を跳ねのける。

 かれはその社会的に見て「正しい」理屈におもねらない。自傷的に自分を責め、そのことによって自我を防衛することもしない。

 ただ、どこまでもしなやかに、だれも赦さず、認めようとしない自分の存在を赦し、認めるのである。おそろしく健康な自己肯定がそこにある。

 はたしてそれもまた「ダメ」なことだろうか。もっと自分を責め、赦さず、きびしく糾弾して少しでも良くなろうとあがくべきなのか。そして、また、わたしはのび太の怠惰と無責任を肯定しようとしているに過ぎないだろうか。

 そうではない。のび太はべつだん、成長や前進の価値を一切否定して暗いニヒリズムに陥っているわけではない。かれはかれなりに成長をめざしている。

 ただ、その成長欲求は「いまの自分」をひたすらに責める自己否定ではなく、むしろ自己肯定からこそ来ていると見るべきなのである。

 のび太は自分の個性がまわりから否定的に捉えられることを知っている。だれも自分をそのままに肯定してくれないこともまたわかっている。

 それでも、かれは「自傷的自己愛」の鎧で自分を防衛するでもなく、ただ、シンプルに自分を赦している。認めている。その上ですこやかに一歩前をめざしている。そのように見える。

 それはひとりの人間としてとても美しい姿勢である。

 もちろん、かれとても自分を人と比較して落ち込むことはある。有能な他人に嫉妬して足をひきずろうとすることすらある。のび太はどこまでも等身大の人間に過ぎない。

 それでも、かれは自分自身をおとしめず、あきらめない。わたしはその姿勢に共感する。

 自分の弱さ愚かさを自ら糾弾して自我を守ろうとする前に、いわば自分自身の友人になること。自分の心のとなりに座って自分の話を聞くこと。そこからしか始まらないことがある。そうではないだろうか。

 そんなのび太を主人公とする『ドラえもん』は、自己否定が美徳とされかねないわたしたちの社会に赦しと優しさを教えてくれる。

 何度でもそこへ戻っていこう。少しでもだれかに優しいできる自分になりたいではないか。わたしは、いま、そのように考えている。

 のび太のようになるのだ。成功しても失敗してもしあわせに生きる、そのために。

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