「地雷」って言うな!

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海燕

Webライターの海燕です。 マルハン東日本のウェブサイト「ヲトナ基地」にて継続的に記事を発表しています。

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 金田淳子さんの一連の『刃牙』論を受けて、その妥当性を考察した記事です。良ければご一読いただき、公式アカウントのチャットなどを通してご意見をたまわれれば幸いです。では。

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だれか彼女を救けてやれないのか

 先日、『ぼっち・ざ・ろっく!外伝 廣井きくりの深酒日記』を読んだ。タイトルからわかるとおり、アニメ化されて話題をさらった『ぼっち・ざ・ろっく!』の番外編で、本編の裏側を描く内容となっている。

 独立した一作として読んでも読ませるものがあるが、本編を読んだ上で味わうとさらに面白い。
Amazonでも非常に評価が高いし、わりとオススメの作品だ。

 そうなのだが――ぼくはこの作品を読んでかなり困惑した。いったいどういうスタンスで物語と向き合えば良いのかわからないのだ。

 きっと「酒クズ」のロック歌手を主人公にしたちょっと悪趣味ではあるもののライトでカジュアルなコメディ、そういうものなのだとは思う。だが、じっさいに読んでみると、何というかあまりにも「シャレにならない」描写なのである。

 主人公であるきくりの「酒クズ」っぷりが真に迫り過ぎていて、このままいくとアルコール依存症で破滅することが目に見えているように思えてしまう。それを笑って見ていて良いのかどうなのかわりと微妙に思えて来るのだ。

 「酒クズ」で常に酔っぱらっていないと陽気でいられないきくりの描写は、名作文学『星の王子さま』の一節を連想させる。

「なぜお酒を飲むの?」
「忘れるためだ」
「何を忘れたいの?」王子さまは気の毒に思いながら訊いた。
「恥ずかしいことを忘れるためだ」酒飲みは頭を垂れながらそう打ち明けた。
「何が恥ずかしいの?」王子さまは助け舟を出すつもりで訊いた。
「酒を飲むことが恥ずかしいんだよ」

 きくりも確実にこの悪循環に陥っている。彼女は酒を飲むことで憂さを忘れ「幸せスパイラル」の状態に入るのだが、その「幸せ」は何をどう見ても破綻と破滅へと急降下していく呪われた螺旋である。

 また、酒を飲んでいない彼女は典型的な「陰キャ」でまともに話すこともできないのだが、その姿は本編の主人公「ぼっちゃん」が陰キャのまま、なけなしの勇気を出して活躍していく姿の陰画ともいえそうだ。

 つまりはこの外伝は本編の少しリアルでシャレにならないバージョンといえ、本編を読んでいたときはげらげら笑っていたぼくもほんとうに笑って済ませて良いのか疑問に感じるわけである。

 しかし、ネットの感想を見る限り、どうやらほとんどの読者はそのような読み方をしていないようで、ぼくはここから「ひとはフィクションに対しどのように向き合うべきか」というテーマを考えさせられる。

 もっとも、その答えは最初から出ている。「どのように向き合っても自由」だ。

 べつに戦争映画を見て大笑いしても良いし、コメディマンガから哲学を読み取っても良い。あるべき「正しい」向き合い方などそもそも存在しない。好きにすれば良いのだ――その「感想」をひとりきりで抱え込んでいる限り。

 もし、その「感想」をネットを含む世の中に発表すれば、それはその瞬間にひとつの「意見」となるわけで、必然的に責任をともなう。当然だろう。

 もちろん、発言の自由はある。どんな変わった見方もその人の自由であることが変わるわけではない。だが、一方で何か「意見」を発表すれば、そこに賛否が集まることは避けられない。

 だから、たとえばぼくが「『きくりの深酒日記』はシャレになっていない。ぜんぜん笑えない」という感想をネットに投げたら、「そうは思わない」、「おまえは何もわかっていない」という人があらわれたりすることだろう。ひとの考えかたがどこまでも多様である以上、この展開を避けることはできない。

 ただ、そもそもこういった「好き/嫌い」に対し意見を述べるべきではないという立場もあるようだ。たとえば、漫画家として、エッセイストとして活動するカレー沢薫さんのこのような記事がある。

しかし、それでもなお人がオタク活動を続けるのは、苦しみを遥かに凌駕する喜びがあるからだ。

「萌え」が与えられた時のオタクの行動は様々である。PCの前に突っ伏して動かなくなる者もいれば、部屋中を転げまわり、机の角で頭をぶつけて動かなくなる者もいるし、ただひたすら、顔中の穴から液体を流し続ける者もいる。表現方法は様々だが、そんなオタクたちの脳裏には好き、嫌い、果ては萌えという感情すら超え、ただ「尊い…」という言葉だけが浮かぶのである。


なので「なんでそれに萌えるの?」と聞かれたら喜んで半月ぐらいかけて説明するつもりだ。しかし、冒頭のテーマはもしかしたら、否定的な意味でそう聞かれた場合どうするか、という質問だったのかもしれない。つまり、「私はあなたの萌えが全く理解できないし不快である。あなたの描いた私の好きなキャラの絵を見て気分を害したので、描くなら私の目が触れないところでやれ、もしくは今後一切描くな、わかったか?」と聞かれた時にどうするか、ということだ。


そういう場合は最後まで聞かずに、相手の口に馬糞を詰めてやるのがベストアンサーである。


これは聞かれる方もそうだが、聞く方にとっても完全な時間の無駄だ。二次元における趣味嗜好、解釈の違いにおける抗争は昔からあるし、おそらくなくなることはない。誰にだって好き嫌いぐらいはある。


しかし、ノーマルカップリング派の人間を完全論破し、頭に電流を流すなどして、腐女子へと改宗することに意味があるだろうか。逆の例で言えば、ノーマルカップリング派の人間が「腐女子狩り」を敢行し、腐女子にボーイズラブコミックを踏絵として踏ませたとしても、屋根裏に「BE×BOY」とかをしこたま隠し持つに決まっている。


人の趣向というのは、信仰と同様に変えがたいものであり、変えようと思ったら膨大な時間と根気、時には化学の力さえ必要であるし、それでも変わらない場合の方が多いと思う。 だったら、そんなことに時間を使うより、最初から趣味の合う人間同士で好きな物の話だけをした方が良い。だが、趣味が同じと思っていた者でも、1ミリの解釈の違いでハルマゲドンに突入してしまうこともある。

つまり、仲間が一人もおらず、誰も聞いてない萌え話を時折Twitterでつぶやき、否定も肯定もひっくるめてリプが1件も来ない私が、オタク界のラストマン・スタンディングなのである。

https://news.mynavi.jp/techplus/article/ccmanga-45

 そうだろうか。ほんとうに「否定的な」意見に対しては「馬糞を詰めてやる」ことこそが「ベストアンサー」なのだろうか。

 たしかに「描くなら私の目が触れないところでやれ、もしくは今後一切描くな」といった他者の自由を制限する発言は基本的には問題である。もし発言しているのがその絵の原作者ないし権利保持者だったりしたらまた話はべつだろうが、ここで想定されているのはそういうシチュエーションではないだろう。

 だから「相手の口に馬糞を詰めてやる」しかないということもわかる。しかし、その話を「最後まで聞かずに」馬糞を詰めるのはどうなのだろうか。あいては「描くのは自由だ。ただ、あなたの絵は気に喰わない」といいたいだけかもしれないではないか。

 その場合、「相手の口に馬糞を詰める」、つまり発言をふさいでしまう行為はそれ自体が他者の権利の侵害である。あいてにはあいてで「不快だ」という自由があるのであって、その口を閉ざさせてしまう権利はだれにもないのだ。

 とはいえ、もちろん、そういった発言は多くの場合において不毛なものであり、それがわかっているからこそカレー沢さんは「そんなことに時間を使うより、最初から趣味の合う人間同士で好きな物の話だけをした方が良い」という結論を導いているのだろうと思う。

 これはこれでひとつの理解できる見解ではある。この見解を簡潔かつ的確に表現した言葉に「誰かの萌えは誰かの萎え」がある。

 つまり、「あなたが好きなものをだれかは嫌いかもしれない。逆にあなたが嫌いなものをだれかは好きかもしれない。あなたの価値観はあくまで限定的で相対的なものであることを自覚しよう」という意味だろう。

 これは作品の「解釈」や「評価」を巡り、しばしば「ハルマゲドン」となってしまうファンコミュニティで築き上げられたひとつの倫理だといって良い。

 たとえそれが自分とは異なるものであっても、あくまで他者の価値観は尊重する。そのほうが結果としてより過ごしやすい「界隈」ができあがるというわけで、いわば「平和構築のための基本原則」なのだ。

 この言葉は直感的に理解しやすく、反発する人はあまり見かけない。完全に実践することはときとして困難だが、原則論としてはまちがえていない、と感じられるのだろう。

 しかし――ほんとうにそうだろうか。

 たしかに「萌え」や「萎え」、あくまで非オタク的にいうなら「好き」や「嫌い」といった次元のことなら、いくらいい争っても無駄ではあるだろう。カレー沢さんも書いているとおり、それはきわめて変えがたい属性なのであって、ようするに好きなものは好きだし、嫌いなものは嫌いなのだとしかいいようがないところがある。

 世間的にどれほど好評を博している名作だって嫌いな人もいるし、その逆もまたある。それは個人のかってとしかいいようがなく、変えようとするだけ無駄だ。たしかに、そのとおりでは、ある。

 この問題をあくまで「萌え」や「萎え」の問題として考える限り、このアンサーは覆らない。そしてそこからその作品を「嫌い」な人と話をするより、「好き」な人同士で話し合っているほうが快適だという結論もまた導き出されることだろう。

 だが、ぼくはこの発想にどうしようもなく違和を覚える。ほんとうにこの問題は「萌え/萎え」、「好き/嫌い」という軸だけで考えるべきなのだろうか。ある作品に対する「感想」や「意見」には、「好き/嫌い」だけではなく(作品のクオリティ的に)「良い/悪い」、あるいは(倫理的、思想的に)「正しい/間違えている」という軸もあるはずではないか。

https://togetter.com/li/982511

 たとえば、こういうまとめがある。「自分の好きな表現は良い表現、自分の嫌いな表現は悪い表現という考えは危険!『誰かの萌えは誰かの萎え』って自覚大事だ」というタイトルだ。

 これは、たしかにそうだとは思うのだが、「誰かの萌えは誰かの萎え」であることは、厳密には「良い表現」とか「悪い表現」が存在しないということではないはずである。

 そもそも「良い/悪い」とは「好き/嫌い」とは、重ねることはあっても別個の軸なのだから、たとえ「誰かの好きは誰かの嫌い」であることが自明であるとしても、即座に「誰かの良いは誰かの悪い」であるとはいえないだろう。

 いや、もちろん、現実的には「誰かの良いは誰かの悪い」であることがほとんどだろうし、その「良い/悪い」という判断が対話や議論によって覆されることもまずありえない。それはぼくもわかっている。だが、だからといってある作品なり表現の「良い/悪い」について話をすることは無駄だ、とはいえないはずだ。

 なぜなら、「良い/悪い」は「好き/嫌い」とは違って、一応は客観的な評価軸だからである。
自分が好きだとか嫌いだとか、萌えるとか萎えるということはどこまでもかってだが、ある作品を「良い、傑作だ」、「悪い、駄作だ」などと評価するならそこには何らかの論理的な根拠が必要になる。

 もちろん、それを厳密な意味で科学的な事実として証明することは至難だが、だからといって「これは悪い作品だから悪いのだ。そうに決まっている!」などと語る行為はひんしゅくを買うに違いない。

 何かに対して「良い/悪い」という軸を持ち出したとたん、そこに説明責任が発生するのだ。

 だからこそ、そんなめんどうなことをするより「最初から趣味の合う人間同士で好きな物の話だけをした方が良い」という話も出てくるし、さらには「ラストマンスタンディング」であったほうが良いということにもなるのだろう。理解はできる。

 しかし、ぼくは共感しない。なぜなら、ぼくは一貫して「良い/悪い」の軸で語ってきた人間だからである。

 「好き/嫌い」で語るなら、「好きな者どうし」では話が合うが、「嫌い」な人とはコミュニケーションが成立しなくなる。「わたしは好き」、「わたしは嫌い」といってもそこに究極的には何の根拠も理由もないわけだから、ただすれ違うばかりなのだ。

 それに対して「良い/悪い」で話をするなら、仮に「わたしは良いと考える」、「わたしは悪いと思う」という対立が発生したとしても、一応はその意見に対し説明責任が発生するわけであり、対話が可能となる。

 もちろん、そこに一定の敬意や語彙がなければまともな対話は不可能だろう。が、「好き/嫌い」、あるいは「萌え/萎え」という軸が「対立を超えた対話に対し閉ざされている」のに対し「良い/悪い」はとりあえずは開かれているのである。

 だから、ぼくは、それがさまざまな対立意見を生み出すことがわかり切っていても、あえて「良い/悪い」を語る。いつもいつも必ずそうしているとまではいわないが、基本的にぼくが作品を評価するときはその「良い/悪い」について話をしていると思ってもらってかまわない。

 そういうぼくの目から見て、あらゆる評価を「好き/嫌い」の次元で、いい換えるなら「誰かの萌えは誰かの萎え」の領域で語って済ませようとする態度はきわめて違和感を感じさせられるものである。

 それは『廣井きくりの深酒日記』を読んで大笑いしたというようなある「感想」に対し、「ほんとうにそれだけで良いのか」と思ってしまうその心理とどこかで通底する違和だ。

 つまり、ぼくはある作品に対する「感想」や「意見」にも「良い/悪い」や「正しい/間違えている」という軸があると考えているわけだ。

 それは「口に馬糞を詰め」られてしまうような傲慢な態度だろうか。

 そうかもしれない。「人の趣向というのは、信仰と同様に変えがたいものであり、変えようと思ったら膨大な時間と根気、時には化学の力さえ必要であるし、それでも変わらない場合の方が多い」以上、そこに力をつぎ込むのは無駄である、という考えかたは当然にある。

 だが、ぼくはべつに自分と異なるあいての「趣向」を変えようと思っているわけではない。いってしまえば「完全にわかりあいたい」と思っているわけではなく、「どれだけわかりあえないかをわかりあいたい」と思っているに過ぎない。

 そのためにはどうしても「好き/嫌い」だけではなく、「良い/悪い」という軸が必要になる。「この作品は良い」とか「この感想はまちがえている」といった「好き/嫌い」を超えた立場を提示することで初めて対立の構図が明確になり、対話や議論が可能となるからである。

太平洋戦争帰還兵はセクシー

 そのようなぼくの目から見て、同じカレー沢さんがべつの記事で書いている映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』とその主人公「水木」に対する、以下のような「感想」はきわめて違和感があるものである。

 肯定的な意味でも否定的な意味でも、それこそ「何で萌えるの?」と感じる。

水木を初めて見た時の印象は「sexy……」だっただろうか、それ以外にどう説明していいかわからないが、オタクにとって語彙が消えるというのは「本気の合図」である。
私はこういうタイプの男が苦悩したりボロボロになったりする様が大好きなのだ。
女の子がかわいそうなのは嫌なのに男が苦しむのは好きとは何事かと思われるかもしれないが、平等や倫理など平気で無視してくるのが性癖である。
ゲ謎は見た者がこぞって「存在しないほのぼの子育て漫画を描く」というアートセラピーを始めるほど話がシビアと聞いていたので、さぞこの水木が追い詰められてsexyzoneに入ってくれるに違いないと期待して見に行ったのだ。
そして結論から言うと想像の5億倍zone入りしていたのである。

https://www.gentosha.jp/article/24853

 「こういうタイプの男が苦悩したりボロボロになったりする様が大好き」というのはわからなくもない「性癖」である。ぼくはそういう「趣向」を持っていないが、そういう人もいることはわかる。また、水木という男には独特の男の色気のようなものがあり、それを「sexy……」という言葉で表現したくなることもわかる。

 しかし、それでもやはり、ぼくはこの「感想」に非常な違和を覚える。ぼく個人の「感想」とあまりにもかけ離れているからである。

 ぼくもこの映画を楽しんだが、そこに「sexy」とか「sexyzone」といった言葉で表現できるものはなかった。ぼくはいたってベタに水木の悲劇に感銘を受け、その勇気や挫折に感動しただけだっだ。

 カレー沢さんが「sexy」と感じたらしいところで、ぼくはほとんど真逆かもしれない「感想」を抱いたことになる。故に、ぼくはカレー沢さんの「感想」に対し、強い違和を感じる。これもまた「個人の価値観の違い」、「誰かの萌えは誰かの萎え」で済ませるべき問題だろうか。

 そうかもしれない。じっさい、カレー沢さんはあくまで「自分の価値観」のことを話しているだけであり、ぼくのような「感想」を否定しているわけではないからだ。彼女が話しているのはまさに「好き/嫌い」のことであり、「良い/悪い」といった話ではないのだ。

 とはいえ、それでは済ませられないと考えることができる理由もある。何といっても作中の「水木」は原作の作者である水木しげるを発展させたキャラクターであり、映画のなかで太平洋戦争の帰還兵として描かれているのである。

 その水木に対して「sexy」という言葉で語り、「想像の5億倍zone入り」していたと語ることは、戦争や飢餓を性的に楽しんでいるとも受け止められる。はたしてこのような「感想」を認めて良いのだろうか。

 結論からいってしまうと、ぼくは「良い」と考えるものである。

 カレー沢さんが語っているとおり、ひとの「性癖」や「趣向」、つまり欲望のかたちは変えがたいものだ。それがどれほど一般的な倫理に抵触していようとも「好きなものは好き」だし、「萌えるものは萌える」としかいいようがない。まさに欲望は「平等や倫理など平気で無視してくる」のだ。

 だから、たとえカレー沢さんの欲望のかたちが「太平洋戦争で餓死しかけ、帰還してからも悩み苦しむ兵士を見て強烈にセクシーな魅力を感じる」というものであるとしても、だれにも咎めることはできない。

 もっというなら、そもそも「物語を楽しむ」とは「他者の喜びや苦しみを安全なところから傍観する」こと以外ではありえないのである。

 しかし、同時に、ぼくはその欲望を「性癖」という言葉で表し、あたかも受動的にその「性癖」に動かされているかのように語ることに反対する。

 なぜなら、ここで「性癖」という言葉で表されているものはほんとうはカレー沢さんの「人間性」であり、そこにはそれが成立するまでの経緯が存在するに違いないからだ。

 カレー沢さんが「女の子がかわいそうなのは嫌」だったり、「男が苦しむのは好き」だったりするのは、決して彼女が生まれ持ったどうしようもない本能などではない。

 つまり、言葉の本来の意味では「地雷」でもなければ「性癖」でもない。それは彼女がいままで生きてきた人生において培ってきた「価値観」にほかならなず、「性癖だからしかたない」などということはまったくないのと考えられる。

 くり返す。どのような種類の欲望を持つことも自由である。太平洋戦争で餓死しかけてどうにか生きのびた兵士を見て「sexy」と感じることも自由だし、フス戦争や独ソ戦でレイプされた女性を見て「てぇてぇ」と感じることもかってだ。

著:小梅 けいと, その他:スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ, 読み手:速水 螺旋人
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 そういった一見すると非倫理的とも思われる怪物的欲望をも孕んで生きているのが現実の人間なのであり、その複雑さと多面性を否定することは、仮に道徳的ではあっても、非文学的、非芸術的、非哲学的な態度に違いないことだろう。

 だが、一方で「平等や倫理」を無視した発言をすれば、それに対する反発をまぬかれることはできない。

 これは矛盾ではない。いままで縷々述べてきたように、どのような欲望を持つこともかってだし、発信するすらも自由だが、作品の形であれ感想の形であれ、いったん発信してしまえば批判や反発を避けることはできないという、いたってあたりまえの話なのだ。

 つまり、どれほど「好き/嫌い」だけを語っているつもりでいようと、どうしてもそれは「良い/悪い」とか「正しい/間違えている」の軸で判定されるのだといっても良いだろう。

 ある作品なり発言について「誰かの萌えは誰かの萎え」であることを自覚して「好き/嫌い」の軸だけで判断しようというのは、あくまでその価値観を共有する者のあいだでだけ通用するルールである。すべての批判をこの倫理で避けることはできない。

 たとえば、ひとりの同性愛者があるBL作品やその感想を「正しくない」と批判したとして、それを「誰かの萌えは誰かの萎え。自分にとっての地雷は自分で避けましょう」といって済ませることはできないだろう。

 その人はその作品や感想が「(倫理的、思想的に)間違えている」ものであると批判しているのであって、「嫌い」だからそういっているわけではないはずだからだ。

 思うに、ある人の価値観や評価基準をその人の人格から切り離し「性癖」や「地雷」という言葉で表わすことにはどうにも欺瞞がつきまとう。

 そういった言葉にもとづく「オタクの平和構築理論」は同じ価値観を共有するオタクのあいだでは有効であっても、社会一般においてはまったく通用しないのである。

 仮にぼくが差別的と受け取られる内容のマンガを発表したとして、それを「性癖は倫理や平等を無視しているのだからしかたないです」といっても通らないだろう。ぼくはそう考える。

 ここまで読まれて、ぼくが「だから、そのような批判を受けることは書くべきではない」といっているのかと受け取られた方がいらっしゃるかもしれない。あるいはそのような人の人のほうが多いかもしれないが、ここではっきり書いておこう。「そうではない」。

 ぼくは『ゲゲゲの謎』を見て「sexy」と感じることが自由であるのと同様、そう発言することもまた自由だと考える。たとえば『廣井きくりの深酒日記』を読んで大笑いしたと発言することも自由である。だが、その自由を享受するなら、責任から逃げるべきではないとも考える。

 どのような対象にどう萌えるのも、そう発言することも自由だが、その発言内容に関し無邪気であること、無自覚であること、無責任であることは問題だということである。

 つまり、悲惨な戦争の帰還兵に対する萌えを性的な表現をもちいて吐露することは好きにすれば良いが、それを単なる「性癖」として無条件に正当化することはできないし、自分が戦争の帰還兵が飢えて苦しむところを見て楽しむタイプの人間だという事実から目を逸らすべきではないということになる。

 ここでのカレー沢さんが無邪気だとは思わないが、ときとして「萌えオタク」属性の人や「腐女子」属性の人にその種の無邪気さを感じることはある。それはおそらく、かれら、彼女たちの欲望が現実世界で抑圧されており、フィクションの世界でのみ解放されるからなのかもしれない。

 だが、純粋な意味で現実と切り離されたフィクションなどどこにも存在するはずがないのだ。たとえば多くのボーイズ・ラブ作品のような荒唐無稽な内容であっても、現実の男性や同性愛と無関係ではありえないように。

 表現の自由とは、その表現がだれかを傷つけ、踏みにじっているかもしれない可能性を承知した上で「それでもなお」発信する自由なのであって、無条件にイノセントでいられる自由などではない。何かを斬るなら、返り血は覚悟しなければならないのである。

 いうまでもなく、その、だれかを傷つける可能性を少しでも減らそうと努力することはできる。そのような「改善」はしばしば「アップデート」という言葉で表現される。

 たとえば、漫画家のヤマシタトモコさんが自身のBLを含む作品の「アップデート」について語っている以下のようなインタビューがある。

── どんなきっかけで、ポリコレを意識した作品づくりをするようになったのでしょうか?

海外ドラマにハマったことが大きいです。作り手たちが注意するポイント、関係者が発言したら問題とされること、「こうあるべきだ」と共有されている考え方、様々なアイデンティティ……。見聞きするものの幅が広がり、プラスそこに自分が今までフィクションに対して感じていたモヤモヤが結びついていきました。

── そこで「海外は大変だね」で終わる人もいそうですが、ヤマシタ先生は「そういう考え方もあるのか」と新鮮に受け止めたんですね。

だって、配慮されるべき社会的弱者や少数派は、日本にも事実として存在していますから。「私には今まで見えていなかった」と感じました。そこで「海外は大変」で終わってしまうのは、言葉はキツくなってしまいますが、やはり暴力的な考え方だと思います。

(中略)

── 特別なことをしているわけではない?

「あくまでも娯楽」という領分は超えたくないんですよね。私はいち読者として、コンテンツに傷つけられたくなかった。だから、自分も描き手として、誰かを不用意に傷つけてしまいたくない。かつて私が「自分はこの物語から締め出されている」と感じた寂しさを再生産したくない。「冒険に行けるのは男の子だけ」と誰かに思わせてしまうような物語を描きたくない。それは別に真面目くさった考えではなく、「こういう話を読みたいよね。自分でも描けたら楽しいだろうな」というだけの話なんです。

https://www.pixivision.net/ja/a/6481

 ぼくは、基本的には彼女のこのような姿勢を評価するものである。「ポリコレ」という言葉を使用するかどうかはともかく「こういう話を読みたいよね。自分でも描けたら楽しいだろうな」というその感覚は理解も納得もできる。

 しかし、その一方で彼女が「アップデート」されたと自認するその表現に対する意識には、やはりある種の無自覚さがひそんでいるのではないかという危惧を覚えないでもない。

 作品を通して「誰かを不用意に傷つけてしまいたくない」のはわかる。しかし、そもそもその可能性をゼロにすることは不可能だということなのである。

 たとえば、どんなにボーイズ・ラブ作品の内容を「アップデート」しても、そういった作品が存在することそのものに傷つき、苦しむ人もいるだろう。

 あらゆる表現が本質的かつ原理的にそういった「暴力性」を孕んでいる。どんなに作品を「アップデート」したつもりでも、それで傷つく人をまったくなくすことはできないのだ。「自分の作品はちゃんとアップデートされているから安心」ということには永遠にならないのである。

 ぼくは、だから人を傷つけるような表現をやめろとも、その反対に人を傷つけるような表現を避けようとすることは無意味だとも思わない。それはカレー沢さんの「sexy」という感想を述べることそのものに反対しないのと同じことである。

 ぼくはただ、「創作であれ感想であれ、何かを表現し発信するときにはその表現の加害性、暴力性に対して無自覚であるな」と告げるだけだ。それはいい換えるなら、自分自身の抱える問題をまっすぐに見つめろ、ということでもある。

 どんなに「ポリコレ」に配慮して「リベラル」な表現を試みたところで、「だれも傷つけない無害な表現」などというものはありえない。すべての表現は刃なのであり、「なるべく」だれかを傷つけない表現を試行錯誤することは有意義であるとしても、その試みが完全な成功を見ることはない。

 その「アップデート」を「進化」という言葉に換えても同じことだ。たしかに、BLなどを含むエンターテインメントはおそらくこれからもよりリベラルな方向に「アップデート」し、「進化」していくことだろう。だが、それはべつに「より正しい方向に発展し人を傷つけなくなった」ことを意味しない。そのように思い込むことは危険である。

著:溝口彰子, イラスト:中村明日美子
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範馬勇次郎とレイプと

 かつて、著述家でフェミニストの金田淳子さんがマンガ『刃牙』シリーズの一篇について「範馬勇次郎に伝えたい。レイプは本当にやめて」とTwitterで語ったことがあった。

 ここでぼくがとまどわせられるのは、彼女が『刃牙』の性描写を批判する一方で、自身の性的な発言はまったく問題ないものと考えているらしいことである。

 金田さんは『ジョジョの奇妙な冒険』作者の荒木飛呂彦さんに対し、自身の「BL妄想」を開陳したことで有名だ。孫引きになるが、以下のような内容である。

金田「(略)腐女子的には、というかわたしの中では、第六部でプッチ神父というディオのことを真剣に想っているキャラが出てきたところで「ディオ=姫」というのが完成したんです(笑)。娼婦のような立場から成り上がっていくんですけど、その過程で当然さまざまな男達に身体を汚されるわけですが、魂の気高さは失わないんですよね。そんなディオに心惹かれる一六歳のプッチ神父…。最初にディオとプッチ神父がしどけなく一つのベッドに互い違いに寝ながら会話するシーンが出たとき、目を疑うと同時に狂喜したわけですけど、あれは荒木先生としてはやっぱり狙ってのものだったんでしょうか?」
荒木「うーん、そういう風に受け取られるとはあまり思っていなかったかな。(略)」

(中略)

金田「そうですね。(略)俺は何百人もの男たちに慰みものにされてきたんだと。」
荒木「慰みものにされたかなあ(笑)。」
金田「されてますよ!(略)」

https://miguilequi.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AC/%E3%83%A6%E3%83%AA%E3%82%A4%E3%82%AB11%E6%9C%88%E8%87%A8%E6%99%82%E5%A2%97%E5%88%8A%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E9%87%91%E7%94%B0%E6%B7%B3%E5%AD%90%E3%81%AE%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B9%E6%8C%AF%E3%82%8A%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6

 金田さんは「「週刊少年チャンピオン」を読む男性の中に「男性に性暴力を受けた経験がある人」が居ないとでも思っているのでしょうか。その人にとって今週のバキ道は呪いになるのではないでしょうか。」と語っているわけだが、ディオが「娼婦のような立場から成りあが」る過程で「何百人もの男たちに慰みものにされ」たという発言はだれの呪いにもならないとでも思っているのだろうか。

 思っているのだろう、と考えるしかないが、どうしてそういうことになるのかは想像するしかない。

 おそらく、少なくとも金田さんのなかでは、自身の発想は十分に「進化」し、あるいは「アップデート」されたものだと認識されているのだろう。それは範馬勇次郎の(そしておそらくは板垣恵介の)ウルトラマッチョな性的幻想とは質的に異なるものであり、「性暴力」などではないということなのだろう。

 そのように自認しているからこそ、『ジョジョ』の実作者である荒木さんに対して平然と自身の性的ファンタジーを語れるに違いない。彼女にとっては、そのファンタジーはまったく後ろめたいものではないのだ。

 だが、「慰みものにされ」たという表現から性暴力を連想しないことはむずかしいし、仮にそれをディオの純粋な自由意思にもとづく売春であるに過ぎないと捉えるとしても、だから性被害はなかったということにはならない。

 セックスワーカーがしばしば強姦被害に合うことは客観的な事実だからである。そして「何百人もの男たちに慰みものにされ」たという表現から、性暴力の介在を意識しないことは困難だ。

 ぼくが「無邪気」だと考えるのは、まさにこのような発言である。

 女性の「感想」ばかり上げるのがアンフェアだとするなら、いまは具体的に提示できないが、男性の「萌えオタ」の美少女に関する性的だったり暴力的だったりする発言にも「幼児的無邪気さ」を感じることはあるといっておこう。

 だから女性だけ、男性だけを批判するつもりはまったくないのだが、先述のカレー沢さんの発言も含め、男性であるぼくがしばしば女性たちの男性キャラクターに対する「感想」に違和を感じることは事実である。

 ぼくはべつに、ディオで性的妄想をくりひろげるな、とは思わない。作者自身のまえで語ってしまうことはどうかと思うが、「そういう妄想は隠れてやれ」というつもりもない。

 何度でもいうが、ぼくがいいたいのは、自分の性的だったり空想的だったりする発言がひとを傷つけるかもしれないことを自覚し、その上で述べよということであって、「黙れ」ということではないのだ。むしろ「黙れば良いという問題ではない」といっておこう。

 だから、「世間から隠れる」というか「隠れたつもりになる」ことでそういった自分たちの隠微な欲望をそのまままったく無批判に温存しようとする姿勢にもぼくは反対なのである。

 上記の記事では金田淳子さんを「フリークス」と呼んでいるが、たとえば『カードキャプターさくら』の性的妄想を嬉々として語る男性オタクが彼女と比べてよりフリークス的ではないといえるだろうか。

 おそらくはだれもが程度の差はあれ怪物なのだ。だから、ぼくはいう。あなた自身の内面を見つめよ、その上で表現し発信せよ、と。

 小説家の山本弘に『水色の髪のチャイカ』という短編小説がある。ある作家の作中の人物である少女「チャイカ」が現実にあらわれてその作家と触れ合うというストーリーなのだが、そのなかでその作家が「ぼくはサディストだ」といって物語のなかで彼女を傷つけてばかりいることを詫びる描写があった記憶がある。

著:秋口 ぎぐる, 著:山本 弘, 著:高井 信, イラスト:あるまじろう
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 山本さん本人の弁によると、この作家にはかれ自身が投影されているということである。あまりにもナイーヴな話ではあるが、ぼくはこのエピソードが嫌いではない。

 あるフィクションに対し、作家の立場であれ読者の立場であれ真剣に向き合うのなら、あまりライトにカジュアルに消費することはできなくなるのではないかと思うのだ。

 当然、すべては程度の問題にしか過ぎないし、だれもが「平等や倫理」を無視して作品を楽しむことに罪悪感を覚えるべきだということも変だ。

 それでも、ぼくは思う。少なくとも自分自身は、作品に対しあたう限り真摯に、誠実に向き合いたいものだと。

 それは、作品を「暴力的に」読み、語らないということではない。決して自分の行為が暴力的であることから目を逸らさないということである。

 その境界は必ずしも明瞭ではない。しかし、ぼくはある作品をひたすらに気持ち良く消費しようとは思わないし、もしそうすることが「オタク」であるというなら、オタクでなどなくてもかまわないと考える。

 ぼくは自分の「性癖」に合っているものというよりは、やはり「良い」もの、「優れた」作品にこそふれたいのだ。その意味で「地雷」とか「性癖」という言葉はぼくにとっては意味を為さない。そのような分類とは異なる価値観で作品を判断するからだ。

 もちろん、ぼくにも嫌いな作品、受け入れがたい作品はある。だが、それは「地雷だから」「性癖だから」受け入れられないわけではない、と捉える。それが自分自身の人格と個性の問題なのであって、たまたま地雷を踏み抜いてしまったわけではないと考えるわけである。

 その意味でぼくは「古いオタク」なのかもしれないが、それならそれでかまわない。

 すべてのオタクは、あるいは人間は、どこかしらモンスターなのである。その怪物性を、直視せよ。どこまでも、まっすぐに。

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