先日、「表現の自由を守る」ことを公約に活動してきたことで知られる山田太郎議員が不倫を働いたと報道された。
いわゆる「パパ活」買春だったといわれているが、本人はいまのころその点に限っては否定しているようだ。真実はわからない。ただ、いずれにしろ、大変なスキャンダルである。
そのことについて、このようなツイートがあった。
🔴不倫=性依存症ではない
という事は重々承知しております。
しかし、正直なところ
「その段階から性依存症を疑ってゆかないと遅い」というのが実情だと痛感しています。
不倫は問題行動であり、自身のコントロールを失っている境界線です。
実は本人も望んでいる結果ではありません。— 津島隆太 (@Tsm_Ryu) 2023年10月25日
不倫する人は 本当に心の底から家族を傷つけ、嘘をつき、信用を全て失ってまでセックスしたいのでしょうか? 本当は不倫なんて望んでないのではないですか?
性欲に狂わされる人生を送りたかったんですか?
そんな人間になりたかったですか?
考えてみて欲しいです。 本当はしたくないはずです。
— 津島隆太 (@Tsm_Ryu) 2023年10月25日
非常に面白い、そういって悪ければ興味深い論点だ。
山田太郎議員本人は、ほんとうは不倫をしたいとは望んでいなかったのではないか、ただ、そうせざるを得なかったのではないかということである。
それは必ずしも「セックス依存症」ではないかもしれないが、それに近い症状が背景にあったかもしれないと考えるわけである。
この一件についての真実は知りようもないが、卓見に思える。
とはいえ、こういった意見を鎧袖一触に否定し去ることは容易だろう。
それは聞き苦しいイイワケに過ぎない、いい歳をした大人が自分の意思で選んだことには責任を取らせる必要がある、ましてかれは一家庭人、一政治家として家族と支持者をともに裏切ったわけであり、糾弾と罰則こそがふさわしいのだ、と。
ひとつの納得がいく意見である。しかし、わたしとしては、このような「正論」にいくらか疑問を覚えないこともない。その、鋭く尖った「正しさ」に一抹の不信感を覚えるのである。
もちろん、国政をあずかる国会議員の身でありながら、不倫、まして買春を働いたことを肯定的に受け止めることはできない。
ソーシャルメディアでは「ハニートラップではないか」と議員を擁護する声も見られるが、明確な根拠はないし、仮にそうであったとしてもあっさり「陥落」した責任は紛れもなく議員当人にある。追求を逃れることはできないだろう。
だが――そう、わたしは「だが」と付け加えたい。
上のツイートに書かれているように、本人はその奈落に落ちたくなかったのではないか、それなら、かれには「助け」が必要なのかもしれない、と考えたいのである。
これは控え目にいっても議論を呼ぶ話だろう。あるいは、激烈な反発を感じる人すらいるかもしれない。
その理由はわかる。不倫や売春は、犯罪とまではいかないかもしれないにせよ、非道徳的な背徳の行為である。
かれを応援していた家族や支持者に対する大きな裏切りであることはまちがいない。
そのような罪深い人間に対し、こともあろうに「助け」が必要だとは納得いかないという声が出て来ることは十分に予想できる。
しかし、わたしは思うのだ。このような、依存症とまではいかないかもしれないにせよ、あきらかに自分をコントロールすることに失敗してしまった人に対し、ただ懲罰(ディシプリン)を加え烙印(スティグマ)を押しつけるだけでほんとうに問題を解決できるのだろうか、と。
そもそも、この社会で悪徳とされるあらゆる行為は、どこかに人を惹きつける昏い魅力を秘めている。
非道徳的なセックスもそうだし、マリファナやコカインといった麻薬もそうだろう。それらに手を出すつもりがある人は少ないとしても、そのような行為にほのかに惹かれるところがあるという人は意外に少数とはいい切れないのではないか。
もちろん、たとえそうであるとしても、じっさいにそれらに手を染めるかどうかは大きな差である。
大半の人は、ドラッグや性的乱交に多少の興味はあっても、現実に実践しようとはしないだろう。
だが、一方でほとんどの人は、程度の差こそあれ、自分をコントロールし切れなかった経験を抱えているはずだ。
食べてはいけないアイスクリームを食べてしまったり、ゲームに夢中になって仕事のことを忘れてしまったり、ほんとうは寝ないといけないのに夜更かししてしまったり、そういうことはだれにでもあるだろう。
それらのひとつひとつは些細なことだ。ただ、それが行きすぎると依存症になり、さらには反社会的な問題行動にもなりえる。
不倫や過度な性的逸脱もそのひとつと見ることができる。
「やめたほうが良いとわかっているのに、やってしまう」。きわめて愚かなことであるかもしれない。
だが、そのような「セルフコントロールのむずかしさ」は人間のきわめて人間的な側面といっても良いのではないだろうか。
まして、セックスに関する欲望は、いままで多くの偉人を破滅に追い込んできた。
今回、山田議員を不倫の関係に落とし込んだものが果たして単なる性欲だったのか、それとも、もっと昏い、もっと破滅的な情欲が何か蠢いていたのかはわからないが、性に関する葛藤はほとんどだれもが避け切れない人間性のダークな一面である。
だから許せとか、認めろということではない。そうではなく、そのような「コントロール不全」を抱えた人に対しては、一定の罰則とともに何らかのサポートがあって良いのではないかということなのだ。
自業自得だと切り捨てることはたやすい。じっさい、それはそうなのかもしれない。だが、すべては自己責任だとして人を見捨てる社会より、何らかの失敗を犯した人間に対して積極的に援助や支援を行う世の中のほうが生きやすいと思うのである。
そして、そういうふうに考えてみると、「愚かな逸脱行動」を取る人間は、一部の特殊な人なのではなく、それをどうにか制御している我々自身にきわめて近いところにいるといえる。
我々はだれもがみな、紙一重で愚かなことに依存してしまう存在なのではないか?
もちろん「その紙一重こそが重要なのだ」ということはできるし、それはその通りだと思う。
ただ、わたしは一方で思うのだ。そういう愚劣な行動に出た人に対しても「懲罰をあたえるべきだ」ではなく「助けが必要なのではないか」と考えることもできるだろうと。
自立と自律をむねとするこの近代社会においてどうしても自分をコンロールできない人、たとえばパートナーに嘘をついて不倫をしてしまうような人は、一般に軽蔑と批判と懲罰の対象になる。
それは「正しい」一面もあると思う。それはそうだ、とわたしも思う。思うのだけれど、 どうしてもその「正しさ」でひたすらに人を責め、あざ笑い、糾弾していくことに疑問がある。
わたし自身、そこまで立派な人間ではないからだ。
そして、また、そもそも「依存すること」はそこまで一概に悪いことだといえるのだろうか。最
近、わたしが夢中になって読んでいる松本俊彦と横道誠の依存症に関する往復書簡には、このような記述がある。
要するに、私はこう考えています。確かに依存症は人を死に追いやる危険があるものの、その萌芽的なものは誰しも抱えていて、それがあるからこそ「しんどい今」を生きていられる面もある、と。
また、以下の記事では、依存症患者の特徴として、このようなことが書いてある。
ちゃんと取り組まなくてはいけないと目が覚めて、患者さんの声にじっくり耳を傾けるようになりました。そんな態度で聞くと今まで話してくれなかったことを色々話してくれます。
「この人もか」「この人もか」と驚きを感じ、依存症の患者に共通する6つの問題がわかってきました。1.自己評価が低く自分に自信をもてない
2.人を信じられない
3.本音を言えない
4.見捨てられる不安が強い
5.孤独でさみしい
6.自分を大切にできない男女、年齢、使っている物質関係なく、みんな似たような問題を抱えていました。
みんなかなり悲惨な思いをして生きてきたのです。虐待、ネグレクト、いじめ、性被害、父親のアルコール問題、病気や障害など「よくここまで生きてきたね。よく頑張ってきたね、1人で」という思いになる人ばかりでした。
それがわかると、犯罪だからと責めていいのかと思いますし、薬物があったからこそ、ここまで生き延びてこられた人も少なくないのです。
つまりは、何かに依存して自分をコントロールできなくなる人たちは、わたしたちから切断されたとくべつ愚かな存在ではなく、わたしたち自身がひょっとしたらそうであったかもしれない可能性を生きている人たちといえるのではないかということである。
また、依存症そのものは大きな問題だとしても、何かにハマること、依存することは程度しだいで人の生を支える一面も持っているのではないか。
だが、もちろん、何であれ依存し過ぎれば破滅が待っている。だからこそ、「ディシプリンとスティグマ」に加えて、「サポート」が必要になって来ると考える。
最近の依存症治療には、「ハームリダクション」という方法が採用されることがある。これはまさに懲罰より支援を基盤とする方法論である。
ハームリダクションとは,「その使用を中止することが不可能・不本意で ある薬物使用のダメージを減らすことを目的とし,合法・違法にかかわらず 精神作用性物質について,必ずしもその使用量が減少または中止することが なくとも,その使用により生じる健康・社会・経済上の悪影響を減少させる ことを主たる目的とする政策・プログラムとその実践である(Harm Reduction International: HRI)」1).ハームリダクションは,薬物使用者,家族, コミュニティに対して,寛容さをもって問題を軽減するきわめて現実的な政策・プログラムである.
欧州,オーストラリア,カナダなどを中心に,最も成功している効果的な ハームリダクションと その考え方 第1章 2 JCOPY 498-22914 Harm Reduction Approach 薬物政策として広がっているが,東南アジア,日本を含めた東アジアなど反 対する国は少なくない.
ハームリダクションは,薬物の使用量減少や中止を主目的とはしておらず, 薬物使用を止めることよりも,ダメージを防ぐことに焦点を当てる.薬物を使っているか否か,それが違法薬物であるか否かは問われない.ハームリダ クションは,科学的に実証された,公衆衛生に基づく,人権を尊重した人道 的で効果的な政策であり,個人と社会の健康と安全を高めることを目的とする.
そのアプローチは,公衆衛生と基本的人権への非常に強いコミットメント (誓約)を基盤としている.尊厳はすべての人にあり,薬物使用を繰り返す 依存症者であっても基本的人権と尊厳は守られ,薬物のコントロールや予防 対策の名のもとで,彼らの尊厳と基本的人権をスティグマによって蔑ろにすることは許されないという哲学に基づいている 2).
この「ハームリダクション」的なサポートが、不倫や家庭内暴力、パワハラといった問題行為の当事者に対しても必要だろうとわたしは考える。
つまりは自分自身をコントロールできずに苦しんでいる人間には、懲罰以上に支援が必要だということである。
もちろん、山田議員のケースにそういう考え方がふさわしいかどうかはわからない。本人が望むかどうかも知れない。
だが、わたしは一般に「犯罪」とされる行為も含めた、ある種自傷的な「コントロール不全」一般に対しては、何らかの外部的な支援・援助がなければ解決しないのではないかと思っている。
そのような依存的行為の当事者はたしかに愚かしく、欲望にただれた、つまらない人間にしか見えないかもしれない。
しかし、そのようなわかりやすいスティグマだけで人は語り切れない。
そのような人は、みな、その人なりの苦しみを抱えているのである。助けの手を差しのべても良いのではないか。たとえ、それが拒絶されるかもしれないとしても、それでも。
わたしはそう考える。
山田議員の話は一ケースに過ぎない。その他の、もっと深刻な事件でも、「加害者」になってしまった人に対してもサポートがあるべきだろうと思う。
それは、左翼思想的な「加害者の人権を大切にする」だけのことではない。そのほうが、結果的に社会は安定すると思うのだ。
とはいえ、「悪人や犯罪者になぜ手厚いサポートが必要なのか」という意見には反論しがたいものがあることもたしかだ。先述した通り、それは一面では正論である。
ただ、わたしはそのような「正しさ」をどうしても信じ切ることができない。「善」と「悪」を分け、「われわれ」と「あいつら」を分け――そうやって人間の関係をきれいに切断していく「正しさ」には、どこかで限界があるのではないか。そう思うのだ。
あなたはどう思われるだろうか。
あらゆる「悪」を一刀両断にする苛烈な「正義」のその向こう側で、わたしは、もっと赤裸々な人間存在そのものと出逢いたい。
【お願い】
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