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人生を輝かせる予測不可能性とはなにか。

 「中年が人生に輝きを取り戻す、唯一のコツ」という記事を読んだ。

 人が中年になるとやる気を失ってしまう、いわゆる「中年の危機」について書かれた内容で、中年が人生に輝きを取り戻すカギは「予測可能性」にあると記されている。

中年の悲哀の本質は何か。
 
それは、「人生の予測可能性の高さ」です。
つまり、「私の人生はこんなもので、これからも特に大きなイベントは何も起きない」とわかってしまうことに起因するのです。
これは「希望のなさ」というか、人生が消化試合に入ってしまったことを意味します。
 
先が見えたゲームほどつまらないものはないです。
結末のわかっている推理小説は興ざめです。
ネタバレされた映画の魅力は半減します。
先が読めてしまった人生は、色褪せます。
 
不安定な人生に比べて、予測可能性の高い人生は、一見すると安定していて良いように感じます。
が、実は「予想外」のない、ルーティンワークをこなすような人生は短く、かつ、つまらない。
 
逆に言えば、子供の頃は、「知識がない」「経験がない」「予想がつかない」がゆえに、不安と、そして希望と楽しさがある。
人生の予測可能性が低いこと、それが一種の「無知による幸福」をもたらしていたのです。
 
生き生きとするためには、
「この選択が、人生にどのような結果をもたらすのか?」
が不透明であることが重要です。
 
恋愛や結婚。
場合によっては就職。
あるいは子をなすことは「予測可能性」を低くします。
 
そういったイベントは、不安に駆られる一方で、人はそこに希望を感じる。
不安と希望は、トレードオフなのです。

 一読、なるほどと思う一方で、少し違うかな、という気もする。

 たしかに「希望」を得る行為には必然的に「不安」がともなうわけだが、しかし「不安」になればそれで「希望」が手に入るというと、そうではないだろう。

 たとえばいますぐ仕事をやめて、家を捨て、ホームレスになったなら将来への不安と引き換えに「人生の輝き」が戻って来るかといえば、そんなはずはない。ひたすらにネガティヴな可能性を増やすことで「輝き」を得ることはできないわけだ。

 そう、人生が輝くのは、「ポジティヴな意味での可能性」が存在する場合に限られるのではないだろうか。

 たとえば「プロ野球選手になれるかもしれない、なれないかもしれない」といった可能性は人生を輝かせる。しかし、「プロ野球選手になったものの、来年は解雇されるかもしれない、されないかもしれない」という可能性が人生に「輝き」をもたらすとは思えない。

 ようは人間は「何かを獲得できるかもしれない可能性」があるときに溌溂と生きることができる。しかし、じっさいに獲得してしまったらすぐに退屈する。そういうものなのではないだろうか。

 こういうことを書くとき、ぼくが思い出すのが島田紳助だ。波乱の多い芸能界においてトップ・オブ・トップの地位を長年にわたって維持した天才的な芸人だが、一時期のかれはその成功に退屈し切っているように見えた。

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 なまじ頂点に登り詰めてしまったためにできることといえば現状維持だけ。そういうつまらなさがかれの言動や行動からはにじみ出ているように感じられたのだ(もちろん、ほんとうにそうなのかはわからないけれど)。

 何をやってもあっさり成功してしまう。それはうらやましいようだが、じつは退屈なことなのかもしれない。

 同じようなことを、ぼくはマンガ『刃牙』の範馬勇次郎を見ていても思う。勇次郎は名実ともに最強で、ほとんど万能の超絶格闘家だが、いつも退屈していて、いらだっているように見える。

 かれもまたなまじ最強であるだけに、ひたすらその地位を維持する以外にやることがないのだ。ちょっと『ワンパンマン』の主人公サイタマと似ているが、勇次郎は遥かに孤独で子供っぽく、いつもほんとうにつまらなそうである(嬉しそうにするのはだれか人を煽っているときくらい)。

 ここにはたしかに一種のパラドックスがある。人が生きることに張り合いを感じるのは「成功するかどうかわからない」行為にチャレンジするその瞬間であって、「失敗することが決まっている」ことはもちろん、「成功することが決まっている」ことも同じくらい退屈だということなのだ。

 したがって、人生を輝かせる予測不可能とは、あくまで「不たしかな獲得の可能性に賭ける」ことによってしか生まれない。そして、そのチャレンジを行うためには一定のエネルギーが必要だ。

 一連の「中年の危機」言説の元になっていると思しいPhaさんの本を読んでも思ったが、中年になって人生がつまらなくなるのは新たな可能性に賭けるエネルギーがなくなるからではないのか。

 いま持っているものを守ろうとする心理が強くなるあまり、「新たな獲得」に力を費やせなくなるのだ。

 もちろん、そういったディフェンシブな生きかたもリスクマネジメントの観点からはそれはそれで尊重されるべきものだが、つまらないことは否定できない。

 いつも新しい目標をもち、それに向かって少年の目をしてまい進している人は退屈をしらないことだろう。成功すれば成功するほど退屈する範馬勇次郎のパラドックスを乗り越えるカギはどうもそこら辺にありそうだ。

 自分が安定して勝てるフィールドでだけ勝負することをやめて、新たな挑戦分野を開拓しつづけること。

 もっとも、そもそも中年になっても一向に成功と縁がないぼくのような人間はただ必死にもがくだけである。「中年の危機」も何もあったものではない。

 その意味で「中年の危機」を迎えるのは一定の何かを持っている人間なのだろう。「日本一有名なニート」はそれを迎えるが、ほんとにただの無職のぼくにはそもそも関係がない話なのだ。

 ぼくももっと挑戦するべきなのも、という結論なのだった。がんばろ。