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べつにこのままSF小説が中高生に読まれず滅び去ったとしても良いんじゃないか論。

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【若者とSFと】

 飯田一史さんの「中高生にSFを読んでもらうには」と題した講演録が話題だ。

 「狭義のSF小説」が読まれなくなっていることと、どうすれば読まれるようになるかが切々と語られていて、なかなか説得力に富んでいる。

 飯田さんはかつての『ベストセラー・ライトノベルのしくみ』以来、若年層の読書週間についての定量的な調査をもとに「いまじっさいに何が読まれているのか」を語ってきた数少ない論者のひとりなので、信頼感はある。

 しかし、その一方で、「そもそもどうしても中高生にSFを読んでもらう必要があるのか」という点が疑問だというのが正直なところ。

 もちろん、「ジャンルSFの側から見れば」中高生にSFを読んでもらうことには大きな意味があるだろう。

 若い頃にまったくSFに触れていない人が大人になってから急に大人向けのSFに目覚めるとは思えない。

 大人向けのジャンルSFに読者を呼び込み、そういった作品を長く続けるためには、いわば「入口」としてかつてはたしかにあったような「中高生向けのSF」が必要になる。その指摘はおそらくある程度は正しい。

 だが、それはあくまでジャンルSFの都合で考えた話である。

 現実に中高生の側に「SF的な小説を読みたい」という需要が見られない以上、あえて読ませようとしても意味がないのではないかというのがぼくの見解だ。

 もちろん、たとえばライト文芸的な見た目とエモさでなおかつSF的な仕掛けがある小説を生み出していくことにはそれなりの意義があるかもしれない。

 ただ、仮にそういったSF小説を生み出したとしても、ジャンルSFの視点から高く評価されることはほとんどありえないだろう。

 そもそも現在のライトノベルやライト文芸にも広い意味で「SF的なしかけ」が施されてるものはないわけではないはずである。

 ただ、そういったものは「SF」とはみなされないのだ。

 これはいわゆるSF的なアイディアやガジェットの「浸透と拡散」の結果であり、いまやかつてはSFの専売特許だった概念は「いたってあたりまえ」のものと化して、狭い意味でのSFではない小説でも広く使用されるようになったわけである。

 それはSFの勝利であるかもしれないし惨敗であるかもしれないが、とにかく昔日とは状況が変わっている。

 この状況下で、あえて「SFという名称」に拘る意味は何か。

 やがて狭い意味でのジャンルSFにつながる「入口」を作りたいというジャンルSFの側の都合だけ押しつけようとしても意味がないのではないか。

 そういう意味ではここら辺のポストはぼくの見解と近い。

 たぶん、もしぼくがいま、中高生をやっていたらあえてSFを読もうとはしないんじゃないかなという気がする。

 まあ、あまり意味がある仮定ではないにしても、仮にそうだったら、ふつうにいま流行っている作品を読むんじゃないかな。

 そして、そもそも「中高生に読まれているSF」はSFとは呼ばれないのではないかという気がしてならない。

 これは飯田さんも少しふれていることだが、たとえばしばらくまえにヒットしていまでも刊行が続いている『ソードアート・オンライン』にしても『魔法科高校の劣等生』にしても、ある種のSFと呼べなくもない設定ではあるのだけれど、ジャンルSFの側から評価されることはまったくなかった。

 『SAO』の「アリシゼーション編」なんてちょっとしたSF的アイディアをふくらませにふくらませたという意味で大傑作だと思っているが、ジャンルSFの中でも外でもSFとして高く評価されているところを見たことがない。

 また、飯田さんが挙げているライト文芸のヒット作も、タイムトラベルを使ったりしているようなので、SFの仲間だとして語ることもできそうではある。

 だが、あえてSFとして読まれも語られもしないわけである。こういった状況を「嘆かわしいことだ」と語る資格は、多くのSFファンにはないだろう。

 「狭い意味でのSF」を高く評価する一方で、その周辺に存在している「ニアSF」のことは無視する傾向はたしかにあったのだから。

 もし、コアでハードでディープな「本格SF」を読んでもらいたいなら、もっと「浅い」SFの層がいわば裾野として必要になるはずである。

 だが、そういったSFは多くのSFファンにとっては「浅く」、「物足りない」印象を受けるものであるかもしれない。ディープな本格ミステリのファンにとって多くの探偵マンガが物足りないように。

 だから、もしジャンルSFを広げたいとか残したい思うなら、まずはそういったSFファンの評価軸そのものを変えていくところスタートするのが良いのではないかと思うのだが、これはそう簡単にはいかないだろう。

 いまのジャンルSFの状況は狭い意味でのSFファンにとってはそれなりに心地良いからだ。

 たとえこのまま少しずつ衰えていくとしても、あるいはSFファン好みのクオリティという意味ではより洗練されていくかもしれないし、それはそれでしあわせなことなのではないだろうか。ぼくはそう思う。

 もっというなら、「SFという名前」が残ることが望ましいと考えているのか、それとも「いまSFと呼ばれているような中身」に残ってほしいのか、飯野さんの講演はいささかあいまいにも感じる。

【面白いSFはたくさんあるのだけれど】

 ちなみに、今年の『SFが読みたい!』のランキングで首位を取ったのは高野史緒『グラーフ・ツェッペリン あの夏の飛行船』である。

 タイトルといいカバーイラストといい、ライト文芸っぽいと感じるのはまんざらぼくばかりではないだろう。

 あらすじはこんな感じ。

二人で飛行船を見上げた日から ずっと忘れられずにいた君はもう一つの2021年を生きていた 『僕が愛したすべての君へ』『君を愛したひとりの僕へ』 『なめらかな世界と、その敵』に続く青春SFの新たな金字塔 

〈内容紹介〉

月と火星開発が進みながらも、インターネットが実用化されたばかりの夏紀の宇宙。宇宙開発は発展途上だが、量子コンピュータの開発・運用が実現している登志夫の宇宙。別々の2021年を生きる二人には幼いころ「グラーフ・ツェッペリン号」を見たという不可解な記憶があった。二人の日常にかすかな違和感が生じるなか、開通したばかりの電子メールで自分宛てのメールを送っていた夏紀のもとへ思いがけない返信が届き――。

 もうこれだけで傑作に違いないと思えるわけだが、こういうエモいライト文芸「に見える」SFはありではあるかもしれない。

 とはいえ、おそらく若年層に読まれるにはその「SF部分」こそがネックになるかもしれないけれども。

 『百合姫』の表紙で連載された伴名練のタイムトラベル百合SFの傑作(!)『百年文通』とかSF的にも百合的にもめちゃくちゃ面白いし、中国の作家・陸秋槎の『ガーンズバック変換』とか、見た目の印象だけなら若者向けっぽい印象がなくもないのだけれど、いずれもやっぱり「入門編」とはいかないだろうなあ。

百年文通

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 飯田さんの提言は真摯なものだとは思うが、狭い意味でのジャンルSFファンダムは変わらないだろうし、変わりたいとも思っていないだろう。

 クラシックSFファンの女の子を主人公にした山本弘の小説などを読むと、認識の違いにくらくらしてくるくらいである(これはさすがに極端な例だとは思うけれど)。

 だから、ぼくはただこう考える。

「どうせ滅びるなら、せいぜい華麗に滅びれば良いのだ」

 おそらく、「SFという名称」が完全に忘れ去られるまでまだ間がある。それまでに一作でも多くの傑作SFが生まれることを祈るのみである。

【さいごに】

 最後までお読みいただきありがとうございます。

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