「ポリコレ」概念は空疎だけれど、完全にオタクの妄想ってわけじゃないよ。

 はてなブックマークで上がって来ていたこのような記事を読んだ。

 いわゆる「ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)」がどのような経緯を経ていま、批判や嫌味や罵倒のための言葉として使われているのかという解説である。

 ほぼ一年半ほど前の記事のようだが、漠然と認識していた「ポリティカル・コレクトネスという言葉」のヒストリーを通史的につまびらかにしていて、勉強になった。

 きわめて粗雑に使われがちな言葉をその変化のプロセスを踏まえた上でていねいに再定義する非常に有効な力作記事だと思う。

 「ポリコレ」が実体を欠いた空虚な概念にしか過ぎないというのはまったく賛成で、「ポリコレ」を巡る議論は、賛成の側に立つにせよ反対の側に与するにせよすべてむなしい。言葉の明確な定義が存在しないからだ。

 そのことを理路整然とあきらかにしただけでも、とても意味がある内容なのである。

 しかし、一方で気になる点もなくはない。個人的に違和感を抱いたのは、日本において「ポリコレ」概念が流行した理由について解説している箇所である。

 それにしてもなぜ日本でも陰謀論的な反「ポリティカル・コレクトネス」がアメリカと同様に定着できたのでしょうか。もちろん日本にも右派も保守派も存在しますから、アメリカのように対立を煽る目的で活用していこうという流れが1990年代からあったのは推察できます。でもそれだけで全部説明できるのか。日本では「ブラック・ライヴズ・マター(Black Lives Matter)」や「#MeToo」も無かったのだから、そのバックラッシュも少なくともこの2015年付近には盛り上がらないはず…。

考えられる理由はいくつかあります。

ひとつは、バブル崩壊以降、90年代~00年代の間で「氷河期世代」「引きこもり」「ニート」「オタク」といったいわば劣等感を強く内在させる言葉が盛んにもてはやされ、まさしくその社会の空気に圧迫され、重度の劣等感をこじらせた人たちが生じてしまったこと。現在の反「ポリティカル・コレクトネス」の原動力は劣等感ですから。そういう人たちに政治的な支援があればよかったのですが、政権はそれを怠り、一方でそういう人たちは政治に声をあげるという慣習が育っておらず、結果、「勝ち組」や「リア充」と表現される人たちへの敵意へと向かい、今はそれは「マイノリティという奴らはポリティカル・コレクトネスで“パイ”を独占している」という妬みへと形を変えている…。

 そうだろうか。

 ここを読む限り、まるで「ポリコレ」に対する批判はひきこもりやオタクやニートと呼ばれる人たちが劣等感をこじらせて妄想を抱いた「だけ」と思えてしまう。

 ようはふつうではない「オタク」や「ネトウヨ(上記記事のなかにはこの言葉は出てこないし、そもそもこれもかなり実体を欠いた言葉だけれど)」がルサンチマンを燃え上がらせて明白な「正しさ」にいらだちをぶつけているだけなのだと主張しているようにしか読めないのだ。

 ぼくは個人的には「そうではない」と考える。「ポリコレという言葉」に明確な定義も中身もないことはたしかだが、「多くの人たちがポリコレという言葉で批判しようとしている対象」がまったく実在しないかというと、そうではないだろう。

 つまり、「ポリコレという言葉」は、少なくとも日本では「傲慢で上から目線の左派論客」や「既存作品の内容改変」、「表現規制を進めようとするフェミニスト」などを雑然と批判するために使用されているのであって、その批判のやりかたが粗雑であることは間違いないとしても、「ある程度は」内実をともなっているのではないかと捉えている。

 もちろん、左派の傲慢さやフェミニズムの頽廃といった問題は、それぞれ関連はありつつも別個の問題として認識するべきである。

 それらを一個にまとめて、あたかも巨大な悪の組織があるかのように語ることを可能にしているという意味で、「ポリコレという言葉」にはたしかに陰謀論的な一面がある。悪の組織ショッカーのような「ポリコレという実体」などどこにも存在しないのである。

 しかし、だからといって上で語ったような「それぞれ別個の問題」までが単独に存在しないかというと、そうはいえない。

 悪の組織「ポリコレ」は存在しなくても、一見すると何の問題もなさそうな美少女イラストをやり玉に挙げて批判するフェミニストは実在するのであって、決して「オタクやネトウヨの妄想」で済ませられることではないのだ。

 つまり、問題は「それぞれ異なるプロセスをたどって進展してきた複雑な問題をポリコレという言葉で単純かつ乱雑にまとめて語ってしまうこと」なのであって、その「複雑な問題」そのものが存在しないわけではないということ。

 上記の記事では、また、「ポリコレ」という言葉をもちいた批判は、ただ「自分が気に入らない」ということのパラフレーズに過ぎないとされている。

「要するに「自分がこの作品は気に入らない」ということを言いたいだけ、つまるところ「アンチ」としての新しいアプローチが「ポリコレだ」批判であるというケースが大半でしょう。

そしてその「気に入らない」の範囲はかなり偏向しており、「多様性っぽさ」に集中的に向けられます。要するに「ヘイトスピーチ」の一種にもなっています。直接的に「同性愛は嫌だ」と言えば差別主義者そのもなので「ポリコレだ」と言うことでボヤかしつつ溜飲を下げているような感じです。

「The Mary Sue」では、(アメリカでは)保守派の間では「裕福で屈強なシスジェンダー・ヘテロセクシュアルな男性を崇拝しない」作品に対して「ポリコレ(woke)」という言葉がぶつけられると説明しています。」

 そのような側面は、たしかにあるだろうとぼくも考える。ほんとうは黒人や同性愛者が登場していることが気に喰わないのだが、そう直接に口にするわけにはいかないから「ポリコレだ」と批判する。そういうことはたしかにありえるだろうし、あるだろう。

 だが、一方で「それだけではない」こともたしかである。上記記事には「表現規制」のひの字も出てこないが、日本で「ポリコレ」という言葉が広く使用されることになった最大の理由は、オタクのひねくれた劣等感などではなく、自分たちの好きな作品が規制、あるいは改変されてしまう可能性への反感だろう。

 この点をわかりやすく説明するポストがあったので引用しておこう。

 じっさいに「食パンマンとカレーパンマンがゲイになる」ような展開をしている作品がどれだけあるのかはともかく、多くの人が欧米の作品にはそのような傾向があると感じており、その「正しさにもとづく表現の改変」が日本にもやってくるのではないかという危機感がかれらを不安にさせているのだ。

 そして、そこにフェミニストたちによる表現規制を目的とする抗議や、左派によるいわゆる「キャンセルカルチャー」の問題がやはり雑然と重ねられ、「ポリコレ」なる悪魔への反感へと変身していると見ることが妥当なのではないだろうか。

 もちろん、そういった不安をあおって「それはポリコレが悪いのだ」と風潮して支持を稼ぐ「インフルエンサー」たちの問題も指摘できる。

 いうまでもなく、こうした粗雑な「反ポリコレ」にぼくは賛成しない。別個の問題は別個の問題として可能なかぎり繊細に批判していくべきである。「あいつはポリコレだ!」といった乱暴な敵/味方認定はくだらないし、現実に合っていない。

 だが、だからといって表現規制や改変の問題はまったくの妄想などではないのだ。いくらでも証拠を出せるし、ほとんどの人はそこまでしなくても納得してくれると思うが、表現規制を希望する人たちは現実にいる。かれらの動機が必ずしも「ポリコレ」のひと言で済まされるものではないとしても。

 また、「日本人は劣等民族」などと平気でのたまう左派論客もいるし、政治的に不適切とされる言説を展開した人物が「キャンセル」されて仕事を奪われてしまう出来事も、いまのところは海の向こうのことではあるかもしれないが、ある。

 くりかえすが、それらをひとつのシンプルな問題として「ポリコレ」などと呼称するべきではないだろう。しかし、それらはやはり近接し関連した問題ではあり、それ故にひとつのものと見えやすいのだ。

 もうひとつ付け加えておくなら、一見して「ポリコレ」の結果のように見える問題も、じっさいには現実社会の市場の多様化に対するビジネス的な反応に過ぎないこともありえる。

 現実にマーケットが多様化しているのだから、ビジネスとしてそれに対応する必要がある。それだけのことが謎の「ポリコレ」なるものの魔手として認識されてしまうという問題はあるだろう。

 「ポリコレ」を巡る争いは、賛成側にせよ反対側にせよ、まったく意味がない。しかし、それでもきょうもインフルエンサーは笛を吹き、人々は踊る。それはもう、そういうものだとあきらめるしかないのかもしれない。

 まったくあきらめてしまいたくないからこういう記事を書いているのだが、しょせんぼくも含めて人間は「あいつらは敵だ。殺せ!」といった単純で極端な言説しか理解できないと見限るべきなのだろうか?

 結局のところ、そうなのかもしれない。いっそすべてに絶望してnoteあたりで男女対立を煽ったりしていればだれでもひとかどのインフルエンサーに成り上がれるのかも。

 だが、いまのところ、それはできない。だから、ぼくは「シンプル・イズ・ザ・ワースト」と呟いて悪あがきをする。

 アインシュタインはいった。

「Everything should be made as simple as possible, but not simpler.
 なにごとも可能なかぎりシンプルにすべきだ。しかし、シンプルすぎてもいけない。」

 この「simple」と「simpler」の落差にこそ問題がある。できるかぎりsimpleであろうと試み、なおかつsimplerに陥ることは避けること。それが大切なのだ。

 この記事もまた、ぼくなりの「悪あがき」のひとつである。すべてを単純に強烈に印象づけようとする流れに抗って、きょうもぼくはぼくなりに踊り、歌うのだ。

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